第五章 天才の証明(1/8)
まだ陽も出ていない夜明け前の暗闇の中、いつものようにケントは目を覚ました。
頼りない小型魔力灯の蒼い光の中、朝の支度を済ませ寮の外へ。
薄闇の中、毎日の日課のランニングを始めようと準備運動を始めてしばし、少し前までなら走り出していたタイミングだがそうしない。暖まった身体が冷えないように念入りに準備運動をしていると、少し遅れて夜を掻き分ける足音が聴こえてきた。
「おはよう」
「おはよう。すまない。遅くなった」
駆け足でやってきたのは、ケントと同じく運動着姿のマルティナだった。急いで準備してきたのか、寝癖であちこち跳ねた髪に、いつもより雑な結び方のポニーテイル。ケントの苦笑に気付くと少し気恥ずかしそうに手櫛で梳いてみたりする。
「毎日やってる僕が言う事じゃないかもしれないけど、無理はしない方がいいよ?鍛錬で身体を壊してしまったら元も子もない」
マルティナの身体を気遣うケントに、彼女はいやいやと首を振る。
「確かに毎日はキツいが、余裕がある時はやれることは全部やっておきたい。君が毎日やっているというのならば、いずれは私もそれが苦痛じゃないまでにならないとな」
この早朝のランニングメニューはケントがマルティナに指示したわけではなかった。ふとした拍子にケントがこういうことをしていると溢したのを彼女が知り、彼女自身が自ら志願したのだ。
「それじゃあ行こうか。無理に僕に合わそうとはせずに自分のペースでね」
「分かった」
挨拶もほどほどに、二人は瑠璃に染まりつつある空の下を走り出した。
先頭をケントが行き、その少し後ろをマルティナが追従する。特に会話をするでもなく、他に誰もいない静寂の中に二人分の呼気だけが響く。
その内、マルティナの足音が遅れ始める。ケントはいつも通りに魔法を二つ待機していたが、後ろを追いかけてくる気配と距離が離れていくのを確かに感じた。
意識を占有する二つの魔法式。その圧迫された意識の中で、必死に外の情報に意識を向ける。そしてほんの少しだけ速度を落とす。
するとマルティナの走る速度がほんの少しだけ上がる。私に合わせなくてもいい、という言葉無き抗議。
言葉を交わさなくとも意思が伝わる。そのことに一抹の喜びを感じつつ、ケントは速度を上げた。
いつものように学校の敷地外周を二周走り終えたケントがスタート位置に戻ってくると、ちょうど一周目を走り終えた直後のマルティナが呼吸を整えていた。
「ふぅ……もう二周走り終えたのか……流石だな」
運動の熱により少しだけ上気した頬を外気で冷まし、当然のように運動着の上着に手をかける。
すでに訓練中、訓練後の見慣れた光景とはいえ、目の前で異性が脱ぎ始めるのはあまりケントの心臓によろしくない。
「まだまだ基礎体力が足りない……ケントと訓練を共にしていると、一年間私は何をしていたんだと思い知らされる」
薄いシャツ一枚になったマルティナは、ケントの内心の動揺などまるで関知せずにパタパタと胸元を仰ぐ。リザイドの体質上、どうしても脱がざるをえないので恥ずかしがっていても仕方ないと、ケントより先にマルティナの方が慣れてしまった。
「いやいや、マルティナはもともと体力や筋力は落ちこぼれって言われるようなレベルじゃなかった。ちゃんと努力してたんだなって分かるよ」
なるべくマルティナの方を見ないようにしつつケントは言う。その言葉は嘘ではなく、初めて出会った時点でマルティナの運動能力は落ちこぼれと呼ばれるようなものではなかった。
問題なのは技術と思考の柔軟さだ。実際、剣の正しい振り方を教え、訓練させただけで彼女の剣技はかなり見違えたとケントは思っている。まだまだ課題は多いが、一カ月という期間を思うとめざましい進歩だ。
「ありがとう。だが……これで、勝てるだろうか」
不安が滲む声にケントが視線を向けると、声と同じ色をした表情で彼女は地に視線を落していた。
「前期中間試験ももう明日だ。やれるだけの事はやった。だが、もっとできることがあったんじゃないかと思わずにはいられない」
なるほど、とケントは思った。彼女がケントの朝練に付き合うと言い出したのは、そういうことだったのだ。
直前にまで迫った前期中間試験。小隊で臨む合同試験。そこでちゃんとした結果が出せるかどうかという不安。仲間がいることで人は強くなれるが、仲間がいるからこそ不安になることもある。自分が足を引っ張ってしまうのではないかと。
