プロローグ 魔戦科始まって以来の天才
穏やかな午後だった。どこまでも澄み渡る蒼穹の下、木々の枝に留まった小鳥たちが小気味良く囀り、生命を謳歌している。
一陣の風が吹く。さわさわと葉擦れの音が小鳥の歌声に伴奏を合わせた。暑くもなく、肌寒くもない丁度よい陽気。この晴天の下、野原にでも横になれば人も、動物もあっという間に睡魔の抱擁に身を委ねてしまうだろう。
されど、その陽気の中で向かい合う二人の少年の間に満ち満ちた空気は息が苦しくなるほどに張りつめていた。
共に年齢は一七ほどに見える。体格も同じほどで衣服もまた同じ。通気性のよい薄手の運動着。手にした木剣もまた同じ規格の物だった。同い年、同じ服、同じ得物を持った少年二人が、周囲に何もない広場で三メイトルほどの距離をあけて向き合っているのである。
だが二人には決定的に違う点があった。片や一方は取り立てて特徴のない少年。この地方でよく見られる濃い茶色の髪に同色の瞳、顔だちはなかなか整っているが、せいぜい中の上といったところ。中肉中背だが、見る者が見れば全身にメリハリのある筋肉を纏っているのが分かる。逆に言えば、それだけ。運動ができそうな普通の少年以上の印象は受けない。
もう一方は、目前の少年よりもさらに筋肉質だった。体格が同じほどでも筋肉がより目立つのは、筋肉量の差以上にそれを隠す脂肪の少なさだ。痩せている、というよりは絞り込まれている。肌の色も一方よりも浅黒い。
否、よく注視して見ればその少年の肌感に違和感を覚えることだろう。基本的には日焼けした普通の少年の肌、だが手の甲や首筋、その所々がより黒く、どこか硬質的な光沢が窺える。
そして何より二人を決定的に隔てているのは、筋肉質な少年の眼球である。鮮やかな琥珀色の瞳。その瞳孔は縦に細長く割れていた。しなやかな体躯も相まるとさながら蜥蜴を思わせる全貌。とすれば硬質的な光沢は鱗、といったところか。
リザイド。彼の人種はそう呼ばれていた。
この国ではそう珍しくもない人種である。
「んじゃあ、準備はいいかナ?」
張りつめた空気を意にも介さない、なんとも気の抜けるような女の声。向き合う二人の少年の間に割って入ったのは二十の後半ほどに見える女だった。
ぴっちりとした制服に身を包んでいるが、どうにも表情や口調に緊張感がない。そんな飄々とした女が順に少年らを見やる。
「いつでもいいすっよ」
最初に答えたのはリザイドの方。その声色、内に秘めたる闘争心を隠そうともしない。祖先の血を強く受け継ぐ爬虫類に似た眼光に、眼前の相手を打ち倒すという強い決意が見てとれた。
次に女に視線を向けられた少年は、無言でこくりと頷いた。蜥蜴の眼光を向けられて睨み返すでも委縮するでもなく、無表情。肝が据わっているのか、それともそういった感覚に鈍感なのか。
「おっけい。んじゃあ……始めッ!」
女が少し距離をとってから高らかに宣言したその瞬間、蜥蜴がその身を躍らせた。
地面を滑るような低空の飛び込み、速い。そのうえ直線ではなくフェイントを織り交ぜて左右に振れ狙いを絞らせない。明らかに何らかの訓練を受けている者の動き。その速度そのままに横薙ぎに払われた木剣の一撃を、刀身を下にして縦に構え、左手を添えた木剣が受け止める。
カァンという木材同士がぶつかる衝突音。素人ならば棒立ちのままただ打たれるがままだったろう一撃を見切ってなお、少年は無表情。
だが防がれることはある程度想定済みだったのか、リザイドの少年はすかさず二撃目のために木剣を一旦引く。その隙とも呼べないような空隙に後手に回った少年が動いた。
少年は添えていた左手で木剣の刀身を掴んで右手を自由にした。刃のない木剣だからこそできる芸当、そのまま前に出てリザイドの少年に肉薄。
「くっ……!?」
あまりにも密着されすぎれば木剣は振れない。二撃目を放てなくなった少年の顔面に右手の掌底が迫る。
間一髪、とっさの反射神経で上体を逸らしたおかげで掌底は顎を掠めるにとどまる。それ以上の深追いはせずに一旦引いた茶髪の少年と同じくリザイドの少年も後方に跳ぶ。
双方木剣を構え仕切り直し。距離は遠いが最初と寸分違わぬ状態に戻る。
最初に仕掛けた少年の体術は十二分に卓越したものだった。だがそれを平然と見切り、奇策じみていたとはいえ反撃を行った相手の少年の技量はいかほどか。
体術だけでは分が悪いか。そう判断したリザイドの少年がまたも先んじて攻勢に出る。
「シュル/ペディム/エファ/エファ/ウエル――」
木剣を持たぬ左手の平を相手へ向け、唱えるは独特な発音と律動の呪文。その一遍を口にする毎に手の平へと不可視の力が集まってくる。
「〈槍突〉!」
そして手の平から放たれるは光の帯。一直線に茶髪の少年と向かうそれはまさしく槍となって迫る。
迎え撃つ少年も同じように左の手の平を迫りくる光の槍へと向けた。
「〈円盾〉」
即座に展開される円状の力場。少年の前面を全て覆うそれは容易く光の槍を受け止めてしまう。光の槍も円状の力場も同じ技術によって生み出されたものであったが、リザードの少年と違って茶髪の少年には準備動作の呪文を唱える段階がない。その差はいったい何にあるのか。
