始まりのプロローグ
荒んだ風が乾いた砂を巻き上げていた。
砂埃に覆われた空は、常に日差しが遮られ、どんよりとしている。
そんな陰鬱な空に嫌気が差して俯いても、眼下に広がるのは命を育むことを忘れた涸れた大地しかない。所々、何の動物かわからない骨が転がっているだけで、雑草すら一つも生えていないのだ。
陸地の大部分がこのような惨状なのだから、神に捨てられた世界と呼ばれるのも仕方ないことだろう。
そう。ここは神に捨てられた世界、【エルグラウンド】。
生物の多くが死滅し、終わりを待つだけの希望のない世界だ。
少年はその滅び行く世界を祭壇の上から眺めていた。
今、彼が立っている場所は荒野にある朽ち果てた神殿の祭壇だ。そこは、かつて【星の女神アスタリア】を祀っていたとされる場所である。
遥か昔、女神アスタリアは大罪を犯した人類を見捨て、最果ての地に築いた楽園にその身を隠したという。それがエルグラウンドが神に捨てられた世界と呼ばれる所以だ。
(神に捨てられるほどの大罪を犯したのならば、この状況も自業自得ではないか)
少年はそう思い自虐的に笑う。
それを目の前にいる年老いた司祭や祭壇を取り囲む人々が訝しげに見ていた。
彼らは皆、黒を基調としたローブで身を包んでいた。宗教的な装いをしているは、彼らが女神アスタリアを信仰する人々であり、儀式の真っ最中だからだ。
儀式は佳境を迎えていた。あとは少年が金の杯に入った毒を飲み干せば終了する。つまり、彼は女神に捧げられる供物なのだ。
不思議と少年はこれから迎える死が怖くなかった。むしろ清々しい気分だった。
こんな世の中で身寄りのない自分がここまで飢えずにすんだのはこの役目を背負っていたからだ。
それに女神に捧げる身として恥じぬようにと一通りの教育も受けることができた。多くの子供が満足に教育も受けられず飢えや病で命を落とす時代なのだから、これだけでも幸せな人生だったといえる。
あとはその対価を支払って、この人生に幕を下ろすだけだ。
「何か遺す言葉は?」
司祭が訊いてくる。だが、少年はすぐに首を横に振った。言葉を遺す相手が思い浮かばなかったからだ。
親しい友人でもいたら違ったのだろうが、死が定められた人間にそんな大そうなものはできなかった。皆、親切だったがどこか腫れ物に触るのように接していた。今思えば、距離を置くように指示が出ていたのだろう。
多分、それは正しかった。希薄な人間関係だったからこそ、現世への枷がなく死への躊躇いがまったくないのだ。ある意味それが救いなのかもしれない。
ここで少年はふと思う。
もし少しでも自分の願望に寄り添っていれば、もっと違った運命を辿っていただろうか?
かけがえのない誰かが傍にいる未来もあったのだろうか?
少年はそんなことを自問し、ありもしない未来を思い描こうとする。しかし結局虚しさが込み上げてきて、何を今さらと思い、すぐに我に返った。
少年は飛躍する思考を断ち切り、金の杯を手に取る。そこには黒く濁った液体が入っていた。
即効性の毒だとは聞いている。したがって、苦しむことはないらしい。素直にそれはありがたかった。
最後にもう一度周囲を取り囲む人々を見た。皆、後ろめたいのかすぐにこちらから目を逸らした。
彼らは心のどこかで理解しているのだ。この生贄を伴う古典的な儀式で世界が救われるならば、とうの昔にこの現状は改善しているはずだと。
それでも彼らは自分たちを見捨てた神にすがろうとしいている。そんな彼らを愚かとも哀れとも思わなかった。大いなる存在の庇護下にありたいと願うことは、人間の本能のようなものだと少年も理解しているからだ。
少年は天を仰いで呼吸を止める。そこからは何も考えなかった。
ゆっくりと視線を落とし、もう一度黒い液体を確認する。
そして、一気にそれを口に含んだ。
黒い液体を飲み干した瞬間、口の中に痺れるような苦さが広がった。
遅れて胸が熱くなり全身の力が抜ける。
いつの間にか薄汚れた空を見ていた。
傍らでざわつく声がする。
しかしそれも束の間、すぐに音は途絶えた。
次第に視界は狭くなり、やがて乾いた土の匂いも消えて肌寒かった大気も感じなくなった。
そこで現実からの乖離をはっきりと感じた。
これが死かと思い、少年はあまりの呆気なさに拍子抜けする。
あとはこのまま意識が霧散していくか、それとも魂というものが存在し、女神の袂に運ばれるのか、それはわからない。もし後者ならば、女神が築きあげたという楽園で次の人生を送ってみたいものだと彼は思う。
そんなときだった。突然、女性の声が心に響いたのは。
『君はそれを願うの?』
(えっ?)
少年は驚く。
『本当に偽りの楽園に行きたい?』
戸惑う少年をよそに、不思議な声は続けて問いかけてくる。
意識は少しぼんやりとしているが、どうやら幻聴ではないようだ。となると、思い浮かぶ人物は一人しかいない。
(アスタリア様?)
『いいえ』
不思議な声の主は、あっさりと否定する。
『確かにわたしはアスタリアの名を持つけど、でもね、女神ではないの』
(女神ではない? それなら誰?)
少年は当然の疑問を訊ねる。その問いかけに相手はクスッと笑った気がした。
『わたしのことが知りたい? でもその前に先ほどの質問に答えて。君は女神の作った楽園に行きたい?』
(叶うなら)
『そこが牢獄という側面を持っていても?』
(うん)
少年に迷いはなかった。
『そう。躊躇いもないのね。では、君を【アナザーヘブン】に導いてあげる。その代わりに今から君のすべてはわたしのものよ。それでよければこの手をとって』
その言葉を投げられた途端、失われた視覚が戻った。
眩いほどの白い光が目に飛び込んでくる。その輝きの中に一人の女性が佇んでいた。
その女性はこちらを見て微笑むとゆっくりと右手を差し出してくる。少年は導かれるように手を伸ばした。
これが失われた楽園での最後の記憶だった。
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