遊郭阿片事件編 一
江戸の朝は早い。
明け六つ〔午前六時〕の鐘が鳴ると、町木戸が開かれ、野菜や魚を売る物売りの声で町中が一斉に動き出す。
長屋住まいのおかみさんたちは一斉に起き出して顔をあらったり歯を磨いたり、朝食の支度を始める。
「あやめさん。おはようございます」
「おはようございます」
「やっぱり吉原で太夫だった人は寝起きから違いますね」
「何が違うんですか?」
「化粧の仕方とかちょっとした仕草もですけど、町人にはない気品さというか艶やかさがあります」
「まあ、そんな褒めてもらっても何もでないですよ」
長屋でのそんな日常会話もあやめにとっては楽しいひと時であった。
あやめは元吉原の遊女で朝霧という名で仕事をしていた。
この当時、遊女の最高位は「太夫」と「格子」の二つで、太夫は吉原全体に二千人いると言われた遊女でも僅か二十人足らずしかおらず、まさに選ばれた最高峰の遊女である。
朝霧は吉原の大見世玉屋のお職〔一位〕で吉原でも一目置かれる存在であった。
彼女が吉原で遊女になったのは十歳の時に奉公先で盗難事件の犯人にされて弁償金が払えないために身売りされたという理由であった。
女衒に連れられて吉原でも一、二の売り上げを上げている玉屋に引き取られた。
身代金八両、年季は二十二歳四月まで。
人身売買は禁じられているため、表向きは奉公である。
その後、一時期伸び悩んだが彼女は目覚ましい出世を遂げていく。
元からの顔立ちと頭の良さに機転の速さ、気立の良さもあって人気はうなぎ登りとなり、十六歳で格子となった。
格子は二番手とはいえ高級遊女である。
若干十六歳の格子の誕生に周囲は羨望と妬みで渦巻いていた。
それから僅か二年、十八歳で最高峰の太夫にまで上り詰めた。
十九歳の時に身請け話しがあり、二年後に年季まであと一年となった二十一歳で実現した。
朝霧はこうして吉原から出るも、わずか半年後に結婚相手に先立たれ、今は下町の長屋に一人暮らししながら子供たちに書道や琴を教えて生計を立てている
「あやめさん、お久しぶりです。お団子買って来たので一緒に食べませんか?」
あやめの元を訪れた侍姿の少女は名を松平桜と言う。
最強の御庭番と言われた十六歳の剣客だ。
「桜さん、よく来てくれましたね。お団子いいですね。ではお茶の用意をしますから狭い家ですけど上がって下さい」
「あやめさん、ありんす言葉もすっかり抜け落ちて普通の町娘になりましたね」
「吉原で十年以上過ごして長年染み付いた癖はそう簡単に抜けなくて苦労しましたが、ようやく普通に話せるようになりましたよ」
あやめはそう言って少し照れくさそうに笑う。
桜とあやめは吉原を襲ったある事件で知り合い、今もこうして会いに来てはお茶とお茶菓子を食べながら他愛のない話しをする仲である。
「桜さんは毎日命がけですから大変ですよね。そのおかげで私はこんなのんびりした生活をしていられるのだから感謝してます」
「いえ、これが私の仕事ですから。でもこうしているとあの一件が嘘のように思えてくるから不思議ですね」
「本当ですね」
桜とあやめは二人が出会った時の事を思い出していた。
御庭番の事件簿に遊郭阿片事件と書き記された一連の出来事を。
それは八ヶ月ほど前の事であった。
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「上様にご報告申し上げます」
南町奉行大岡越前は吉宗に内定調査の報告を行うために江戸城内に赴いた。
「忠相、お前が来ると言うことは例の一件か?」
「はい。吉原における阿片密売の件につきまして経過報告でございます。阿片の出どころは玉屋らしいと言うところまで突き止めました。しかし、そこから先が芳しくありません。私の方で潜入させた御庭番は全員見破られたようで誰一人として帰って来た者がおりません」
それを聞いて吉宗も眉をしかめる。
「忠相の御庭番が見破られ葬られたとなると次に潜入させるとすれば。。」
吉宗と大岡越前の二人の脳裏に同一人物が浮かんだ。
「桜しかおるまいな。。桜は紀州時代に稽古ごとはひと通り習わせてある。芸者か舞妓として忍ばせれば怪しまれる事はあるまい。万一見破られたとしても自力で脱出出来る剣技もある」
「出どころを特定した以上、阿片の密売は見過ごせません。桜には手数を掛けさせてしまいますが、何卒よろしくお願い申し上げます」
大岡越前の依頼に吉宗も承諾した。
程なくして桜が呼ばれた。
「上様、大岡様まで。何かございましたか?」
「結論から先に言うと、お前に吉原に潜入してもらいたくてな」
「吉原ですか?」
桜は少し戸惑いの表情を浮かべる。
「余と忠相は半年以上前から吉原における阿片密売の一件を追っていた。だが、忠相が潜入させた御庭番がこれまで三人いるが、一人として戻ってきた者はいない。みな途中で連絡が途絶え消息不明となってしまっている。
今回の調べで吉原の大見世玉屋が阿片の出どころらしいというところまで何とか掴むことが出来た。三人もの犠牲を出してこの一件を見逃す訳にはいかぬ。そこでお前に玉屋に芸者として潜入してもらいたいという訳だ」
「御庭番が三人も消息を断つなんて。。」
桜自身も御庭番になるまで苦労しているだけに吉宗と大岡越前に従う御庭番の実力はよくわかっている。
その御庭番が三人も消息を断つとは余程の危険が伴う任務という事である。
「お前は紀州時代にひと通りの稽古ごとを習得している。芸者として忍び込ませるにうってつけというわけだ。そして剣の実力も抜きん出ている。万一の時は自力で脱出出来る腕もある。ここはお前以外に任せられる人間がいないのだ。危険を承知でこの通りだ、頼む」
吉宗はそう言って桜に頭を下げた。
驚いた桜は慌てて吉宗に近寄る。
「上様、お顔をおあげ下さい。私如きに頭を下げるなどあまりに畏れ多過ぎます。事情はわかりました。私が玉屋に潜入して必ずや阿片の出どころを突き止めてみせます」
こうして桜は吉原に潜入する事となった。
※ありんす言葉(廊詞)
実際には見世によって微妙に違いがあったという事です。
調べられる限りは調べて書きましたが、当然ながら吉原に行った事も花魁に会ったこともないので、どうしても現代の言葉と混同してしまっていると思いますが、そこはご容認下さい。
※店の筆頭である遊女を「お職」と呼ぶのは本来は小見世で呼んだ言葉で、大見世・中見世では使わなかったと言われていますが、ここではわかりやすいように「お職」を使いました。
※花魁という呼び名は宝暦(一七五一年)からで、それ以前の大夫と格子は花魁とは呼ばないそうです。
※玉屋は江戸町一丁目に実在した見世ですが、この物語の玉屋はあくまでも架空の見世であり、実際の見世とはなんの関係もありませんのでご理解下さい。