「異世界グランダリア生活記(2)~私はその日その時、森の中。冷たい視線の少女と出会った……/後編~」
それは大きいものだった。いや、平均的にどれくらいのサイズなのかとかは解らないが……少なくとも、たしかそちらでの“熊”というものは2mとかそのくらいではなかろうか? 専門家ではないので詳しくは解らないが……。
だとすると、あの時に樹木の一本を薙ぎ倒して飛び出した熊というものは【大熊】と言ってよいだろう。
だってその頃の彼女は私と比較して算出すると身長130cm程度だったと思われる。その2倍は間違いなくあったのだから、きっと熊という種にしては大きなものだったと思う。
ともかく、そういった3mはゆうにあったであろう熊が樹木を薙ぎ倒す勢いで飛び出したのだ。それもあの、見ず知らずながら優しく声をかけてくれた彼女に向かって……。
だから私は叫んだ。叫んだが……それ以外に何もできはしない。
私に取柄というものがあるとすれば、手先が若干器用だとは思う。プラモデルが好きで特にロボットや戦車、あと戦闘機なんかを作るのが好きだ。だけど、そのことが何か職業に役立っているのかというとそうでもなく。あとはまぁ……真面目だとはよく言われる。
他だとそこそこだが体力に自信があり、小学生の時は野球をやっていた。学生時代は軽作業という名の倉庫内労働を勤め、現場のリーダーに抜擢された経験もある。だけどその頃のことはもう、思い出したくない……。
いや、それはともかく。とにかくその時は危ない場面だった。ここでいう“その時”というのは私のバイト時代ではなく、黒いローブの少女に大熊が襲い掛かっているその瞬間を意味する。
4mくらいあったかもしれない大熊は勢いよく黒いローブの人へと飛び掛かり、覆いかぶさるようにした。だから私は「食われた!?」と思い、口元を押さえて硬直したものである。
きっと、血しぶきや悲鳴でも上がろうものならその場で座り込み、気を失ったであろう私もまた食われていたはずだ。むかしそういう事件の動画や記事をネットで読んだが、まさか自分がそのような危険に遭うなど思ってもみなかった。そもそも森の中に私が存在することが思い至れない事実である。
まぁ、それはともかくとして……結果的に私は今もこうして生きている。それはつまりその時、『熊に食われなかった』からに他ならない。
土砂が舞い上がった。腐葉土の粒が飛び、少し離れた私にまで当たったことを覚えている。
太い前足を突き刺すようにして大地を抉り、うつぶせた大熊。考えれば5mはあったかもしれないその巨体、その背の上……。
そこにあった一時の静けさ――風でなびく黒いローブが印象的に映えていた。
「何、“危ない”って……もしかして私に言った? ……はぁ、バッカじゃないの??」
冷めた表情だった。黒いローブの裾をなびかせて大熊の背に立つ彼女。
その瞳は蒼く輝き、そこに宿る光は揺らぐ炎のように思えた。
平然とした様で猛獣の背に立つ黒いローブの人。鋭い瞬発力で跳び上がったからだろう。風圧によってフードがめくれたようで、その顔立ちとセミロングの黒髪が露わとなっていた。
この時、私はきっと彼女の勇ましい立ち姿に見とれていたに違いない。そして、同時に思った。
(なんか、思っていたより若そうだな。というかむしろ幼いというか……)
私がそのように思い、ようやくその人が“少女”という具合の年頃なのだろうと朧気に察していた時。
四つん這いの姿勢で前足を大地に突き刺していた大熊が咆えた。彼(彼女?)もまた、しばらくの間を置いてから状況を理解したに違いない。
