「異世界グランダリア生活記(7)~老人の半ズボンはやたらと丈が短く、若者の白衣は右袖がだらりと垂れ下がっていた……/後編~」
太々しいものだった。
書物にまみれた部屋の中。半ズボンの老人とそろそろ若者ではなくなりそうな私。
そのような2人が微妙な距離感で在る時間……そこに“彼”は「ズカズカ」と足音を鳴らしながら入ってきた。
「おぅ、爺ィ! 邪魔するぜ!?」
開きっぱなしの扉からぬぅっと、1人の男性が入室してきた。
薄暗い……というかほとんど闇の中みたいに暗い扉の先。廊下に続くのであろうそこから入ってきたその男性。
一目に私は「細長い」という印象を受ける。それはヒョロリとして背が高く、身体の厚みが薄い。また、白衣を纏っており、肩に金色の刺繍が目立っていた。
赤茶色の頭髪は長く、背中にすらりと垂れている。そして、垂れているといえば……その右腕。
太々しく入室した男性の右側。白衣の袖はだらりと不自然に薄っぺらく、そこには違和感を覚える。だが、そんなことなどこの時の私は気にもしなかった。なぜなら危機だからである。
だって……すでによく解らない状況にあった中。どうにか落ち着きかけていたところにヒョロリとした得体のしれない白衣が入ってきたらそれは恐い。見た感じからして「医者か何か?」と思う風体であるが……その目つきは鋭く、まったく優しそうな感じがしなかった。言動の全てに威圧感というか……粗暴な感じがあってその時は恐かった。
「爺ィ、あんたさぁ何度言ったら解って・・・・・ん?? なんだぁ、“コイツ”……学生か? いや、それにしちゃぁ……」
眉間にシワを寄せて口をへの字に曲げ、怪訝として私を一瞥する“白衣の男”。少し垂れ眼の目じりでさえも、その険しい印象はまるで緩和できていない。
尖ったような気配を私に向けて停止する白衣の男。私も数秒間は彼を観察していたが……すぐにその視線が恐くなって目を逸らした。思えば私はこの時から彼が苦手だったのだろう。
しばらく、居室には無言と静寂が張り詰めた緊張感と共に流れる。
やや緊迫した私達と違って、この部屋の主たる老人は「ほけ~~」として天井を眺めていた。彼はどうやら白衣の入室に気がついていないらしく、数十cm前に立っているというのにまるで視界にないかのような有様だ。
なんなら表情は恍惚としたものであり、涎でも垂らしそうな口の開きっぷりである。今なら「ああ、自分の世界に入ってたんだな」と解るが……この時はそれもまた不気味なだけであった。
白衣の男は無言で私の様子を窺った後。「まぁ、いいや」と肩を竦めてとろけ顔の老人を見下ろした。
小さな棚に腰掛けている老人だが、真っすぐと立つ白衣の男はそれを容易く見下ろしている。身長は180cmなど軽く越えており、平均的日本男児たる私からして「でけぇ……」と羨むようなものだった。
スラリと細長い男は左腕で頭髪を掻いた。赤茶色の髪が揺らぐが、それはよく手入れされているのであろう。フワリとしてすぐ、また癖のない真っすぐな様で落ち着く。
「ったく……聞いてんのか爺ィ? なぁ、オイ・・・・・いい加減戻ってこい、“ダニー”!!」
白衣の男が怒鳴る。怒鳴るというか、彼としては単に「声を掛けた」程度なのだろうが……私からするとそのように感じられた。
白衣の男はとにかく振る舞いが一々として粗野なのである。これは学生時代、クラスで一目置かれるような少し悪い男子生徒を髣髴とさせる感覚だ。まぁ、その印象は間違っていない……というか実際そのままほぼ真実だった。
粗野な男に怒鳴られた老人。それは声の大きさというよりは“名を呼ばれた”ことに反応したらしい。
恍惚として口を開けていた白髪の人は「ハッ!?」としたように表情を真面目とする。
そして目の前にあるヒョロ長い人を認識すると……今度は満面の笑みを浮かべて隙間だらけの歯をむき出しにした。
「おっほぉ~~!? なんだい、“ジェット”じゃないかぁ! いや~~、久しぶりだねぇ!」
「久しぶりじゃねぇだろうが。昨日に俺が飯持ってきてやったことも忘れたのか? しっかりしろや、爺さんよぉ……俺ぁ不安で仕方ねぇよ」
「え? そうだっけ……まぁ、いいじゃないか。ジェットよぉ~~、なんて丁度良い!! 聞いておくれよ、僕ったらまた1つ納得できたんだ! あのね、あのね――」
