息子の家族と同居することになったジジイですが、嫁が「お義父さん、お餅をどうぞ」と邪悪な笑顔で勧めてきます
原田権三は会社をとっくに定年退職し、妻には先立たれ、一人暮らしをしていた。
一人息子も立派に成長し、もはやこの世に未練はないといった風情であった。
幼稚園児の孫娘が「おじいちゃんにランドセルを背負ってるあたしを見せたいな」と言っても、「多分そこまで生きられないな」と返してしまうほど気力も衰えていた。
そんな父を心配した息子、舜介は妻子とともに、権三と同居することにした。
しかし、権三の試練の日々はここから始まるのである。
春の暖かな午後、権三は居間でぼんやりしていた。
何もすることはないし、しようとするつもりもない。
そこへ舜介の妻――つまり嫁である秋穂がやってきた。
同居してから、権三と秋穂はつかず離れずの関係だった。
今のところ権三はこの嫁に不満はない。せめて彼女の邪魔にならないよう静かに朽ち果てようとさえ思っていた。
「お義父さん」
「ん?」
秋穂に話しかけられ、権三は少し驚く。
「なにかね、秋穂さん」
「お餅でも食べませんか?」
「餅を……?」
年中売っているとはいえ季節外れだし、あまりにも唐突だった。
「おいしいですよ、お餅」
この瞬間、権三は見た。秋穂の悪意に満ちた笑みを。
まさか――
高齢者が餅を食べることによって起こる不幸な事故。権三ももちろん知っている。
高齢者は世代的に餅が好きな人は多いだろうし、かといって老いた体と餅は相性が悪い。防げる事故ではあるが、しかし起こることを完全になくすことは難しい事故ともいえる。
まさか、この嫁はそんな事故を故意に起こそうというのか。
「食べましょうよ。ね、お餅」
にっこりと微笑む秋穂。
権三は戦慄しながら聞き返す。
「秋穂さん、あんたは何を狙ってるんだ?」
「お義父さんのいさ……あ、いや、何でもありません。ウフフフ……」
ほぼ言ってしまってるではないか。
嫁の狙いは分かった。
しかし、ここで引いては敗北になる。そう感じた権三は挑戦を受けることにした。
「食べよう……餅を!」
「じゃあすぐお持ちしますね」
秋穂はすぐさま海苔で巻かれた餅を持ってきた。
なんという準備のよさ、と権三は舌を巻く。
「じゃあ、丸飲みして下さい。イッキ! イッキ! イッキ!」
露骨すぎるイッキコール。
この大きさの餅を丸飲みしたら年齢など関係なく危ない。
そして、権三は――
「その手は食わんぞ、秋穂さん」
「む!?」顔をしかめる秋穂。
権三は箸を器用に使って餅を解体。さらに一口食べるごとに100回以上咀嚼するという手法で、餅を攻略してみせた。
全て平らげた権三は満足気な笑みを浮かべる。
「おいしかったよ、秋穂さん」
「くっ……!」
悔しげに皿を片付ける秋穂。
とりあえずこのラウンドはワシの勝ちかな、と権三は心の中でつぶやく。
しかし、嫁が自分の遺産を狙っていることも分かった。戦いは始まったばかり。権三は嫁とのさらなる戦いを予感するのだった。
***
ある日の夕方、権三は居間でテレビを見ていた。
もうすぐ大相撲の時間だ。自分に残された仕事は「なるべく迷惑にならないよう死ぬこと」とさえ思っている権三にとっては唯一の娯楽といえる。
しかし、いきなりチャンネルが切り替わった。
「!?」
「さあて、ドラマ見よっと!」
秋穂の仕業だった。これにはさすがの権三も抗議する。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、秋穂さん」
「なんですか?」
「ワシはこれから大相撲を見るところだったんだ。いきなりチャンネルを変えることはないだろう」
「でも、私はドラマを観たいんですけど。夕方にドラマの再放送やってることは多いですから」
「しかし、ワシの唯一の楽しみを……!」
ため息をつく秋穂。
「だったらお義父さん、相撲で決めません?」
「は?」
秋穂の発言に驚く権三。この嫁はいったい何を言っているんだ。
「私とお義父さんで相撲を取るんです。勝った方が好きな番組を見られるということで」
「何をいっとるんだ。あんたのような若い女とワシのようなジジイが相撲を取ってどうする」
「ようするに怖いんですね、負けるのが」
