8話 天罰①
「えっ?!」
天罰という言葉を聞いたユイカは、驚いた顔をして立ち上がり、周囲を見回す。そんな彼女にユーリは視線でその存在を指し示した。
渦を巻いていた黒い靄が次第に濃く大きくなっていく。周囲から穢れたマナを掻き集めて成長しているのだ。
まるで闇を飲み込んでいるようなそれは、やがて臨界を迎えると、眩い光を放って周囲に小規模の嵐をもたらした。
事態の急変にユイカが慌ててこちらの腕を掴んでくる。風に煽られるのを恐れたわけではない。彼女は星彩のレガリアによる守護の対象にユーリを含めたのだ。
主人に迫った危機に反応して、二つの指輪が生み出した白い光が二人を包み込む。そのおかげで強風に煽られることもなく、また目を眩ます強い光の影響を受けずに、一早くそれを視認できた。
水辺から顔を出す大蛇。
目に見える光景を一言で表すならそれが最も近い。しかし、その大きさは水面から出ている部分でも雄に二階建ての家屋くらいはある。
皮膚は淀んだ沼のような草色。瞳は三つあり、額にあるものは青い宝石のような輝きを放っていた。
この化け物は、穢れたマナが生物に宿ることで生まれてくる魔物だ。女神が人々に与える罰ともいわれ、天罰と呼ばれている。マナと共存するアナザーヘブンでは避けて通ることのできない天災である。
「青の系譜か。早く受付に行ってこのことを伝えた方がいいかも。今、船が来たらまずい」
「うん。じゃあ、君も一緒に」
「いや、僕はここの人たちが逃げるまで奴の注意を引いてみるよ」
ユーリは悲鳴をあげて逃げ惑う人々を見ながら言う。
「でも……」
「一応、僕も契約者だしね。少しくらいは役に立つと思うよ」
「だけど、君はわたしが招いた大事なお客様の一人。もしものことがあったら、レイナ様に顔向けできないよ」
「じゃあ、もし君が逆の立場だったら何もせずにいられる?」
ユーリの問いかけにユイカは目を逸らしてしまう。彼女の性格を考えると何もせずになんていられないだろう。
「……いじわる」
ユイカは少しむくれてそう呟く。
「大丈夫だよ。僕は臆病だし、痛いの嫌いだし、ヒーロー願望もないし、ただ時間を稼ぐだけ」
「本当に?」
「本当に。てか、僕が本当に怖いのはここで何もしないでシュリに怒られることだし」
そんな未来を想像して身震いするユーリ。ユイカはその姿を見て目を丸くする。そして、クスッと笑うと「わたしの負けね」と小さく呟いた。
「大丈夫。シュリ様には、わたしがきちんと説明するわ。だから怒られないように頑張りなさい。褒美も弾んであげるから」
「りょーかい」
「でも、本当に君が無理する必要はないんだからね。きっとリュートが大気に異変を感じて、すぐに駆けつけてくれるはずだから」
ユイカは強い眼差しでそう言うと、不安を投げ捨てるように受付に向かって一目散に走り出した。
聡明でいて心の強い娘だ。ユイカの背中を見送りながら、ユーリはそう思う。
彼女は星彩のレガリアがある限り大丈夫だろう。彼女が護衛なしでこんなにも街を自由に散策できているのは、おそらく宰相の配慮によりその時間を与えられているからだ。そして、それは彼女を守護する力への絶対的な信頼の裏返しでもある。
だが、騎士の到着を待つということは、彼女には天罰を排除する力がないということだ。ゆえに、今は援軍が到着するまで時間を稼ぐしかない。
「さて、どうしよ」
ユーリは大蛇を見据えたまま、腰の鞄に手を添える。
その瞬間だった。大蛇が耳を塞ぎたくなるほどの叫びをあげたのは。
叫びに応じるように肌を刺すような冷気が周囲を覆うと、瞬く間に河川を流れる水が凍りついてしまった。
(現れた場所が少し厄介だな)
ユーリは凍りついた河川を見て舌打ちする。
【青の系譜】。
人や天罰を問わず、水属性の魔法を扱うタイプをそう呼ぶ。蛇の姿をしたこの天罰はまさにそのタイプだ。
今、周囲を凍らせた氷結魔法も水属性に含まれる。媒介となる水が大量に存在するこの場所は、大蛇の魔法が最も活きる場所の一つと言っていいだろう。
そう分析しながらユーリは氷塊の上で獲物を探る大蛇を睨む。その視線に気づいたのか、大蛇もこちらを見た。否。見ているのは、ユーリの背後で必死にこの場を離れようとしている人々だった。大蛇は獲物を彼らに定めたのだ。
大蛇の額の瞳が仄かに青く光かった。
ほぼ同時に周囲の氷塊から蛍のような青い光球が幾つも浮かび上がってくる。
その光はマナに個の意思が宿ったもの。魔力と呼ばれるものだ。大蛇がそれらを皮膚から取り込むと、全身が青い輝きで包まれた。
一秒にも満たないこの現象は、天罰の魔力生成。何らかの魔法を使用する前兆でもある。
その未来を見たユーリは、すぐに行動に移した。