だが光の槍が防がれることはリザイドの少年にとって想定の範囲内のことだったらしい。その口の端が不適に上がる。
「〈曲刀〉!」
続けざまに左手を薙ぎ払い、再び光の攻撃が放たれた。が、今度は茶髪の少年と同じく呪文がない。リザイドの少年もまた、同じ技術を習得しているようだ。二撃目の攻撃は大きく弧を描き、側面から茶髪の少年を強襲する。茶髪の少年の前方にはいまだ円状の力場が発生していたが、それでは側面は守れない。
最初の一撃は誘導。前方を守らせ、空いた側面に本命を叩き込む。野性的な見た目とは裏腹に、リザイドの少年の戦いは知的さも兼ね備えている。
勝負を決めるかに思えたその連携、しかし――
「〈装鎧〉」
新たな力場が発生する。今度は前方ではなく、茶髪の少年を覆うように広範囲に。その分力場は薄くなったように見えるが、横殴りの光の攻撃は威力も直線より下がるようで、その薄い力場に弾かれてしまう。
「嘘だろッ……!?」
リザイドの少年が毒づいた。彼が驚愕したのは、攻撃が弾かれたということ以上に茶髪の少年が呪文を用いずに二種類の盾を展開したことだった。
「シュル/ペディム/エファ/エファ/ウエル――」
茶髪の少年が呪文を唱え始めた。最初にリザイドの少年が唱えた物と同じ物。何が来るか察したリザイドの少年が慌てて意識を集中する。
「〈槍突〉」
攻守を入れ替えて放たれる光の槍。それを先ほどの再現のように呪文なしで展開された円状の力場が弾く。
「〈曲刀〉」
横殴りの攻撃まで同じ。
「あ、〈装鎧〉――ッ」
展開された薄い力場が攻撃を防ぐ。だがリザイドの少年に一切の余裕はない。顔に若干の冷や汗が浮いている。力場の展開も被弾するギリギリのタイミングでなんとかできたといったところだ。
受けるのではなく、避けるという選択肢もあった。だがそれは彼の自尊心が許さなかった。同じ技、同じ連携。受けきれねば相手より自分が劣っていると認めてしまうことになる。
だが、茶髪の少年は無情にも次なる手を打った。
少年が突然矢のように飛び出す。一気に相手との距離を詰め、円状の力場ギリギリまで近づくと重心を下げた姿勢から左手をきつく握りしめる。
「〈槌衝〉ッ」
ガァンッ
茶髪の少年が握りしめた拳を逆袈裟に振りぬいた瞬間、リザイドの少年を不可視の衝撃が襲った。傍から見ていると、明らかに届くはずのない距離から振るわれた拳が相手の少年を殴りつけたように見えた。
「うわああッ!?」
纏った薄い力場ごと吹き飛ばされた少年は悲鳴を上げて吹き飛んだ。しばし空を飛び、やがて重力のままに地面に落下。
「一本ッ!そこまで~」
そこで模擬戦の終了が宣言される。どうやら先に一発でも有効打を入れた方が勝ちというルールだったらしい。
「くそッ!」
地面に転がっていたリザイドの少年がそう吐き捨てて、地面を殴りつけた。着地の瞬間にしっかりと受け身をとったようで、外傷らしい外傷は見当たらない。咄嗟に受け身をとれるということはそれだけ彼の技量が高いということを示しているが、それでも茶髪の少年には及ばなかった。
「あ~あ、やっぱりケントの勝ちかよ」
俄かに辺りが騒がしくなった。広場の端から二人の少年の試合を見学していた者達が集まってきたのである。
その数二十余名。皆同じ運動着を着て年齢も同じほど。性別は男女半々といったところで、人種はてんでバラバラだった。
爬虫類の目を持つ者、額に宝石のような器官を持つ者、体格が大きな者、角のある者……それはこの国全体の人種比の尺図のような光景だった。
「はいはい静かに。はい、二人とも。元の位置に戻って~」
女がそう言ってパンパンと手を叩く。
立ち上がって砂埃を払うリザイドの少年に、木剣が差し出された。
「……………」
今しがた彼を吹き飛ばした茶髪の少年が、吹っ飛んだ拍子に落した木剣を拾ってリザイドの少年に差し出していた。模擬戦に勝ったことを誇るでもなく、無表情。当然の結果、といった風。
それがリザイドの少年には気に食わない。
「……チッ」
乱暴に木剣をひったくると、少年は元の位置に戻った。気を害した様子もない茶髪の少年もそれに続く。
「は~い、それじゃあ、今回の模擬戦ですが、まずはヨルク君」
女がリザイドの少年に向き直る。
「動き自体は悪くなかったよん。ただ、無理に相手に張り合おうとするのはよろしくないにゃあ。ヨルク君は身軽なんだから、避ける選択肢もあったと思うよ?」
気の抜けた口調のわりに的確な指摘。指摘された少年ははい……と力なく返事をして項垂れた。
「それでぇ、ケント君わぁ……」
勝った方の少年に向き直った女は、しばし中空を眺めて思案し、
「うん、そのまま頑張ってぇ~」
「……はい」
なんとも間の抜けたやりとりも周囲の見物人達にとってはもはや見慣れたもの。
少年の相変わらずの様子に女はやれやれと肩を竦めた。
シファノス陸軍学校魔戦科二年、ケント・バーレス。それが茶髪の少年の肩書きであり名前である。
しかし、校内に置いてはもっと通りのよい通称が彼にはあった。
魔戦科始まって以来の天才、である。