この言葉に権三の心に火がついた。
彼とて若い頃はスポーツで、社会人になってからは仕事で、大勢の敵と戦ってきたのだ。
「やってやろうじゃないか、秋穂さん!」
「じゃ、テーブルを片付けましょうか」
相撲を取るために居間のテーブルをどけて、権三と秋穂が向き合う。
両者、腰を落とし、拳を床につける。
「はっけよい!」
どちらともなく声を上げ、相撲が始まった。
がっぷり組み合う二人。
「のこったのこった!」
両者の力は拮抗しており、お互いに体を崩せない。
権三はふと我に返りそうになる。
なぜ自分は若い嫁とこうして組み合って、相撲をしているのだろう……。
すると、秋穂が力を込めてきた。この嫁、まるで容赦がない。敬老という言葉を知らんのか。いかん、このままでは負ける。
すかさず権三は反撃に出る。
両手で秋穂のスカートを掴んだ。上手を取った。
「しまった!」うめく秋穂。
権三は上手投げで秋穂を豪快に投げ飛ばした。
「ぐはぁ!」
いつの間にか二人の相撲を見ていた孫娘の春歌が、急きょ行司となる。
「おじいちゃんの勝ちー!」
「はぁ、はぁ……って、秋穂さん大丈夫か!?」
「ええ、平気です。今日はお義父さんの勝ちですね。大相撲、楽しんで下さい」
「あ、ああ」
負けを認めた秋穂は颯爽と台所に引っ込んだ。
「じゃあ春歌、おじいちゃんと相撲見るか?」
「見るー!」
嫁と本格的に相撲を取るという奇想天外な経験をしてしまったが、その心は不思議と充足感で満たされていた。
***
ある日、権三は昼寝をしていた。
ごろごろしながら、のんびりと死神からの迎えを待つ。これが権三のライフスタイル。
妻に先立たれてから、権三は家から出ることもほとんどなくなっていた。
すると――
「お義父さん、一緒に買い物に行きません?」
秋穂から声をかけられる。
家事全般は秋穂に任せている権三、買い物についていく気など毛頭ない。不精をしているというより、今やこの家の主導権はそちらにある、という意味合いが強い。
「ワシはいいよ。秋穂さん一人で行ってきてくれ」
「分かりました」
秋穂はにっこり笑うと、
「じゃあ今日の夕食は激辛料理をたっぷり作りますね」
「は!?」
権三は辛いものが苦手である。カレーライスは甘口しか食べられないし、孫の春歌からもらった激辛スナック菓子を食べた時は、本当に火を噴く勢いで悲鳴を上げた。
「秋穂さん、ワシが辛いのを嫌いなのは知ってるだろ」
「ええ。ですが夕食のメニューを決めるのは買い物する人間の特権だと思ってますので」
ようするに、買い物についてこなければ激辛料理にするという脅しである。
「分かった……ワシも行こう」
「やった! 荷物持って下さいね!」
「なにい!?」
秋穂と買い物に出かけることになった権三。
スーパーで食材を買うだけだが、
「お義父さん、何か食べたいものは?」
「うーん、蕎麦を食べたい」
「じゃあ、今日はお蕎麦茹でましょうか」
「おお、そうしてくれるか」
若き日、亡き妻とデートをしたことをふと思い出し、楽しい買い物となった。
「お蕎麦にはたっぷり唐辛子入れましょうね」
「入れなくていい!」
***
休日、舜介が家族サービスの提案をする。
「今日はみんなで出かけないか?」
「やったぁ!」喜ぶ春歌。
夫の気遣いに秋穂も微笑む。
「そうだ……父さんも一緒に行かないか?」
「うん、おじいちゃんも一緒にー!」
息子と孫娘からの誘いであったが、
「いや、ワシはいいよ。三人だけで楽しんでくるがいい」
権三は三人の家族旅行を邪魔したくはなかった。謹んで辞退する。これが息子たちにできる年寄りとしての最後の務めだ。
舜介も父を連れていくのは無理そうだと判断した、まさにその時だった。
「いよっしゃああああああああああ!!!」
「!?」
秋穂が叫んだ。ガッツポーズまで決めている。
「お義父さんが来ない家族旅行なんてサイコー! さ、あんな老いぼれはほっといて、三人で心ゆくまで楽しみましょ!」
「おいおい、老いぼれって……」
「ひどいよママ!」
「いいのいいの、あの人はもう終わった人間なんだから。この家で一人寂しく朽ちてゆくのよ」
ここまで言われては、権三も黙ってはいられない。
「ちょっと待った、秋穂さん」
