さよならのキス
ノポルはある廃倉庫に向かっていた。30分以内に来いと言われたからだ。警察へ通報をしたら彼女は殺される。そんな脅しも受けていた。
今までに感じたことのない動悸に止まらない汗、握りすぎた拳には血が滲んでいた。
この極限状態を悟られぬよう、ノポルは必死に自分を殺しながら運転手との会話を続けた。
「今向かってる中華料理屋さんの近くにね、でっか〜い廃倉庫があってねぇ。夜になると焼死体の幽霊が出るなんて言われてるんですよ」
馬鹿言え、焼死体の幽霊よりヤバイ奴らが今そこにいるんだよ、などと言えるはずもなく、ノポルは適当に相槌を打った。
やがて中華料理屋に到着し、金を払ったノポルは足早に廃倉庫へと向かった。
運転手はしばらくそんなノポルの背中を見つめていた。
「約束通り来たぞ! 中に入れろ!」
ノポルがそう叫ぶとシャッターがギリギリとゆっくり開き、暗い倉庫内が徐々に見えてきた。
「なっ⋯⋯!」
ノポルの目線の先には、裸で椅子に縛り付けられている彼女の姿があった。そしてその横には、かつてライバルであった男、サワジリが立っていた。
「カ、カオリ⋯⋯! お前、カオリに何をしたぁ!」
彼女の名前を叫びながら走り出すノポル。
視界の隅に人影が見えた。
そう思った次の瞬間、ノポルはその場に倒れていた。入口付近に立っていた男に足を引っ掛けられたのだ。焦っていたとはいえ、こんな原始的な罠に引っかかった自分に腹が立った。
「よーし!」
サワジリが声を上げた、その瞬間。ノポルの足に鉄骨が落ちてきた。
「うぐうっ!」右足の膝から下が潰され、その場から動けなくなった。
「ノポル!」
カオリが涙ながらに彼の名前を呼ぶ。
サワジリがベチン、とわざと音を立ててカオリの頬を叩いてみせた。
「うるせぇ女だな」
そう言ってサワジリは粘着テープを取り出し、カオルの口を塞ぐように貼り付けた。
「サワジリ! 何が目的なんだ!」
ノポルがサワジリを睨んで言った。
「オレがこうなったのはお前のせいなんだよ」
サワジリも同様にノポルを睨んだ。
このサワジリという男は、先日マネージャーへのパワハラが発覚したことで芸能事務所を解雇され、しばらく行方不明になっていた。
パワハラをしていた理由は自分の人気が思うように出なかったため、ストレスが溜まっていたからだという。
サワジリは動けなくなったノポルのもとへ歩み寄り、泥にまみれた革靴で頭を踏みつけた。
「お前のせいでオレはずっと2番だったんだ! お前さえいなければオレが天下を取ってたはずなんだ! お前が⋯⋯お前が全部壊したんだ!」
サワジリはノポルの頭を何度も踏みつけている。カオリはそれを涙を流しながらただ見ていることしか出来なかった。
「選べノポル。お前が死ぬか、あの女が死ぬか、今すぐに決めろ」
サワジリの言葉を聞いたノポルは笑みを浮かべ、すぐに答えた。
「俺が死ぬ。選ばせてくれて、ありがとな」
ノポルがそう言った瞬間、カオリが椅子ごと立ち上がり、サワジリに向かって走り出した。
サワジリに体当たりをするカオリ。
「うおぅ」
サワジリはビクともしない。
「んんん! んんんーっ!」
カオリは涙を流しながら必死に叫んでいる。
「たまご、転ぶ⋯⋯?」
イントネーションでなんとか推測してみたものの、何を言っているのか理解出来ていないノポル。
「ダメよ! ノポルーっ! じゃねぇか? 良いねぇ、お互い想い合ってて。お熱いねぇ、ひゅーひゅー」
そう言ってサワジリはカオルの髪を掴み、倉庫の奥の方へ引きずっていった。ノポルが来た時にいた場所だ。まさに振り出しに戻る状態だった。
