15話 愛らしい相棒
見上げると今日も白い月は欠けた一部を探していた。
場所は空の街の主人が眠る一室。黒髪の少年はその部屋のバルコニーで夜の心地よい風に当たっていた。
すでに日付は変わっていてる。宮中は夜の静寂に包まれ、若き魔女もすでに夢の中だ。枕を抱え、静かな寝息を立てて寝ている。可愛らしい寝顔はいつまでも見ていられるが、次第に邪な心も芽生えてきたので、少年はバルコニーに出て頭を冷やしていた。
時折、近くの建物で見回りの灯りが見えた。でも、その灯りがこの周辺までやって来ることはなかった。おそらく宮中の最深部であるこの場所は、結界などの別の方法で守られているのだろう。
(これなら人目を気にしなくても良さそうかな)
そう思って、ユーリはLリンクスを取り出し、マジックディバイスを起動させる。次に人差し指に魔力を集中させた。体内の魔力は、ほとんど未来視に使われているため、それはほんの僅かな量だった。
彼はその指で虚空に複雑な文字を書いていく。二十一行の文章を書き終えたところで人差し指を軽く振ると、炎のように揺らめいていた文字は弾けて消えた。
今書いた文字は神与文字と呼ばれるものだ。文字通り神々が世界に与えた文字である。世界の理を言語化したものであり、文字が言葉となり意味を成せば、世界に干渉してその現象を引き起こすと云われている。
実際、それは事実である。魔法陣に描かれている模様の中にこの文字が含まれているからだ。それに魔法具も魔法陣から解析された神与文字をコアに焼き付けることよって作られている。
万能の力に思えるが、人が解明できた文字はまだ全体の二割にも満たないだろうと言われている。そして、仮に人がこれからも繁栄し続けたとしても、解明できる前に世界の寿命が尽きるだろうとも。
一般的にはその認識なのだが、ユーリは少し状況が違った。当代のエルグラウンドである彼は、歴代のエルグラウンドの研究成果をすべて継承しており、神与文字は想定される約半分の文字を理解していた。
そんなユーリは、簡易な魔法ならば魔法具を通さずにこのように魔力で文字を書くことで発動させることができる。ただ今書いた二十一行の文書は、それらとはまったくの別物で彼が改良に改良を重ねて短くした高度な魔法であり、Lリンクスの通信機能を使ってアクア・スフィアにいる相棒と意識を共有させるものだった。彼はLリンクスの液晶画面を見ながら、確立した繋がりを意識して頭の中で問いかける。
『リリ、聞こえる?』
『はいはーい。って、あれ? ユーリ?』
ユーリの呼びかけに答えて、Lリンクスの画面に黒髪の可愛い天使が現れる。
『一昨日ぶり。そっちは問題ない?』
『ないよー。いつも通り人々は強欲で傲慢で嫉妬深いし色欲にまみれてる』
『相変わらず辛辣だね。でも、リリが言うならその通りなんだろうけど』
『そんなことより、今アーズル・ガーデンにいるんじゃないの?』
『そうだよ』
『そうだよって、まさかアーズル・ガーデンから接続したの!? それそちらの魔女の許可がないと問題になるよ!』
『ばれないから大丈夫』
『大丈夫じゃないよ! 空間接続も含んでるから結構な重罪だよ!』
予想通りのツッコミをするリリにユーリの心は和む。できれば彼女も連れて来てあげたかったなと彼はあらためて思った。
しかし、今のアーズル・ガーデンの環境ではそれは難しいだろう。
何故ならば、リリは機械仕掛けの街とも言われるアクア・スフィアのインフラを管理する人工知能だからだ。したがって、彼女の居場所である電脳空間が普及しなければこの街に彼女は存在することもできないのだ。
『まあ、ユーリがめちゃくちゃなのは前からだしいいとして、要件は何? わたしが恋しくなっただけではないのでしょ?』
『うん。それだけではないよ。二つあるんだけど、一つはこの神与文字を記録しておいて』
ユーリはそう言って月の指輪に焼き付けられた神与文字を記憶から引き出して思い浮かべた。
『何これ? わたしの知らない単語ばかり』
『神器の一つにプログラムされているものだよ。色々あって手に入れることができた。あとで調べるつもりだから保存しておいて』
『えっ? 神器? 色々あってですまされる話じゃないんだけど!』
『まあ、それは帰ってから説明するよ。もう一つは調べて欲しいことがあるんだけど、天罰を発生させるような魔法具ってない?』
『ないよ』
