第四章 私に、できるかな(4/4)
噴水を望むベンチに二人並んで腰かけてしばし。すっかり水を吸ってしまったケントの靴をチラリと見て、ようやくリアがまともに口を開いた。
「……ごめんね。靴とズボン、濡れちゃった」
「気にしないで。これぐらい、少ししたら乾くよ」
流石に靴とリアの鞄はすぐに、とはいかないだろうが、春の陽気にズボンの裾はすでに乾きかけている。靴はちゃんと脱いで天日干ししないと少々臭うかもしれないが、今のこの雰囲気では靴を脱ぐ気にはなれない。
また少し、沈黙。
どうしたものかとケントが考えあぐねていると、だいぶ落ち着いてきた様子のリアが話し始めた。
「……あの人達にからかわれることは、前からあったの。でもちょっと馬鹿にされるぐらいで、全然気にしてなかった」
落ちこぼれの期間が長いと、よくも悪くも神経がずぶとくなる。少々の誹謗中傷は気にもならない。それは天才と呼ばれるケントも一緒だ。
落ちこぼれと天才。正反対でいて、その実、悪目立ちするという点ではまったく同じ。
だからこそケントは、リアやマルティナに今まで誰にも感じたことのなかった何かを感じる。目立ちたくて目立っているわけではない。自分は精いっぱいやっているだけなのに、周囲から向けられるのは謂れなき負の感情。気にしないからと言ってそれが心地よいわけでは断じてない。そんな似たような境遇を持つ者同士だからこそ思うところがある。
「でも流石に、鞄を隠されたのは我慢できなくて。それがないと訓練できないし」
その鞄は今ベンチの一角を占領して陽の光を浴びている。あとで中身も乾かさなくてはならない。だが、鉛筆はともかく紙類はもうまともに使える状態ではあるまい。
「あの人達の言ってることは正しいよ。ケント君と同じ班にならなかったら、私、努力の仕方も分からなかった。でも、私は、それでも自分でちゃんと頑張ったって、思ってたから……!」
悔しさが、喉を震わせる。
「だから、結果を出せたのは私の力じゃないみたいに言われて……悔しくて……」
本当に努力したからこそ、そう思える。苦しくても、頑張ることを止めなかったからあの結果がある。
今まで誰よりも自分を信用していなかったのは自分だ。それが、今回の件で少し信じてもいいかもしれないと思えた。その自信の新芽を踏みにじられたからこそ感じる屈辱。紛れもない成長の証。
「――前にも言ったけど、僕は頑張り方を教えただけだ。頑張ったのはリアだ。あの結果を出せたのは僕の力だけじゃない。十一班の、僕と、リアと、マルティナの力だ」
一人の力ではない。三人の力だ。その要となったのがケントだというだけだ。
「……見返してやりたいなぁ」
ぽそりとリアは、遠くの方を見ながら呟いた。
「あの人達がもう馬鹿にできないぐらい強くなりたい。もう落ちこぼれじゃないんだって。努力したら、ヒトは変われるんだって見せつけてやりたい」
そして、視線をケントの方へ。
「私に、できるかな」
少し潤んだ、大きくて丸い紫水晶の瞳。そしてその上に輝く真紅の宝石。
魔法が苦手な落ちこぼれのマギアス。
――踏みにじられた新芽は、より太く、強くなり、若々しいその葉を太陽へと伸ばす。
「それはリア。君しだいかな」
そしてケントはベンチから立ち上がった。
何を心配することがあろうか。事実、彼女はケントが何をするでもなく立ち直ってしまった。
立ち上がった視線の先、渡り廊下でキョロキョロと辺りを見回している見知った人物の姿を見つけてケントに笑みがこぼれた。
「――よかった。僕だけじゃなかった」
その赤髪をポニーテイルにしたリザイドの少女は、二人に気付くとケントと同じように笑顔を浮かべて片手を上げた。
何も約束などしていなくても、三人は自然と同じ場所に集まった。それが可笑しくて、それが嬉しくて、ケントは笑ったのだ。
人種も違う、性別も違う、学科も違う二人ではあったが。シファノス陸軍学校に入学して一年と少し。ケントに初めて友達ができた。
こちらに歩み寄ってくるマルティナに片手を上げて応え、ベンチに座るもう一人の友達に手を差し出す。
「さ、中間試験に向けての対策を考えないとな。三人で。もちろん特訓も」