「あらなんでしょう?」
「ワシも行くぞ!」
驚く舜介。
「三人だけで旅行など許せん……ワシも連れていけ!」
「かまいませんけど、足手まといにならないで下さいね、お義父さん」
「ふん、ほざくな小娘」
一体どこのライバル同士だと言いたくなる会話をする二人。
舜介は呆然とし、春歌は喜ぶ。
「やったー、おじいちゃんも来るー!」
この日、原田一家は大きな公園までドライブに出かけ、楽しい一日を過ごすのだった。
***
息子夫婦との同居前はほぼ引きこもり状態だった権三だが、このところは出かけることも多くなっていた。
散歩をしていると、近所に住んでいる同世代の友人と出くわす。
「おお、久しぶり!」
「お互い老けたなぁ」
年寄り同士でしかできない会話もある。
しばらくは思い出話に花を咲かせ――
「そういえば権三、お前元気になったなぁ」
「え?」
「奥さんが亡くなってから抜け殻みたいになってたが、すっかり気力を取り戻してるじゃないか。一時期はあのままボケちまうんじゃないかなんて心配したもんだ」
「……!」
そういえばそうだ。
少し前までは死ぬことばかり考えていた。若い人間の足かせになりたくない。早く楽になりたい。妻の元に行きたい。もうこの世という舞台から退場したいと――
それが今や、ぼんやりとそんなことを考えることもなくなったし、心や体もむしろ若返っている気がする。
理由はすぐに思い当たった。
秋穂だ。
ここ最近、秋穂としょっちゅう衝突しているので、よくも悪くも人生に張りができてしまったのだ。
権三は気づく。
「まさか……秋穂さんは……」
これを狙って――
友人と別れ、家に戻った権三はすぐに秋穂に問いただす。
「秋穂さん!」
「あらどうしました、お義父さん」
「あんたがワシといちいち対立する理由は……理由は……!」
権三が犯人を指摘する名探偵のような口ぶりで言う。
「ワシのためだったのか……!」
ところが秋穂は――
「ハァ~?」
まるで見当違いだと言わんばかりに、凄まじい顔で返事した。
「私は私のためにやっただけですよ。お義父さんの遺産は欲しいですし、テレビのチャンネルの主導権は握りたいし、買い物には荷物持ちが欲しいですから」
それに、と付け加える。
「冥土の土産に春歌のランドセル姿を見せてあげたいですから」
これを聞いて権三は微笑む。
「フッ、なるほど……」
「というわけで、お義父さん。今日のチャンネル権をめぐって相撲取りませんか?」
「いいだろう……勝負だ!」
権三と秋穂の取り組みが始まった。
行司はもちろん春歌。
「はっけよいのこったのこった! どっちもがんばれー!」
「秋穂さん、今日も負けんぞ!」
「今日はドラマを観ます!」
実力伯仲。
権三が上手を取ろうとするが、
「甘いっ!」
秋穂の突っ張りが炸裂した。
「ぶげあっ!」
今日の取り組みは秋穂の勝ちに終わった。
「ママの勝ちー!」
「秋穂さん、年寄りにも容赦ないな……」
「あら容赦して欲しいんですか?」
「フフ、バカを言わんでくれ」
健闘をたたえ合う二人だった。
***
年月はあっという間に過ぎていき――
紺色の女の子用のスーツを着る春歌。
今日は小学校の入学式なのである。
「見て見てー! ランドセルー!」
ランドセルを背負ってはしゃいでいる。
嬉しそうな孫娘を見ながら、権三はしみじみと語る。
「まさか、ランドセルを背負う孫を見られるとはな……」
「よかったな、父さん」舜介も微笑む。
「ああ、舜介。これも秋穂さんのおかげなのかもな……」
しかし、秋穂は首を振る。
「いえいえ、私は私がやりたいようにしてただけですから」
この言葉に権三もニヤリとする。そう、自分と嫁はそんな生易しい関係ではないというように。
「この分だと春歌のセーラー服姿も見られそうですね」
「ワシもそんな予感がするよ」
あと六年、今の自分なら生きられる。権三にはそんな確信があった。秋穂と勝負していればきっと――
「それじゃお義父さん、入学式が終わったら、また取り組みしましょうか」
「よし、今日は負けんぞ! 思い切り投げ飛ばしてやる!」
会話を聞いていた舜介はきょとんとした顔で尋ねる。
「二人とも……いったい何の話をしてるんだ?」
おわり
何かありましたら感想等頂けると嬉しいです。