「あーあー、解ったよ! いつか聞いてやるから……その前にまずは、“コイツ”が何なのかを教えてくれや」
なんだか興奮した様子の老人。突拍子もない異変に思えるが、白衣の男はまるで動じることなく平然としている。慣れたものなのだろう。
そして白衣の男は私を指さした。左腕を突き刺すかのように差し向けて、身を屈めた姿勢で老人と私を交互に見た。
「ヒィィっ?!」
私は怯える。それはだってそうだろう……いくら線が細いとはいえ、見知らぬ高身長の男が威嚇するようにこちらを睨んできたらだれだって恐いはずだ。
怯える私を睨む白衣の男。それを満面の笑顔で見ている老人はこれも嬉しそうに答えた。
「そうそうっ、彼は“コウタくん”さ! あのね、こことは別の……そうだな、乖離された線の先に触れた接点を越えて生じた偶発的・ある種には意図的な混入者だよ! つまりは異世界の存在……いや、もう違うから“だった”が正しいよね?」
嬉しそうに語る老人。それと比べてなんと険しいものか……。
「ああ゛?? ・・・・・なんだ、そりゃ。てめぇは……そんな風に自分を名乗ったのか? っつか、どうしてここに入ってきた? いや、どうせ鍵なんざいつも掛かってないから手段は言わなくていい。“何が目的”なんだ? おぅ?」
白衣の男はさらに威圧的な表情となり、一歩進んで私の眼前に立った。そうして白衣の袖から左の手を露わとする。
よく見ると、その手先には薄手の赤い手袋が嵌められているのが解った。彼は手袋の端を噛んで嵌めなおし、身を屈めて私に顔を近づける。
「てめぇ……“こうたくん”?? 何が目的か知らねぇがよ……ここに居る爺ィはもう引退した身なんだ。静かに余生をおくらせてやってくれねぇかな? それに、何か探って奪おうたってよ……そうそう容易くこの人から得るものなんかないぜ。何せ理解できないからな……この俺以外に、本当の意味でこの人から学べる人間はこの世に存在しねぇんだ――――解るか?」
赤い手袋の指先。それが私の眼前でギュっと力を込めて合わされた。
親指と人差し指に力を込めて……指先越しにある彼の視線が私を直視している。
薄く赤みがかった茶色い瞳孔を眺めていると「また、何かされるの??」と不安に駆られ、自然と私の瞳には涙が滲んでいた。
“ パチンッ! ”
弾けるように鳴らされた音。それは私の目の前で擦り生じられた“指パッチン”の音だ。
手袋越しなのでやや掠れが強く、されどしっかりと打ち鳴らされた指パッチン。私は「ヒィィィっ!?」と目を瞑り、手にしている分厚い本で防御した。
怯えて目を閉じてしばらく。数秒してから私が恐る恐るに目を開くと……。
少し暗くなっていた。半端に隠れた窓からは斜陽の陽射しが入っているものの……明らかに部屋の明度が下がっていた。
私は何が変化したのか解らず、少し戸惑った。しかし、「あっ」としてテーブル上の変化に思い当たる。
それまでにあった部屋の灯……つまりは“蝋燭の火”が消えていた。朧に煙が漂うのみで、そこにあった火がすっかりと消えていた。
防御に用いていた重厚な本を下げると、そこには赤茶髪の男が気だるそうに立っている。
私を見下ろしながら、白衣の男は前髪を左手で掻き上げた。
「なんだ、怯えるだけかよ。っつぅことは手練れでもねぇんだな。じゃぁケチなコソ泥か? まぁ、いいや。それはともかくとして……」
言いながら白衣の男はポケットから何かを取り出した。
取り出されたモノは“球体”……半透明な球体に四角い台座のようなものが嵌め込まれている。
大きさとしては片手で収まる程度……それこそ野球の硬球くらいであろうか。
白衣の男は取り出したモノをテーブルの上に置いた。そして「コンっ」と軽く指先でノックするように叩いてみせる。
すると、半透明の球体から光が放たれ始めた。直視しなければ眩しいほどでもなく、それこそテーブルランプのような……いや、もうテーブルランプそのものである。
白衣の男は老人に向けて言う。
「爺ィ、あんたやっぱりコレ危ねぇよ。今まではまだ学内だからだれか居たけどよぉ……独り暮らしでこんなん、火でも本に燃え移ったらマジでヤベぇって。だからよ、作ってきたから“コイツ”を使いな?」
ここで言う「コイツ」とは私のことではない。彼が取り出して光らせたらしい球体のことだ。
