第17話:決戦
深夜零時。
繁華街以外はほとんど物音のしないこの時間、俺たちはどことなく寂れた路地にある、真っ暗な建物を目指して歩いていた。
先行く朔夜は、昨日の弱さを一片も見せない、いつものような堂々とした後ろ姿だった。
今からあのケモノのところに攻め込む。
失敗したらもう戻れないっていうのに、俺の心は妙に落ち着いていた。
多分、彼女との約束があるせいだと思う。
つい1時間ほど前、ホテルで彼女は俺にこう言った。
「……英輔、昨日の返事なんだけどさ」
あまりに前触れもなくそんなことを言われたので俺は焦ったものだ。
「なんだ?」
自然を装っても声が裏返っていた。それを聞いた彼女は可笑しそうに笑ってから
「今日、全部終わったらちゃんと言うね。……だから」
その次に彼女が言いたいことがなんとなく分かって、俺は頷いた。
「それまでに死ぬなってことだろ? お前もな」
俺がそう言うと、彼女も頷いて
「勿論。約束は守るよ」
そう言ってくれた。
ビルに向かって1歩進むごとに、奴の嫌な気配が大きくなっていく。
同時に、視界に色とりどりのネオンサインのようなものが入ってきた。
「……相変わらず取り巻きが多いみたいね」
オカマ男がぱっと人間の姿になった。
「あいつらの相手はワタシがするわ。アナタ達は各々しっかりやりなさい」
「でもアンタひとりじゃあの量は……」
鼠女がそう言うと
「他に誰がやるってのよ。アナタのお相手はもうそこで待ってるみたいだけど?」
オカマ男はビルの上方を指差した。
目を凝らすと、窓に悠々と腰掛ける銀髪の男が見える。
彼はこちらを認めたかと思うと、ふっと地面に着地して、こちらを待っているようだった。
「そういうわけで。せいぜい死なないようにね」
オカマ男はそう言って、ケモノの群れに突入していく。
俺たちもそれに続いてケモノの層を突破した。
すると
「緋紅、お前もう動けるのか? その頑丈さにはちょっと驚いたぜ」
目の前に銀髪の男が立ちふさがる。
すると鼠女がすっと前に出た。
「皮肉にもアンタが見出した例の治療法でこの通りよ、流星」
「ははっ、そうかい。ちったあ飲めるようになったのか、お前」
「……ええ。アンタと酒を酌み交わせないのが残念だわ!!」
そう言って白いコートをなびかせながら鼠女はあの男に向かっていった。その背中は俺たちに『行け』と語っている。
言葉はなくても、鼠女の眼には確かな『気力』があった。『生きる』という意志が感じられた。
「英輔、行こう」
朔夜もそれが分かったのか、それだけ言ってビルの入り口へ駆け出した。
空は街の光を受けて赤く、今夜はとうとう雨が降るのか時折雷が光る。
それを仰ぎながら私は地に倒れた。
流星が放った炎の膜に吹き飛ばされて。
「……ちっ」
私が体勢を立て直す前に彼は自慢の俊足でこちらに近づいて私の襟元を掴んだ。
「考えもなしに突っ込んでくるからこうなるんだぜ? お前、何しに来たんだよ。死にに来たのか?」
そう言う彼に、私は尋ねる。
「……流星、聞いたわよ。アンタ、太秦の研究材料になったって?」
「……ああ、あのイカレた奴、太秦って名前だっけか? そうだぜ、俺はもう火鼠じゃない」
彼はそう言って、天に向かって人差し指を指す。
その時、一際大きな雷鳴が轟いた。
「ほら緋紅、雷だ。昔はこいつを聞いたらすぐに穴に隠れたよな? 馬鹿みたいにさ」
彼は嗤う。
「雨が怖くちゃ雷が鳴る日は外にも出られない。どんなに飢えていても、だ。どうしてそんなに弱っちいんだろうな、火鼠ってのは」
私は襟元を掴まれながらも必死に首を振る。
「弱い? そんなことないわ。どんな生き物でも弱点はあるものよ。アンタもそれくらい分かってたはず。なのにどうして逃げたの?」
すると彼は眉をひそめた。
「逃げる? 馬鹿言うなよ。俺は進化の道を選んだんだ。ずっと同じところで立ち止まってるなんて、我慢できないんでね」
私は拳を握る。
「……ああ、そう。だからアンタは私の前から消えたのね。その、『進化』のために?」
すると彼は口角を上げる。
「その通りだ。あの時言っただろ? 『別の生き方をしよう』って。……お前もいい加減……」
彼が次の口を開く前に私は奴の頬に拳を打ち込んだ。
彼にとっては不意打ちだったのか、流星の身体は後ろにのめって、私の襟元を掴んでいた手も離れた。
「やっぱり意見の相違が離婚の原因ってとこかしら? 言っておくけど私は火鼠であることを捨てたりしないわよ」
私がそう言うと、彼は頬を手で押さえながらもにやりと嗤った。
その時だ。
ぽつりと、顔に水滴の粒が当たった。私は思わず眉をひそめていた。
「……はは、雨だぞ緋紅。尻尾巻いて逃げないのか?」
流星はからかうようにそう言ってくる。
