終りのプロローグ
真っ暗な部屋の中。
様々な幾何学模様と文字列が青白い光で展開されていた。
【神与文字】と呼ばれるそれは、神々が世界に与えた文字。文字が言葉となって意味を成せば、世界の理に干渉できるという。【魔法】を使用する上では切っても切れないものだ。
少年はその暗い部屋で一人寝そべって宙に浮かぶ模様を眺めていた。
彼はまだ解明されていないこの文字列と昨晩からずっと格闘していた。
あと一歩で読み解けそうで、それでも答えにたどり着けない、何とも焦れったい感覚は、時間と疲れを忘れさせるくらいに彼を虜にさせていた。そこに浸かっていられる間は、彼にとってまさに至福の時間といえた。
だが、そんな幸せな時間を邪魔しに赤目の少女がやって来る。
「またずっと閉じこもって。戴冠式に出席する準備はできているの? 出発は明日よ?」
「それ、やっぱり僕も行かないとダメなの?」
「ダメ。お姉様が『かたつむり少年君、これはわたしからの命令です。研究ばかりしてないで、たまには外に出なさい』だって。お姉様の勅命だから諦めなさい」
赤目の少女は口真似をしてそう告げると、窓辺に向かいカーテンを開けた。
この街特有の優しい光が部屋に射し込んでくる。
眩しいというより懐かしいと思ったのは、確かに久しく外に出ていないからなのかもしれない。
「命令なら行くしかないか」
「あら、素直。もっと駄々を捏ねるかと思ったわ」
「そんなことが無意味なのは、もう十分過ぎるくらいわかってるし」
少年は投げやりに言いながら上半身を起こす。長時間同じ姿勢でいたからか、少し身体が痛かった。
「そんなに面倒くさそうな顔しないの。観光のついでと思いなさい」
「じゃあ、行事や会食に参加しなくてもいい?」
「そんなわけないでしょ。あんたはわたしのパートナーとして行くんだから」
少年はパートナーという言葉に露骨に嫌な顔をする。それを見た赤目の少女は、半目でこちらを睨んできた。
「何なのよ、その顔。傷つくんだけど。あんた、わたしのこと何だと思ってるのよ?」
「えっと、僕を部屋から追いやろうとする悪魔?」
少年が冗談混じりでそう言うと、赤目の少女は「そっ」と相槌を打ってにっこりと笑う。そして、彼女は右手で炎を生み出して告げる。
「では、今すぐこの部屋とやらから追放してあげるわ。なんなら、女神様の袂にでも送ってあげる!」
「ちょっ! 室内で何するの! 冗談だってば!」
「うるさい! 潔く死ね!」
荒れ狂う炎から逃げる少年。それを怒鳴り声をあげて追いかける赤目の少女。今日も海底都市での日常の一幕が繰り広げられる。
壁際では黒髪の少女がその光景を微笑ましげに眺めていた。
◇◇◇◇◇◇
空の街のとある礼拝堂。
その堂内で少女は祈りを捧げていた。
祭壇の前には妖精を模したような彫像。その両脇には炬火台がある。
少女が祈りを終えると、爽やかな風が堂内を駆け巡り炬火台に青白い炎が灯った。
後方で見守っていた者たちからは驚きの声があがる。
そんな彼らに少女は微笑むと、簡単な挨拶をして早々にその場から立ち去った。
少女は用意されていた部屋に戻ると、真っ先に近くのソファーに寝転んだ。
そして、彼女は身につけていたティアラを鬱陶しそうに外すと、横になったまま手を伸ばして前のテーブルの上にそれを置いた。
「終わったー」
少女は、ほっとした表情で言う。
「ご苦労さん」
少女に付き添っていた赤髪の少年が、もごもごとした声で労いの言葉をかけてくる。彼はテーブルに用意されていた菓子を頬張っていた。
朝から公務で忙しかった二人は、ようやく一息入れることができて、完全なくつろぎモードになっていた。
「わたし、ちゃんとできてた?」
少女は赤髪の少年に訊ねる。
「あん? できてただろ。炬火台に炎も灯ったし」
「そうじゃなくて、女王ぽく振る舞えてたかってこと」
「さあな。まっ、それなりにできてたんじゃね?」
「何それ」
少女は適当に受け流す少年に対して頬を膨らます。
そんなところにスタイル抜群の侍女が部屋にやって来た。彼女はソファーに寝転ぶ少女を見るなり、ため息を吐く。
「お洋服が皺になっちゃいますよ。お休みになるなら着替えてからにして下さい」
侍女が母親のように注意してくる。
少女は億劫だったが、「うん」と返事をして渋々立ち上がった。
侍女は着替えを用意すると、黙々と菓子を食べる少年に向かって、しっしっと手を振って部屋を出るように促した。
「面倒くせぇーな。別にそいつの貧相な身体なんて興味ねえよ」
赤髪の少年は文句を言いつつも、部屋を出て行った。
「今、貧相って言ってたよね? そろそろ本当に不敬罪で処罰しようかなぁ」
「もしそうなったら、別の者が警護につくことになりますがよろしいのですか?」
少女がむすっとしていると、侍女がそう訊ねてくる。
「うーん。そこが問題よね。あいつだと気を使わなくいいんだけど、他の人じゃそうはいかないしなぁ」
「では、強くて優しい旦那様でも見つけて守って貰うしかないですね」
「そんな人いればいいけど」
少女は肩を竦めてみせる。そんな彼女に対して、侍女は人差し指を立てて戯けた感じで言う。
「まあ、本当にそんな素敵な人がいたら、私が先に捕まえちゃいますけどね」
「酷い。いじわる」
少女はわざとらしくいじけると、そこから二人して笑った。
空の街の何気ない一幕。そこには今日も眩い陽の光が射し込んでいた。