咆えた熊は立ち上がる。3~6mはあるであろう巨体が身体を起こし、背中の上にある存在を振り払うように身体を揺すった。
咆哮の迫力で身をすくませていた私に砂埃やら枝葉やらが降りかかる。そして実際、確かにその時の私は恐れていた。
恐れていた……が。同時に、やはり見とれていた。
空中で身をひるがえす少女――黒いローブが派手にめくれあがり、インナー越しに細身のボディラインが露わとなる。
そして、改めて私は思う。
(いやいや、ほんとにまだ子供ってくらいじゃないか。なのにどうしたことか、これは……)
鬱蒼とした森林。そびえる樹木の1つ、その幹に“着地”した少女。それは足元に力の溜めをつくると、仰向けに跳び上がった。
怒れる大熊は攻撃の体勢に入っていたらしい。彼女が跳び上がると熊の太い腕がそれまでそびえていた樹木の幹を殴り貫き、樹木の上半分を吹き飛ばした。
そうした攻撃の最中でのこと。
身をひるがえした細身の少女は空中で逆さの姿勢となり、まるで片手で倒立するかのように熊の頭頂部に手を置いた。
そして軽く跳んでくるりと回ったかと思うと、両手で熊の顔面を鷲掴みにして両の足で熊の胸部を踏みつけた。さながら一時的、刹那的に熊の身体にしがみついたかのような体勢である。
何が目的なのか……跳んで逃げるでもなく、そもそも彼女が殴ったところであの大熊がどうこうなるとも思えないが……ともかく彼女は熊と顔を合わせた。
ひるがえっていた黒いローブがだらりと垂れるまでのわずかな時間。ほんのそれだけの間のことだったが、その時何が行われていたのか――――今なら、私でも解る。
額を押し付けるようにして熊の瞳を覗き込んだ黒いローブの少女は、その時間違いなく瞳を“紅く輝かせていた”だろう。いや、若干遠かったので私にはチラリとする閃光のようにしか見えなかったが……今ならそのように断言できるのだ。
紅い眼光が煌めいたその直後のこと。視界を紅い瞳によって“覗かれた”大熊は途端に脱力し、ドスンと座り込んだ。
『紅い眼光』をくらった大熊は座り込み、そして身体をふるわせて“なく”。それは咆哮ではなくて涙を流す――つまりは“泣いた”のであろう。
震える巨体を前にして、黒いローブの少女は大地に降り立つ。そして何事もなかったかのようにフードを被り直し、そして思い出したようにまだその場に在る熊をチラリと見やる。
その瞳はたぶん、まだ紅かったのだと思う。チラリと見られた大熊は口元を太い前足で押さえた後、しばらく身を震わせてからでんぐり返しに倒れた。そしてバタバタと見るからに慌てた様子で逃げ出していく。
途中で樹木にぶつかってよろめく様は間抜けなもので、姿を現した時にあった獰猛な様子からは想像がつかないほど可愛らしいものだった。
そして――。
その場から大熊が逃げ去り、そこには静寂と穏やかな風、それに黒いローブの少女・・・と、寂れかけの一般社会人男性が残される。
そこに至って私は色々と思うところはあったのだが……とりあえず。
(しかしこの夢、まだ覚めないのか……??)
などと疑問を抱いた。この時にはもう、薄々に妙な感じを覚えつつあったのだろう。
だから私はきっと、口を半開きにして唖然、もしくは呆然としていたに違いない。彼女からすれば目の前で自分が振舞った所業に私が驚いていたと思ったらしい。いや、確かにそれもあったけど……。
「……ふぅ。」
黒いローブの少女は溜息を吐いた。目元を掃い、少しゴシゴシと擦りながら……彼女は歩き出す。
そうして私のことなどまるで放っておくようにして去ろうとする彼女。それを見た私は思ったものだ。
(マズイ!? なんか解らんが……このままこの人を見失うとなんかマズイ気がする!!)
