第三章 僕の方こそ(1/4)
まだ小鳥達も眠りについている時間帯。朝と呼ぶには少し早く、黒々とした夜の帳の向こうにかすかに陽の気配を感じる頃。
「……………ん」
眠っていた、というより瞑想を終えただけのように彼は瞼を開いた。視界などほぼ利かない暗闇の中、慣れたように左手を伸ばし、枕元に置いてある目的の物に触れると指先を伝って少しだけ魔力を送る。
彼の指先が一瞬茫とした光を放ったかと思うと、次に魔力を送られた手の平サイズの小さな照明が淡く蒼い光で部屋を照らした。
その蒼い光に照らされた濃い茶色の髪の少年、ケントはいつもと変わらない仏頂面ででベッドから起き出した。あまり広いとは言えない部屋には二段ベッドが二つとクローゼット二つだけ、少々窮屈な印象は否めないそこは、ケントらシファノス陸軍学校に通う生徒が寝泊まりしている学生寮である。シファノス陸軍学校は科目に関わらず全寮制であり、通う生徒達は共に共同生活を送る。日々の生活から軍という共同体の理念を学んでいるのだ。
なるべく音を立てないように二段ベッドの下段から抜け出したケントは、淡い燐光の下でそそくさと寝間着から運動着に着替える。耳を澄ますと、まだぐっすりと眠っている同室の生徒の寝息が聴こえてくる。まだ起床時間までにはずいぶん余裕があるのだ。なるべく刺激の少ない淡い光を出す魔力灯を使っているのは彼らの眠りを妨げないためである。
手早く身支度を整えたケントはそのまま自室を後にする。板張りの廊下に出ると、ケントの使っていた照明と同じ色合いの魔力灯の光が静謐な寮内を照らしていた。
階層ごとに設置された水道から水を出し、顔を濡らす。冷え切ったその水が、一気に頭を覚醒させた。
学生寮は階層ごとに学年が分けられている。二年であるケントは二階に自室があった。地下水から引いているこの水道の水は魔力によって内圧を高められたポンプで二階まで押し出されているのだ。照明にしろ水道にしろ、魔硝石を機構に組み込んだ魔動力機関は日々の生活に欠かせない。
肩にかけたタオルで顔を拭ったケントの表情は清々しい。眠気はすっかり霧散し、頭は完全に冴えている。
そしてケントは階下へと向かい、寮の外へ出た。それを咎める者はいない。朝が近くなり、当直の警備員は待機位置に戻っていた。だが、仮に見つかったとしてもケントはすでに寮母に許可を貰ってあるため問題ない。
学校の敷地内に点々と灯る頼りない魔力灯の下、ケントは脚の筋を伸ばしたり軽く屈伸したりと準備運動を始める。
(今日は……〈槍突〉と〈曲刀〉だな)
清々しかったケントの表情が一転、いつもの無表情へととって変わる。頭の中で魔法文字を思い描き、二つの魔法を待機状態へと移行させたのである。それにより精神に負荷がかかり、その負荷を表情に出さないように意識する結果無表情になる。
準備運動と魔法の待機を終えたケントは暗がりの中を走り始めた。学校の敷地内を外周に沿うように走るコース。授業や自主練習で体力トレーニングを行う者がこのコースを走ることはままあるが、流石にまだ暗い時間帯に走り込みを行う者はいない。
ただ一人を除いて。
負荷をかけ過ぎないような適度な速度でケントは薄まりつつある夜を掻き分けていく。適度、とは言っても平均的な同級生の速度と比べると随分速い。魔法的技術のみならず、運動能力もケントは学内トップである。
おおよそ一周を走り終えた頃から空が夜明け前の瑠璃色に染まり始める。闇と居場所を奪い合うように白濁した朝靄が立ち込み始めてきた。その朝靄を突っ切ってケントはさらに外周を一周。
学校の敷地を魔法を待機した状態で二週走ったケントは、軽くクールダウンを済ませてから寮へと帰還する。朝日が顔を覗かせ大気が暖まるにつれ、闇と入れ替わった朝靄が露となって繁茂する植物たちに水やりを行っていた。
起き抜けに顔を洗った水道とまったく同じ位置で、うっすらと滲んだ汗を流す。タオルで水気を拭うと同時、寮の廊下の照明が落とされて自然光がとって代わる。まるで今朝の出来事を逆再生しているかのようにケントが寮の自室に戻って運動着から制服に着替え始めると起床時間を告げる鐘の音が寮内に響き渡った。
眠たげな眼を擦りつつも、ルームメイトが起床するとそこにはきっちりと制服に身を包んだケントの姿がある。