リリはきっぱりと否定した。存在を疑っていなかったユーリは思わず「嘘」と言葉を漏らした。そんな反応を期待していたのか、彼女がクスッと笑う声がした。
『表向きはね。でも、使い方次第ではそのようなこともできるものはある』
『あるんじゃん。一応確認するけど作ったのは誰?』
『ノア=エルグラウンド。つまりアーティファクトの一つね』
『やっぱりそうなるか……』
ノア=エルグラウンド。初代エルグラウンドである彼は、多くの神与文字を読み解き革新的な魔法具を作り出した稀代の魔法工学技師だ。ユーリが受け継いでいる神与文字の半分以上は彼が読み解いたものである。
そんな規格外だった彼が作った魔法具は、現代ではアーティファクトと呼ばれ、どれも国宝級の扱いとなっている。それらはほとんどが人の手に余るものであり、現代の技術を基準にしても到底世に出していい物でなかった。当時、事態を重くみたレイナが彼を手元におくまでに他人の手に渡ってしまった十数点が、今アーティファクトとなってアナザーヘブンを渡り歩いている状態だ。エルグラウンドの名を受け継ぐユーリはその回収、または破壊も役目の一つとなっている。
『ちなみにどんなアーティファクト? 』
『本来の用途は天罰を浄化するという聖槍ね。天罰を一刺しすれば穢れたマナは浄化され元の生物に戻るんだって』
『ああ、なるほど。そういうことか。となると、利用されたのは槍というよりはそれに付属されたマナマテリアルかな?』
『うん。ご明察。聖槍は天罰の根源たるマナを吸いとって核となる特殊なマナマテリアルに閉じ込めるもの。核となるマナマテリアルは取り外し可能で、安全な場所に保管して長い時間をかけて穢れたマナを浄化していくって感じね。おそらく持ち込まれたのはそのマナマテリアルね』
天罰が発生する直前に感じたマナの淀み。ユーリはずっとそこが引っかかっていた。
だが、そのようなマナマテリアルが使われたのならば大体の説明はつく。おそらくマナマテリアルから穢れたマナが解き放たれ、一気にその周囲のマナが濃くなったことで淀みが生じたのだ。そして、運悪く近くにいた水蛇がそのマナを取り込んでしまい天罰に変貌したのだろう。
『ねえ、所有者の記録とかある?』
『えっと、約百年前に青の魔女に献上されたのが最後の記録になってるかな』
『結構前の話だね。下賜されている可能性もあるけど、今回この街に運べったってことは……』
ユーリは昼間に会った二人の男たちを思い出す。
ゲートで街を行き来するとき、当然持ち物は検査はされる。そのとき、穢れたマナを含んだマナマテリアルなど到底持ち込めるはずがない。外交特権を持つような人物は別として……。
(彼らだとして一体何のために)
『意図的に天罰を発生させて、意中の女の子にでもかっこいいとこを見せたかったとかじゃないかな』
『そんな理由でわざわざ天罰を発生させるかな』
『さっきも言ったけど、人間なんて色欲まみれなんだから案外そんなものだよ。そんなことより、せっかくだからそっちの街を見せて』
『いいけど、ここ宮殿の最奥だから街は見れないよ』
『えっ? 何でそんなとこにいるの?』
リリが何か勘繰るような声で訊いてきたとき、寝室に繋がる窓から寝ぼけ眼の少女がやって来た。彼女はその眼を擦りながら訊ねてくる。
「何してるの?」
突然のことに慌てたユーリは、Lリンクスのカメラを間違って目の前の彼女に向けてしまう。さらに焦った彼は、最終手段としてLリンクスの側面のスイッチを押してマジックディバイスを強制的に切断した。
とりあえず心を落ち着かせ、彼は寝ぼけている少女の相手をすることにする。
「少し風に当たってるだけだよ」
「ふーん。でも、あんまり長居すると身体冷えちゃうよ」
「わかってる。もう少ししたら戻るから大丈夫」
「そう。じゃあ、早めに寝るんだよぉ」
ユイカは籠った声でそう言うと、ふらふらとベッドまで歩いてそのままバタンと横になってまた眠ってしまった。その様子を見ていたユーリは、やれやれといった感じで苦笑した。
彼はもう一度リリと意識を繋げようか考えたが、少し迷った末にやめることにした。リンクが途切れる瞬間に『その娘誰?』という彼女の低い声が耳に残っていたからだ。
「これは帰ったら面倒なことになりそうだなぁ……」
そう呟いて、ユーリはバルコニーの柵に背中を預けて真上を見る。
少し先の未来を憂いて嘆く彼を白い月だけは優しく見下ろしていた。