「ちょっくら覚悟見せてみろよ」
そう言うとサワジリは近くに置いてあった黒い箱を手に取り、ノポルの顔に近付けた。
「これは⋯⋯蟻!?」
黒い箱だと思っていたそれは、透明なタッパーに入った無数の蟻だった。数万匹の蟻全てがせわしなく蠢いている。
「お前ら押さえてろ」
サワジリが手下らしき男2人に指示を出すと、1人はノポルの顔を固定し、もう1人は両手で無理やりノポルの目を開かせた。
「思い知れ」
蓋の開けられたタッパーがサワジリの手から離れる。放り投げられたタッパーはノポルの顔に覆いかぶさる形で着地した。
「うあああああああ!」
「うあああああああ!」
「うあああああああ!」
目、鼻、口全てに蟻が入り込んでくる恐怖と痛みに思わず声を上げるノポル。
手にたくさん蟻がついてめっちゃ気持ち悪がって声を上げる手下2人。
「さぁよく塗り込みましょうねぇ」
目を開かせていた方の手下が蟻まみれになった眼球を押し潰す。揉み込むように何度も押し潰した。
咳き込むノポルを気にも留めず、鼻の穴に蟻を詰めていくもう1人の手下。
「うあああああああ!」
叫ぶ度に見える真っ黒な口内に、カオリは言葉を失ってしまった。カオリはサワジリを呪った。心の底から呪った。
彼女が初めてノポルを意識したのは、ある映画の打ち上げの席だった。飲みの席での彼は主役を演じていた彼とはまるで別人で、とても気さくで優しい青年という印象を受けた。
自身が大きな責任を持った初めての仕事での打ち上げだったため、その成功が嬉しかった彼女は記憶がなくなるまで飲み明かしたという。
そんな彼女を最後まで介抱していたのがノポルだった。それから彼女はノポルに惹かれるようになり、玉砕覚悟で告白したところ、すんなりと受け入れてもらえたそうだ。
それからは2人は毎週のようにデートを繰り返し、その度に週刊誌に載っていたという。
そして今、彼女達は再来月に結婚を控えている。彼女は今、幸せの絶頂だったのだ。そんな彼女の幸せを、サワジリという男が壊そうとしている。
「おい、ちょっと来い」
サワジリはまたカオリの髪を掴むと、裏口の方に引きずっていった。
彼女を外に放り出し、車をそこへ持ってきた。この後どこかへ連れていく気なのだろう。
カオリはとうとうノポルの姿を見ることさえ出来なくなってしまった。このままでは彼は殺されてしまう。神様、どうかノポルを助けてください。そう祈る以外彼女に出来ることはなかった。
「どうだ、今の気分は」
蟻まみれの腐ったリンゴのような顔になったノポルに声をかけるサワジリ。
「良いわけないだろ。⋯⋯ゲホ、目も見えないし顔中が痛いし、足の感覚はもうなくなってきてるし、最悪だよ」
「それだけ喋れるとはな。見直したよ、お前男気あるな」
サワジリがニッコリ笑って言った。
「チャンスを与えてやるよ。お前があの女のところまで行けたら2人とも助けてやる」
「汚い奴め! 俺は足を潰されていて動けないんだぞ!」
見えない目でサワジリを睨みつける。
「落ち着け落ち着け、分かってるよ。ちゃんとフェアにやるから。ほれ」
サワジリがノポルの前に何かを置いた。何となく「シャキン」と音がしたように聞こえた。
「なんだ?」
ノポルはすぐに手を伸ばした。
なにやら持つところがある。
そして冷たい板⋯⋯薄い鉄板? 鉄板の縁がギザギザになっている。これは⋯⋯
「やるなら早くやれ」
ノポルは絶望した。サワジリはこのノコギリで右足を切れと言っているのだ。
しかし戸惑っている時間はない。サワジリの機嫌を損ねたらカオリに何をされるか分からない。早くやってしまわねば。