ケントは少しばかり思い違いをしていた。彼女がなぜ、こうも力強く立ち直ることができたのかを。
リアだけでは、こうはいかなかった。誰かが、否、ケントが側にいてくれたからすぐに立ち直ることができたのだ。多くの言葉など必要ない。ただケントが隣にいてくれるだけで、リアはいつもより少しだけ強くなれる。
「――うん!」
差し出された手を取る。リアより一回り大きくて、どれほどの時間木剣を振ったのか分からないくらい硬くなった手の平。けれど、とても温かな手の平。
その熱を感じただけで、リアの心臓が跳ねる。頬が少しばかり上気する。
リアが立ち上がるとあっけなく離される手。この手をずっと握っていてもらうにはどうすればいいだろうか。それは、自分を馬鹿にした人達を見返すこと以上に難しいことのように思えた。
「まさか二人ともいるとは思わなかった。どうにも自然と足が向いてしまってな。それが私だけじゃなくて、なんというか、少し嬉しい」
自分から言っておいて少し気恥ずかしいのか、マルティナは片手で前髪を弄った。その拍子に視線を下げたことでケントの異常に気付く。
「って、どうしたんだ。靴がびしょ濡れじゃないか」
「ああ……リアの鞄が噴水の中に落ちちゃったんだ。だから取りに入った」
ケントがベンチに置いてある鞄を目線で示すと、マルティナは納得し災難だったなと同情する。
マルティナ相手に隠すようなことでもないとは思うが、せっかく明るくなった雰囲気を壊すこともあるまい。
「しかし靴を脱いで入ればよかったんじゃないか?ちゃんと乾かさないと臭うぞ」
「はは、そこまで気が回らなかった」
苦笑しつつ、鞄を手に取る。水を吸っているせいでずっしりと重い。
「中にも風を通さないとな。リア、ちょっと開けて中身出すよ」
「あ、う、うん。分かった」
少しばかりぼぅっとした様子のリア。それをまだ先ほどの余韻が抜けきっていないだけだろうと、特に気にせずケントは鞄の中身をベンチの上に出した。
水を吸ってよれよれになった紙束と筆記用具をベンチに並べ、鞄の中に溜まった水も全て外に出す。そして鞄は口を開けて近くの木に引っ掛けた。完全にとはいかないまでも、これで帰るまでには多少は水気が抜けているだろう。
「筆記用具はともかく、やっぱり紙はもう使えないな……」
もうすでに大半が使用済であったのが不幸中の幸いか。びっしりと紙に書かれた魔法文字が滲んで奇妙な模様となっている。
なんとなしにケントはそのリアの努力の証を流し見た。ケントの言いつけを守り、変わり映えのしない反復作業を何度何度も、投げ出すことなく続けた証拠。
「……ずいぶん上達したな」
一枚一枚濡れた紙を捲っていく。濡れて滲んではいるが、そこに書かれている魔法文字にはほとんどブレがなく、教本そのままの完璧な形で書かれていた。
もとよりリアは字を書くという行為そのものは下手というわけではなかったのだろう。だが模写するという行為と意識するという行為はまた別だ。手本を正確に模写するのは、その手本を頭の中に完璧に記憶するための手段でしかない。
興味が沸いたのかマルティナもケントの肩越しに紙を覗き込む。
「本当だ。教本の魔法文字そのままじゃないか。こんなに綺麗に書けるなら、絵を描いたりするのも得意だったりするんじゃないか?」
「まぁ絵を描くのは嫌いじゃないけど……」
「はは、僕はからっきしだから、機会があったらリアの描いた絵を見てみたいな」
「うえぇ!?そ、そんな上手じゃないよ……?」
魔法の腕は魔法科にも引けをとらないケントだが、それとこれとは話は別。絵が上手い者は魔法が得意ということがないように、魔法が得意な者が絵が上手いということもない。
「でもこれだけ綺麗に書けるのは本当にすごいよ」
そこでふと、ケントは思い至る。
「これだけ綺麗で正確に魔法文字を書けるなら、あるいは……」
「……ケント君?」
急に声のトーンを変えたケントにリアが怪訝な表情を向ける。その呼びかけには気づかず、ケントは何やら思案するように顎に手を当てた。
「試験で使えるかどうかは確認してみないと分からないか……でも自分で作った物ならたぶん大丈夫なはず……」
「おーい、ケントくーん?」