目に見えて自分の上達を知ることができる魔法とは違って、体力、筋力の向上は自身ではなかなか実感しにくい。もとよりたった一ヶ月で劇的に変わるものでもない。だからこそ、実際に自身の成長を目で見て確認できているリアよりも、マルティナの方が大きな不安を感じていた。
「いや、マルティナはちょっと思い違いをしてるよ。今回の試験は相手に勝つことはあまり重要じゃない」
その不安を和らげようと声をかける。
「結果より過程を、目標を達成できたかどうかは重要じゃないってフランツィスカ先生は言っていた。今回の試験は、相手に勝つことよりも、どうやって戦ったかで採点されるんだ。だから相手に負けたから不合格ってことはないし、逆に勝ったから合格ってこともないと思う」
採点基準は勝敗ではなく戦い方そのもの。だから何が何でも勝たなくてはならないというわけではないのだ。そもそも勝敗で合否を決めていては確定で半数が不合格になってしまう。
「だからあまり気負いすぎないで。自分の実力を全て出し切れば、きっといい結果が出るさ」
元気づけようとしたケントだったが、マルティナは少し拗ねたように口を尖らせた。
「そうだとしても、だ。……やっぱり、勝ちたいじゃないか。私と、リアと、ケントの三人で」
その少しばかり子供っぽい仕草にケントが苦笑すると、マルティナはムッと眉を顰める。
「ケントは勝ちたくないのか?」
投げかけられた問いに、首を横に振る。
「もちろん僕だって勝ちたいさ。……というより、勝つつもりだよ」
その挑戦的な言葉に、マルティナは目をぱちくりさせた。
「相手は学年二位の実力者。だが、一対一ならともかく私とリアというお荷物がいる中で、勝てるのか?」
ケントとオルフェスの実力はほぼ拮抗していると言っていい。つまり二人の落ちこぼれがいる分ケントが不利、とマルティナは思っている。
「お荷物?僕は二人の事をそんなふうには思ってないよ。寧ろ、今回勝てるかどうかは二人しだいだ」
恐らくケントの予想通りなら、試合中、ケントが二人を援護する余裕はほぼない。よって試合の勝敗は二人の健闘しだいとなる。
「僕の見立てでは、決して分の悪い勝負じゃないと思う。マルティナも、リアもこの一カ月本当に頑張った。その努力の成果を出し切れば五分以上だと僕は思ってる」
それに……と内心ケントは付け加える。
リアにはある奥の手がある。待機詠唱ができなくとも、待機詠唱に対抗しうる切り札が。すでに使用許可はとってある。
誰もが使える技術というわけではない。少なくともケントにはできない。それは間違いなく彼女の才能といえよう。彼女は一月でその才能を開花させた。
(ああ、そうか。だからマルティナは自分が足を引っ張るんじゃないかと不安なのか)
リアのそのことについてはマルティナも知っている。だからこそマルティナは目に見えた成果が出ていない自分が一番の不安要素だと思っているのだ。
「マルティナ。今回の試験は、リアとマルティナの二人がどれだけ綿密に連携をとれるかが鍵だ。そのための訓練もずっとしてきた。だから、その努力した時間を信じるんだ。努力が必ず実を結ぶとは限らないと言う人もいるけど、自分が真剣に努力したという事実は絶対に消えない。真剣に何かに向き合うことのできた自分を信じるんだ。それはとても難しいことだから」
努力を否定することはできても、何か一つのことに真剣に向き合うことができるという人間性は絶対に否定できない。努力できるというのは、それだけですごいことなのである。
今回の試験で、彼女らのそのすごさを、彼女らを馬鹿にした者達に見せつけてやるのだ。
「ケント……ああ、分かった!」
と、マルティナが力強く頷いた直後、軽く身震いする。早朝の気温は低い。運動で暖まった身体の熱も長話ですっかり冷めてしまったようだ。
慌てて運動着を着こむマルティナにケントは声をかける。
「さ、朝練は終わり。詳細な作戦も含めて、後は三人で放課後に話そう。じゃ、またいつもの場所で」
「ああ、また放課後に」
そうして二人は別れた。空はもうとうに白み始めている。
ケントのルーティンワークと化しているこの朝のランニングだが、この日はいつもとは違った心持ちでトレーニングすることができた。
走っている最中は特に会話しているでもないのに、なぜだろう。誰かと共に走るのは、少し楽しかった。