体勢を変え、膝下辺りに刃を当てる。そのまま押しながらギコギコと動かす。
「どうだ、よく切れるノコギリだろ。3分もあれば最後まで行けるはずだ」
失せていた痛覚が戻り、ノポルは再び激痛に襲われた。耐え難い痛みが続く中歯を食いしばり、必死にノコギリを動かす。
やがて刃に硬いものが当たった。
当然これも切らなければならない。ノポルは気を失いそうになりながらも刃を動かし、必死に骨を削った。
長くなりそうだと思ったサワジリは、一服しようとしばしその場を離れた。
途方もない時間が過ぎた頃、ようやく右足を切り離すことが出来たノポルは両腕と左足を使い、カオリのいる方へ向かった。
「カオリ⋯⋯カオリ⋯⋯俺、やったよ。これで2人とも助かるんだ⋯⋯」
どれだけ這ってもカオリのいるところまで辿り着けないノポル。それもそのはずだ、カオリはすでに外に連れ出されているのだから。
「カオリ⋯⋯どこだ! 声も出せなくされてるのか? カオリ⋯⋯」
タバコを吸い終えて戻ってきたサワジリは這い回るノポルを楽しそうに見ている。
「ノポル」
「その声は、サワジリ! なんだ!」
「あの女はもうここにはいねぇよ。用済みだから後で殺しておくよ。お前もせいぜい長生きしろよな。じゃあな」
そう言ってサワジリは廃倉庫から出ていった。
取り残されたノポルはあまりのショックにその場で力尽きてしまった。
「終わったよ、さあ行こうか」
カオリの縄を解き、車へ押し込むサワジリ。
「何が終わったのよ! 終わったって、もしかして⋯⋯!」
「ああ、ノポルは死んだよ。次はお前の番だ。その後オレも死ぬつもりだ」
「ノポルのいない世界になんて未練はないわ。どこへでも連れて行って殺せばいい」
カオリは妙に落ち着いていた。いや、落ち着いたというよりおかしくなっていた。どうでもよくなっていたのだ。全てが。
サワジリは途中で手下2人を降ろし、自宅へ向かった。
「さぁてどうしてやろうか⋯⋯」
部屋に連れ込んだカオリを舐めるように見ているサワジリ。手には大きなハサミを持っている。
「お前のそのぷっくりとした唇、気に入らねぇなぁ」
「どうするつもりよ」
「とりあえず切っちまおうか。安心しろ、唇以外も後から切ってやるから」
身動きの取れない彼女の唇を左手でつまむ。切りやすいように引っ張り、そこにハサミを持っていく。
カオリは全てを諦めた。この男を呪うことだけを考えた。冷たい刃が唇に触れた、その時だった。
「ううぅ! うぐああああああ!」
サワジリが突然叫び出し、後ろに倒れた。必死に首を掻きむしっている。
カオリは何が起きたのか理解出来なかった。ただ、サワジリの後ろに一瞬だけノポルの姿が見えたような気がした。ノポルが戦ってくれているんだ!
しばらくすると、彼は動かなくなった。だらんと横たわるサワジリの首には、手で絞められたような跡があった。
「ノポル、ありがとう⋯⋯」
カオルそう言ったその時だった。
ドンドンドンドンドン!
ドアを叩く音が響いた。
「警察の者ですが! 出て来ないならドア壊して入りますよーっ!」
ドガーン!
スーパーマッチョな警官が数人入ってきた。
「タクシーの運転手の方から通報を受けましてね、倉庫を見に行ったんですがちょうど車が出た後でして、目撃情報を頼りにやっと到着することが出来ました。遅くなってすみません」
「ありがとうございます⋯⋯!」
カオリは緊張の糸が切れたのか、ホロホロと泣き始めた。
『これでもう大丈夫だな。ごめんな、カオリ⋯⋯さよなら』
どこからか聞こえる声にふと顔を上げると、何かが唇に触れた。