ものすごく抽象的でなんかフワフワとした感想だったが……ともかくそうとしか思えなかった。
実際、それが夢だとまだ思っていたのだけど……それにしたって先ほども言ったとおり本能による「危ない!」「不安!」「怖い!」という感情の自覚と、それに従う動きというものをどうにも私は行ってしまう。
だからこの時の私は竦んだ身を奮い立たせ、一歩を踏み出し、そして声を張ったのであろう。
「ま、待って…………待ってくださぁぁぁ~~いっ!!」
森の中に私の声が響き渡った。恐る恐るに、加減を窺いながらの弱々しい叫びである。
「――――あ゛?」
黒いフードの女性はそのように短く、鋭く言葉を零しながら振り返った。この時に見た彼女本来の黒みがかったブラウンの瞳といったら……先ほどにあったどの眼光よりも鋭く感じたものだ。
私は思わず「ヒィっ!?」と短く、小さく声を漏らした。だが、この時は「いやいや、これは夢だからね?」という思いもあったのだろう。私本来の意識ならここで黙りこくっていたかもしれないが……そこでは変な度胸のようなものが働いた。
「あ、あのあの……あのですね? わわ、私はその……普通の人でありまして……」
「・・・・・はぁ゛??」
「いえっ! あの、ですから…………ね?」
「なんだよ、どうした? 何を言っている??」
「えと、普通というのはその……あなたのように……あの……なんといいますか……」
「…………んだよ、やっぱり馬鹿にしてるのか? あのね、そろそろ馬鹿なイタズラもいい加減にしないと――」
「ち、ちちち違っ、違うくてですね!? あの、そのっ、私はそのっ――」
その時の私は非常に危なかったのだと思う。
フードに半分隠された瞳。薄っすらと眼光に蒼を携えた少女がゆっくりと向かってくる……その光景。
そうした光景によって、先ほども言ったように――
例え夢であろうが怖いものは怖い、危ないものは危ないという思いを私は抱いた。そこにさっき見た大熊の有様が加味されたことですっかり意識は混乱していく。
実際、その時は大熊が何をされたのかも詳細は解っていなかったし、これから自分が何をされるのかという恐怖は相当なものであった。それこそ、“夢”だなどとは思えない実感としての“寒気”がそこに感じられた。
だから私は叫んだのである。力強くではあるが……それはきっと、ある種の悲鳴のようなものだったのだろう。
「わ、私は……私は“普通の人間”なんですッ!! あなたのように夢みたいな芸当なんかできない!!」
「あ゛ぁ? だから、さっきっからあなたは何を言って――」
「あ、あのあの……あのですねッ!? いいですか、その、これってやっぱり……そう、“幻想”ッ!? ……でしょう??」
「・・・・・はいぃ??」
「いや、だって……だってこんなのオカシイものッ! ――っていうかいつまで続くんだよこの夢!? おぉ~~いっ、起きてくれよ、俺!!
こんなに長い夢なんて……もしかして朝になってないか!? いや、それはマズイよ……そうだ、無意識に帰宅したならきっとアラームも・・・・・かけてないッ!?!?
ヤバい、ヤバい、マズイって! 起きないと、出勤しないと……ああ、寝過ごしたら本当に気まずい日だ!!
だって今日は月末でしかも会議だってあるし、それにた――――――アっ。」
……などと、おそらくそのようなことを何か捲し立てていたことだけは覚えている。正確には覚えていないが……たぶん、そのような内容で狼狽えていたのであろう。
夢の内容をよく覚えていると眠りが浅いのだと、そのように何かで見たことがある。だとすれば……これほど鮮明な夢ならどれほど浅い眠りなのであろうか。
限りなく浅い眠りの中で見る夢と現実を区別をすることはできるのであろうか? というか、それってもう起きているってことでは……?
ただ、確かなこと。それはその日、その時、見知らぬ森の中……。
私はそこで目を覚まし、見知らぬ少女と出会い、そして幻想としか思えない光景を見た。
もしかしたら7mはあったかもしれないほどに巨大な猛獣の背に立っていた少女。
紅や蒼に輝く瞳。オリンピックの選手だってあり得ないであろう軽々とした、それでいて異常な跳躍。
現実味がないほどに美しく流麗だと感じた躍動。
その日、その場で私が“気絶”する直前。
最後に見た彼女の笑顔はこれ以上なく冷たく、恐ろしい印象だった……。
つづく