思えば私にしてはまぁ見たことあるような物体であるが……こちらでは割と画期的なものだったのではなかろうか。何せ魔素を供給するパイプも要さず……つまりは魔力の“バッテリー”をこの時点で彼は制作していたのであろう。持ち運び可能でかつ長時間自動稼働する電気の灯りなど、今でこそ当たり前ではある。
ともかく、この世界初の携帯型テーブルランプはそこに置かれた。ぼんやりとして暖かな光がテーブル上に灯された。
白衣の男は半端に残った蝋燭を雑な様子でポケットに突っ込むと、どっかりと太々しくテーブルに腰を降ろす。
彼がテーブルに腰を降ろしたことでその右側が私の方を向いたわけだが……それでようやくハッキリと解った。
彼の白衣、その右袖が妙にだらりと垂れ下がっているのは……“中身が無いから”、である。おそらく肩から下が無いのであろう、だから袖はだらりと垂れているのだ。
テーブルに座った白衣の男は脚も組む始末であり、本当に態度が太い。これはもう、完全にガラが悪いと言ってよいだろう。だってブーツの靴底が私の方を向いている。
「・・・・・んで? “こうたさん”は結局、何者なのさ。しばらく観察したが、どうにも危険性を感じねぇんだよな。とはいえ客人があの娘ら以外にあるとも思えないし……学生だとも思えねぇしなぁ。いや、学生だってわざわざ来ねぇか……」
灯りが暖かな印象となったからだろうか。若干、先ほどより白衣の男にある険しさがとれたような感じがある。それでもまだ訝しんで刺々しい雰囲気はあるものの……これはたぶん、だれに対してもこんな態度なのであろう。きっと生まれつきの質というものなのである。
ガラの悪い男はブーツの先を揺らしながら私を見下ろしていた。その隣にある半ズボンの老人は隙間だらけの歯並びを惜しげもなくさらし、ニッコニコで無邪気な笑顔で言う。
「だから、だからぁ! コウタくんは異世界の人なんだってば! サマードくん曰く、リリー女史がそのように言っていたそうだが……つまりそのことがヒントになったんだよ! だから私は納得できたんだ、彼のおかげさ? だから本当にありがとう、コウタくん!!」
白衣の影から顔を出し、笑顔で何か感謝をしてくる老人。正直、この段階で彼への恐さというものはあまりなくなっていたが……ただ不気味だなぁという思いは強まっていた。
しかし、ここで「リリー」という単語を拾えたことは私にとってもヒントとなる。
おそらく、【リリー】……つまりは甲冑を着ていて光りながら下着を見せてきた例の優しそうな女性。彼女がその弟子(?)らしい少女……ここで【サマード】と老人は言ったが……その娘がここへと私を運んだのだろう。きっと、また引きずったに違いない。だってズボンがちょっと破れているもの。
ともかく私はここへと運ばれ、そしてベッドの上に放置された。その実態としては件の少女が狼狽した師匠を気遣ってのものだったが……まぁ、それはこの時点でまだ解らないことだ。
興奮した様子で話す老人。捲し立てるようで、尚且つ断片的な情報が彼の感性によって展開されているので解り難いことこの上ない。しかし、その言葉は私だけではなく白衣の人にとっても状況整理のヒントになったらしい。
「あぁ~~、なるほどね? あれか、つまりリリさんがコイツとなんでか関わって、そんでサマードにここへと運ばせたと。まぁ、あの人が視たんなら危険物ってこたぁないだろうよ。んじゃ、なんでここに運ばせたのかが解らねぇが……どうやらあんたも苦労人っぽいな?」
聞く限り、“リリーさん”や“眼が赤く光る少女”とこの男は知り合いだと思われた。2人のイメージが出たことによって、明確に彼の警戒心が薄れたことを感じる。こちらを見下ろす表情が一気に和らいだので、かなり気が抜けた様子もある。
白衣の男は「そういうことなら……」と。
テーブルから降りて赤茶色の髪を掻いた。そうしてから私を見て、言う。
「――悪かったな、あんた。いせかい(?)だかなんだかは知らねぇが……疑ったことは謝るよ。いやさ、こんな不用心な爺ィだからよ? てっきりよからぬ輩でも侵入したんだかと……ま、言い訳だな。ともかく気を悪くしないでくれ」
態度というか口調はまだ乱暴なものだ。それでも、そうしたぶっきらぼうな中で「誠意」を感じられる言葉だった。
きっとこの時、彼は心からちゃんと謝ってはいたのだろう。ただ、生まれつきちょっと態度と口が悪いだけなのである。
白衣の男は続けて言った。
