55話 約束
金色の髪の少女は、ベンチで一人自身と同じ瞳の色をした空を見上げていた。
彼女はいじけた子供のように両足の踵で地面を交互に叩いている。そのリズムに合わせて、彼女の口からは次々と文句が出てきていた。
「裏切り者、薄情者、朴念仁、嘘つき……」
先月出会った少年に向けられた言葉。傍にいなければ届くこともない。そう思って、ユイカは最後にため息を吐いて俯く。
波乱の戴冠式から一ヶ月が経っていた。
無事に女王となったユイカは、この一月の間、通常の公務に加えて街の復旧やスイレンとの話し合いなどで、ほぼ休みなく働いていた。
最近、それらがようやく片づき、心にゆとりが出てきたが、何故だか急に寂しくなることが多くなった。
言いようのない喪失感。
思い出すのは仮初の婚約をしていた刺激的な日々のことばかり。もう決して帰ってこない時間のことばかりだ。
結局、彼はユイカが事件の後始末に追われているうちに戴冠式を見ることなく帰ってしまった。
何の挨拶もなしに。突然に。
後でシュリから話を聞いたところ、どうやら新しい技術を思いついたようで、すぐにでもその開発に着手したいと言って止めるのを無視して帰ったらしい。
「そんなに研究が好きですか。わたしが女王になるとこ見てから帰るって言ってたのに。お礼も言えてないのに……」
口を開けば彼への不満が出てしまう。何て心の狭い人間なんだとユイカはその度に自己嫌悪になる。
「こんな気持ちにさせるのも君のせいなんだから。全部君がいけないんだから」
ユイカが自身の影に向かって不満をぶつけていると、前方から人影が近づいて来た。
きっと空気の読めないリュートが、ちょっかいをかけに来たのだろう。今は相手をする気分になれないので、どう追い払おうかと彼女は考える。
「何をブツブツ言ってるのさ?」
(えっ?)
予想外の声に、ユイカは驚いて顔をあげる。
そこには会いたくて仕方なかった少年の姿があった。
「ユーリ君? 何で? どうしてここに?」
ユイカは突然のことに戸惑ってしまう。ユーリはそんな彼女に「これ」と言って、月の指輪に似た銀色のリングを手のひらに乗せてきた。
「えっ? プロポーズ?」
「何でそうなるのさ。君がリリと話したいから魔法具作れって言ったんじゃん。もしかして忘れてたの?」
ユーリは呆れたような顔をしてため息を吐く。
確かにあの騒動に巻き込まれる前にそんな話をしていた。そして、自分のために魔法具を作成していたのかと思ったら、胸の中で燻っていた不満がすっと消えてしまった。
(何て都合のいい性格なんだろう)
ユイカが心の中でそう自虐して笑うと、ユーリは訝しげな顔で首を傾げていた。
「本当に作ってくれたんだ。ありがとう」
ユイカは手のひらの指輪を愛おしそうに見つめながら礼を言う。
「星彩のレガリアと違ってサイズが勝手に調整されるわけではないから、合ってる指に嵌めてね」
「うん。じゃあ、はい」
ユイカは貰ったばかりの指輪を彼に手渡すと、そのまま左手を前に差し出した。
彼は「うん?」と唸って、眉間に皺を寄せたが、すぐにこちらの意図を理解したようで、「仕方ないなぁ」と言って差し出した手を取った。
小指から順番に試してみたが、結局人差し指が一番しっくりときた。薬指だったら運命的だったのにうまくいかないものである。
「それでどうすればいいの?」
「指輪に魔力を込めるだけだよ。でも、その前に」
今度はユーリが左手を差し出してくる。彼の目的がわからなかったが、ユイカは反射的にその手を握った。
「魔力を込めていいよ」
彼から許可が出たので、貰った指輪に魔力を注いでみる。すると、二人の周りに魔法陣が展開して指輪から眩い光が溢れ出した。そして、あっという間にその光に飲まれた。
気づいたら別の場所にいた。
そこは生活感のない広いリビング。部屋の中心に大きなソファーとテーブルがあるだけで、家具は他に見当たらない。
壁には見知らぬ機械が立て掛けられていた。何かの映像を映し出すもののようで、先ほどから画面の中では市松模様が規則的変化して動いていた。
奥にはキッチンがあったが、調理器具など一切なく、使われている様子はない。生活感がまったくないのはそのためなのかもしれない。
「ここは?」
ユイカは周りを見渡しながらユーリに訊ねる。
「僕の部屋だよ。結局、リリとは直接会わせることにしたんだ」
「君の部屋って。じゃあ、ここは?」
「うん。アクア・スフィア」
「嘘……」
ユイカは心底驚いた。ただ指輪にかなりの魔力を持っていかれたので、海底都市への転移と考えれば納得できた。
「色々と根回しするの大変だったんだからね。特にサズさんとの交渉。余計な仕事増えちゃったよ」
「サズと交渉? わたし、そんなこと全然知らないよ」
「君を驚かせたかったみたいだからね。それで黙ってたのかも」
ユーリはそう言って肩を竦めると、何故だか窓辺まで歩いて止まった。そして、彼はカーテンに手をかけると、こちらを見て微笑む。
「じゃあ、リリに会わす前に君のもう一つの願い事を。これがアクア・スフィアの空だよ」
ユーリがカーテンを開くと、窓の外で蛍のような緑色の優しい光が、天に向かってふわふわと昇っていた。
まるで降り注ぐ粉雪を光の粒に換えて逆再生したような現象だ。
太陽のないアクア・スフィアでは日中に白い光の雪が降り、夜は昼に降った光が淡い緑の光となって空に帰っていくという。ということは、こちらは現在夜という扱いなのだろう。
ユイカは窓際まで近寄ってみる。
見上げると当たり前だが、空は大量の水に覆われていた。天辺までたどり着いた光を吸い込み群青色に染まっている。
アーズル・ガーデンと同じ青い空だが印象はまるで違う。神秘的というか、天国というものがあるならこんな感じではないかと思う空だ。
視線を下に向けると、無数の摩天楼が聳え立っていた。
どれもアーズル・ガーデンの建物より遥かに高い。これが眼下に見えるということは、この場所はもっと高い位置にあることになる。しかも、少しずつ景色が動いていた。
「ねえ、ここって?」
「うん。飛行船の中。空飛ぶ船だね。悪くないでしょ」
「空飛ぶ船? そんなものがあるなんて。ここまで文明に差があるのかぁ」
ユイカはそう言って、もう一度アクア・スフィアの街並みを見渡す。目に焼き付けて、天国の母に届けようと思った。
(お母様、見ていますか? これが海底都市の空です。本当に綺麗ですね)
ユイカが心の中で母に語りかけていると、映像を映し出す機械に花冠を被った黒髪の少女が現れた。
「あっ、ユーリの運命の人もう来てたんだ。お邪魔だった?」
黒髪の少女は、わざとらしく口元に手を当てて、ニヤリと笑う。
「ちょっと! リリ、何言ってるの?」
黒髪の少女の言葉に珍しく慌てるユーリ。
ユイカはそんな彼を見てクスッと笑うと、彼の頬にそっと手を添えて口づけをする。
彼は目を見開いて驚いていた。黒髪の少女も目を輝かせて、こちらを窺っていた。
(今度は仮初なんかじゃない)
ユイカはそう心で呟いて彼の指に月の指輪を通すと、満面の笑みで告げる。
「君をわたしの婚約者に任命します」