「お先に」
と、いつもまったく同じ言葉を残して部屋から出ていく後ろ姿をルームメイト達は特に興味もなく欠伸で見送った。もはや見慣れてしまった光景。しかし彼らはケントがすでに早朝のトレーニングを終えた後であるということは知らない。せいぜい指定の起床時間よりも多少早起き、程度の認識。
洗濯物を寮指定の場所に預け、ケントはまだ誰もいない寮内の食堂へ。カウンター奥で忙しなく動き回る給仕の女性に会釈すると、できたばかりの朝食をトレイに乗せて手渡してくれる。
「毎朝早起きねぇ。無理して身体を壊すんじゃないよ」
「はい、気を付けます」
代わり映えのしない挨拶。その後、出来立てで湯気を立てるスープとパンの朝食を適当な席で口にしたケントは、食堂が混雑し始めるより早く席を立った。トレイをカウンターに返し、そのまま教室棟へと向かう。自室に戻る必要がないようにすでに鞄は準備済だ。
まだ誰もいない静かな魔戦科二年の教室に辿り着いたケントはお決まりの真ん中窓際の席に腰掛け、鞄から本を取り出して読み始めた。学校の図書室で借りることができる魔法理論の教本である。魔法を専門的に学ぶ魔法科ならいざ知れず、要点だけを学ぶ魔戦科の生徒には本来縁のない書物だ。ケントはこういった学科の範囲外の教本を読んで始業まで時間を潰していることが多い。日によっては教室でもできるような簡単な魔法発動訓練をしている時もある。
毎日、毎日。飽きもせず。早朝のランニングに関しては天候が悪い時は控えるが、ケントはシファノス陸軍学校に入学してからほとんど毎日この自主練習を行ってきた。
誰にも知られることなく。
「…………ん」
ケントが珍しく顔を顰めて目頭を揉み解した。魔法を待機した状態での読書はかなり精神的に消耗する。内容が複雑ならばなおのこと。今回は少々難解な物を選び過ぎたようだ。休息のため、本に栞を挟んで閉じ、待機詠唱も解除する。
すると洪水のように世界に音が溢れ出す。気づけば始業間際。教室では魔戦科の生徒達が朝の歓談に興じていた。彼らがいつ教室に入ってきたのか極限の集中状態にあったケントは気付いていない。始業を告げる鐘の音だけは常に意識しているために気付くことができるが、それ以外は完全に意識の外である。声をかけられても気付くまい。
(まだまだ訓練が足りないな……)
まだ朝も早いというのに、すでにかなりの時間を自己鍛錬に費やしている天才はそんなことを思う。待機詠唱を二つしながら難解な本の内容を理解するという一流の魔法師も渋面を示す荒行をこなしていながら、彼はまだ訓練が足りないと言う。いったい彼の理想はどれほどのものなのか。
世界に音が戻ったことで、周囲の会話が聴こえてくる。それによって、ケントは今日が何の日だったのかはたと思い出した。
(二回目の他学科合同小隊演習、今日か)
すでに始業まであと僅か。今さら本を開く気にもなれず、ケントは窓ごしに晴れ渡る空を仰いで共に演習を受ける二人に想いを馳せた。
この一週間、リアとマルティナの二人に自分なりに努力の仕方の教えた。そして二人はそれを真摯に受け止め、取り組んでくれた。
たった一週間、されど一週間。本当に彼女らが真剣にそれに取り組んで、多くはない貴重な自由時間を努力に費やしてくれていたならば成果は必ず現れるはずだ。試験内容に関する対策、作戦もすでに昨日の内に伝えてある。
あとは彼女達次第。ケントもできる限るフォローするが、この試験で最終的に物を言うのは最低限の実力が伴った上での彼女達との連携だ。彼女達の頑張りがケントの成績さえも左右する。
準備に費やすことのできた時間はあまりにも短い。だか、それでもケントの見ている前では彼女達はよくやった。落ちこぼれと呼ばれる自分を変えようと精いっぱい努力していた。だからこそ、ケントは特別不安になることはなかった。だから今の今まで小隊演習が今日であることを忘れていた。
楽観ではない。努力に費やした時間はそのまま自信へと繋がる。自分に自信が持てれば自ずと結果も伴ってくる。結果が出ないのならばそれは努力に費やした時間が、自分の信じるにたる努力が足りていなかったというだけのこと。
彼女達は変わるにたる努力をした。一週間前とは違う。
ケントにはその確信があった。