「俺の名は“ジェット=ロイダー”……気軽にジェットで良いぜ? それと、どうせ名乗りもしてないだろうから紹介しよう。この人は……この爺ィは“ダーミシアン=レイディンガー”っつぅ隠居の爺ィだ。ちょくちょくわけわからねぇことを言うだろうけど、スルーしとけば害はないからよ。まぁ、どうなるのか知らんが仲良くしてやってくれや……」
そう言うと白衣の男……【ジェット=ロイダー】はズカズカとブーツの底を鳴らして開きっぱなしの扉の先へと向かっていく。
明らかに帰ろうとしているジェット=ロイダー。それに向かって老人が困ったように声を掛ける。
「えっ、もう行っちゃうのジェット!? そんな、せっかく来たんだからもっと話でも――」
「せっかくもなにも、ほとんど毎日顔出してるだろうが。っつか、今日の俺は忙しいの。仕事もそうだが、何よりアイツが今日は特別な日だから待ってて……いや、そもそも本来はその“電球”を置くだけのつもりだったしな? 面倒ごとに巻き込まれるのは勘弁だぜ、まったく……」
チラリと振り返り、そのように言うジェット=ロイダー。しょんぼりと明確に落ち込んでいる老人のことはさほど気にもせず……。
しかし、ジェットは私を見ると「まぁ、そうだな……」と何か思い当たるかのように呟いた。
そしてそうしてから……“面倒なこと”を私に向けて言い放つ。
「丁度いいや。あんたさ、よく解らんが……たぶん迷い人かなんかなんだろ? ちゃんと住処があればリリさんはそっちに送らせるだろうしな。事情は知らんが……まぁ、これも何かの縁だろう。
もし、住む場所も頼りもねぇっつぅのなら“ここ”に住めよ。そこの爺さんはすげぇ部分はすげぇんだけど……ともかく生活するってことに関しては最悪でな。言わなきゃ食事も忘れかねねぇほどだから、ちぃっと面倒を見てくれねぇか?
なに、爺ィも文句は言わねぇし不服もないだろうよ。どうやらあんたをメッチャ気に入ってるみたいだし……せいぜい、耄碌しないように会話相手にでもなってやってくれよ。そんでちょこっとだけ掃除とか飯の準備とかやってくれりゃいい。大丈夫、金なら心配するな……当面の分はここに置いておく」
白衣の裏側から何かを取り出し、放り投げるジェット=ロイダー。
彼が放ったものは抜群のコントロールでテーブル上に落ち、奇麗に停止した。それはどうやら革製の……。
「何でか知らんけどよ。リリさんがこの家に寄こしたっつぅことはきっと、この辺を視たんじゃねぇのかな……知らんけど。まぁ、ともかくあんたがソイツを持ち逃げするようにも思えんし……さっき疑っちまった分、信頼するぜ?」
テーブルの上にボトリと落ちたのは「財布」である。それは分厚く、雑な扱いを受けているようだ。すでに札の束がチラ見えている。
私はしばらく財布に目を奪われた。そういえば身の安全を考えることで精一杯だったが……。
“生きる”ということ、それも人の社会で“生きる”ために必要なもの、重要なこと。
それは時代によってことなるだろう。だが、少なくとも私の感覚で一番「必要だなぁ」と感じるものは……。
そう、「お金」である。お金がなければ生きられない……いや、山の中でサバイバル生活などすれば大丈夫かもしれないが、そのようなスキルがまるでない私には無理だ。私は社会の中でだれかが作ったものを摂取しないと生きていけない。夏の宿題でミニトマトを育てたくらいしか経験がない。
だからお金が必須なのである。そして……そのようなことに気がついた時、私は反射的にズボンのポケットに手を入れて“取り出した”。
「あれ、なんだコレ?? ……いや、ああ、“ある”な。確かにあるけど……でも、コレって……」
最初、一瞬だけ解らなかったが……確かに“あった”。私のポケットに入っていた財布には確かに“お金”が入っていた。パチンと、ボタンを外して開くタイプの私の財布には間違いなく“お金”が入っていた。
金額にして……なつかしの“円”で言うなれば3千6百15円。今でもハッキリと覚えている。
取り出して数えた金額……そして、それらが“ここ”では何も意味を持たないものだと理解するのにそれほど時間はかからなかった。
「これは……これは、お金だ。お金だけど……でも……」
私は放り置かれたテーブル上の財布を見る。とくにチャックもボタンもない、その財布から一枚だけをゆっくりとズラして見た。
そう、これは…………これは、何だ??