一人でブツブツと呟いていたケントだが、不意に顔を上げて不適な笑みを浮かべた。その初めてみるケントの表情にリアは目をぱちくりさせる。
「次の中間試験の秘策を思いついた。上手くいけば、待機詠唱を使えなくても待機詠唱に対抗できる」
「え……ほ、ほんとに……?」
次の中間試験では、魔法師同士の戦いが必ず発生する。そして魔法師同士の戦いとは、相手の行動をどれたけ先読みできるかを競う勝負だ。こちらの魔法を相手がどの魔法で防御するかを予測し、その防御魔法を崩せる魔法を待機し、間髪入れず撃ち込むことで崩す。あるいは、敵の反撃が何かを予想し、それに対する防御魔法を待機しておき、備える。そしてその魔法合戦に参加するには最低でも一つは待機詠唱ができなくては話にならない。できなければ魔法の二連射で倒されるのみだからだ。
「中間試験!私もその話がしたかったんだ!」
はたと思い出してマルティナも声を上げる。もとより、その話をしたいがためにケントらを探していたらしい。
「中間試験は土人形じゃなく対人戦だ。だが私は今まで模擬戦で勝ったことがない……だから、もっと強くならないといけないんだ」
マルティナが自分の手の平に視線を落した。一週間の型の訓練によって、その浅黒い肌に肉刺が出来て痛々しく潰れてしまっていた。
その痛む手を、握りしめる。
「――一週間で私はこれだけ成長できた。なら、前期中間試験までの一カ月と少し、真剣に努力すれば……この潰れた肉刺が硬くなるまで剣を振れば、私はどれだけ強くなれる?」
マルティナとリア、二人の落ちこぼれには決定的に足りないものがあった。今回の小隊演習はその足りないものを二人に取り戻させた。
私ならできると。もっと上へ行けると。自分を見限らず、変われるのだという自信を――
「教えてくれケント。私は何をすればいい?どうすればもっと強くなれる?どうすれば君のようになれる?」
「ケント君。私にも教えて。私も……ケント君みたいになりたい!」
もはや二人は、ケントが自分達落ちこぼれとは違う、天才という及びもつかない存在であるなどとは思っていない。
彼がいつも不愛想なのは、常に待機詠唱の訓練をしているからだということを知っているから。
彼が空いた時間に投影魔法を使っているのは魔法の精度を上げるための訓練をしているからだと知っているから。
二人の訓練を見守りながら、自分も筋力トレーニングに励んでいたのを知っているから。
人間。マギアスのような魔法適性も、リザイドのような強靭な肉体も、デモリスのような天性の素養を持つでもない。
ケント・バーレスは天才ではない。彼の強さは、果てしない努力の末に勝ち取ったものだということを二人の落ちこぼれは知っていた。
「……………」
しばしケントは言葉を失った。
真摯な眼差しで、自分のようになりたいと言ってくれた二人の少女。それがとても嬉しかった。
天才だからと、まるで自分達とは違う存在であるかのように扱われるのではなく、同じシファノス陸軍学校に通う生徒として、貴方は目指すべき目標だと言ってもらえた。天才という結果ではなく、それを努力によって勝ち取ったケント・バーレス個人を初めて認められた気がした。
そして思い出した。自分がなぜ、ここまで努力しているのかを。
「ケント君……?」
不意に黙り込んだケントに二人が怪訝な顔を向ける。その二人の肩を、ケントは両手でそれぞれ掴んだ。
驚く二人に、ケントは言う。もう何度もこの言葉を口にしてきた。それに彼女らは応えてきた。今回もきっとそうなる。
昔言ってもらえたその言葉に、ケントが今も応え続けているように。
「大丈夫。君達ならできる」
――お前ならできる。
そう言って、すっかり痩せこけた顔で彼は笑ったのだ。その言葉、あの光景をケントは一生忘れない。
「見返してやろう。君達自身の力で!」
力強く頷いた二人。
そして、その日から前期中間試験へ向けての猛特訓が始まった。
数日後、二年の前期中間試験の対戦相手が発表された。
ケント達十一班の対戦相手は同じく三人班の十四班。
奇しくも、いや、やはりと言うべきか。学年二位の実力者、デモリスのオルフェスが属する班であった。