私はそこにある一枚の紙が……いや、それがお札なのだと察した。
数字が書いてあって、何か人物が描かれている。模様が施されていて、質感はザラザラとして丈夫そうに思えた。
昔、ドル札を触ったことがある。何ドルかは忘れたが……父親が所持していたドルの札を手にした時、言われなくともそれが「お金」なんだなぁと察したものだ。
どうしてお札は長方形なのだろう? そんな疑問を抱いてネット検索する前にこちらへと来たので理由は解らない。ただ、こちらでもお札は長方形だということは確かな事実である。
かつて――――日本の実家で手にしたアメリカのドル札。
それはそれでも意味を持っていた。例え異国にあっても、蔑ろにはできない価値を有していた。
何かの漫画で「金なんかケツをふく紙にもならねぇぜ!」という文言を見た覚えがある。その時は笑って読んでいたものだ。
そして今、私は見慣れた千円札を見て……それがケツを拭くにも硬いだけの紙に過ぎないことを悟っていた。
だって、それはそうだろう? ここは“異世界”なのだから……異国ではなく、異世界だ。
だからそうした自覚というか……未だに、その時点までは心のどこかにあったのであろう「世界の変化」を受け入れられない感情・感覚。そうしたものが唐突に塗り替えられた気がした。
千円札を擦りながら、寂しさを覚える。あれほど頼りになっていたお札が……コイツにはもう、何の価値もないのかと思ったら寂しさがこみ上げてきた。
強烈な喪失感がある。常識を失った、塗り替えざるを得ない事実を受け入れて……私は呆然とした。
そう、何度だって呆然ともしよう。それが異世界で“生きる”ということなのだと、私はこの時になってようやく理解した。
つまり――――この時ようやく、私は現実を真の意味で受け入れたのであろう。
そうしてセンチメンタルな感情でお札を眺める私。外の時刻と同じく黄昏たかのような私に向けて、声がかかる。
「・・・・・あのさ、コウタくん?? それってもしかして……もしかして、かなぁ??」
明るかった。顔を上げると、そこにはニッコニコの満面なる笑顔があった。
隙間だらけの歯並びをこれでもかと見せつけながら、まるで少年のような好奇心によって目を輝かせる白髪の老人が目の前にいる。
泣いてはいないが、心の中では涙も流していた私は呆然と彼を見上げた。彼の半ズボンの丈がどうしてここまで短いのかと……そのようなことをその時は考えることもできなかった。少し長いブリーフだと言われても疑いはない。
笑顔の老人は言う。
「ねぇねぇ、ちょっとさ……見てもいい? 触ってもいい? それってホラ、君のさ……前の世界での……お金、なんでしょ? ウヘヘ♪」
「・・・・・はぁ、はい。そうです……どうぞ?」
「わっ、わぁ♪♪ いいのかい、やったぁ! おほっほほ……お札だ、お金だぁ……すごいなぁ、同じような形だよ? このさ、絵の人物ってやっぱり君達の偉人なんだろうか? 不思議だなぁ……文明の発達というものはどこかで集約点が存在する可能性があるよね。思えば君ってその形だけど、それも“人間”という概念からして‥を通した際に‥‥(‥)された――」
「・・・・・。」
老人は何かを恍惚としながら語っていたが……その内容は全然覚えていない。というか解らない。
どのみち、それどころではなかった。ひと時ではあったが自暴自棄というか……私は「終わったんだ」という感覚によって打ちひしがれていたのであろう。
ここでいう“終わった”とは…………何だろうか?
いや、解らない。解らないのだが……何か、私の中で1つの区切りがついてしまったかのような脱力感があった。
それを推察すれば“生きる”ということであろうか。実際、リリーさんが言うには一度死んでいるらしいし……そのことを受け入れた上で、やはり“生きている”ことが納得はしきれないのであろう。
異世界で生き返った、転生した(?)ということはまぁ、受け入れても。だからといって「そうか!」と元気はつらつにはなれない。
不思議なものだ……あれほど、「こんな人生つまらんなぁ」とか思っていた日常が代えがたい宝物のように思われた。当たり前のモノ・当然の認識が失われた時、ようやくにその価値に気がつくというのは……なんと無意味な機能であろう。
そして気がつくともう居ない。
開かれっぱなしの扉の前で“面倒”を押し付けていった白衣のジェット=ロイダーはもういなくなっていた。
テーブルランプが照らす室内。暖かな光にぼんやりと照らされて――
無邪気に瞳を輝かせる老人と、寂れたような私が残される。
2人だけの時間が虚しく、しかし確実に――
流れて経て、陽はやがて完全に沈み入った。
私が空腹に気がついた時、すでに窓の外は真っ暗と――
夜も深まる時刻に変わらず、老人が居室で踊り語っている……。
つづく