確かに、全身が濡れてしまえば私は死ぬ。
けど。
「アンタをぶちのめすまで逃げないし、死なない」
最近やっと、分かったことがある。
今まで、彼を失ったことがどれだけ辛くても死ぬことができなかったことを、私は自分に勇気がなかったからだと思っていた。
けど、それは違う。
生への執着は醜いことじゃない。
自分のために一生懸命生きることは悪いことじゃない。
それは彼女がずっと教えてくれていたことなのに。
だから、私はもう、自分を嫌うのはやめる。
今まで図太く生きてきた自分を、きっと好きになってみせる。
そのために、もう1度、私は前に踏み出す。
「私はアンタなんかのために死んでなんかやらない。命の誇りを捨てたアンタは私には絶対に勝てない。証明してあげるわ」
私がそう言うと、彼の表情は一転した。
さきほどまでは遊んでいるようにも見えた顔は、突然憎しみを映し出したようなものに変わる。
「……勝てない、だと? ふざけんなよ、お前はこの前俺に負けて泣いてたじゃねえか」
「流星、アンタが言ったのよ。『私は甘い』って。だったら今度は甘さは捨てる。本気じゃない私に勝ったつもりで喜んでたの? アンタの器も知れてるわね」
私がそう挑発すると、彼はとうとうキレたらしい。
紅い眼が据わった。
「……いいぜ緋紅。前は見逃してやったがそこまで言うならもう情けもかけねえ。……お前の亡骸から剥ぎ取れる緋衣は俺が貰ってやるよ!」
殺意の篭ったその声と共に、稲妻が黒い空を裂いた。
星が1つも見えない、真っ暗な空。
時折光る雷が不気味だった。
しとしとと降ってきた雨をかぶりながらも、奴はまったく身じろぎせずに俺たちを待ち構えていた。
「……わざわざそちらから来てくれるとは思わなかったな。命が戻らないと知って諦めがついたか?」
黒い髪の少年は言う。
「馬鹿も休み休み言え。諦めてるように見えるのか?」
朔夜はそう返した。
彼女の手には赤く光る火光が握られている。
そして俺の手には土の神の剣が収まっている。
「……今更そんな脆弱な武器でどうするつもりだ? 確かに精霊は本来この世で最も強力な生命力を持つ生き物だろうよ。だが多くの人間はその存在を知らない。それゆえに精霊の住処を平気で奪い、世界を蹂躙した。今残る精霊にかつてほどの力がある者がどれほどいよう?」
奴は嗤う。すると
「……たかだか造りものにそこまで言われるのも癪じゃな」
埴輪が喋った。
「土の精霊か? お前もそこの鹿の精霊に負けず劣らず随分と弱っているじゃないか」
それを聞いて俺は思わず埴輪を見た。
彼女はいつもと変わらない。けれど奴は『弱っている』と言った。
(どういうことだ?)
すると埴輪は言った。
「……確かに妾の力は長く封印されている間に随分と衰えた」
するとケモノは嗤う。
「それも人間によって、だろう? ほら見ろ、やはり人間の愚かさは救いようがない」
埴輪は首を振る。
「確かに人間は時にひどく愚かよ。じゃがな、剣があの山に封印されたのはこの剣と妾を戦火から守るためじゃった。妾はその人間の気配りから今ここにおる」
その時、頭の中に埴輪の声が聞こえた。
『英輔、妾が奴の動きを止めるから、その隙に行け』
俺は心の中で頷いて、奴に向かって走り出した。
剣を振るうと奴が鋼のような腕でそれを受け止める。
その瞬間に埴輪が光のピンのようなもので奴の動きを止めた。
「!?」
俺はすかさず奴の腹部に拳を打ち込む。
すると前に感じたような、何かが流れこんでくる感覚を拳に覚えた。奴の身体に触れている限り、それはとめどなく流れてくる。
だがその力は尋常じゃなく、気を抜けばこちらが吸い取られてしまいそうだ。
「……貴様!」
突然奴の唸り声が聞こえたかと思うと、黒い光が破裂して、奴の身体の拘束が外れたのが見えた。
「っ!」
すかさず奴は俺に鋭い爪を向ける。
「英輔!!」
そこに朔夜が火光で割って入って、相手をどうにか弾き飛ばした。
奴は体勢を素早く立て直した。
「……貴様、どうして我の中にある娘の魂を抜き出せる?」
奴は珍しく困惑しているようだった。しかし
「……だがお前が抜き取れるのは『形をもった』力のみのようだな」
奴はそう言って嗤う。
「……!!」
それを聞いて朔夜が唇を噛んだのが分かった。
『形を持った力』しか抜き取れない、ということは、やはり形をなくしてしまった彼女の命の力は抜き取れないということなのか。
(くそ、どうしたらいい)
俺も痛いほど拳を握った。
「その様子だとその小僧の力に一抹の期待を持っていたようだな? だがこれで無駄だと分かっただろう。ここでその魂、散らすがいい」
奴はそう言うと、メキメキと音を立ててあの黒い龍の形に変化した。
暗黒の空、神の怒りを示す稲妻を背景に宙に浮かび上がるその巨体は、まさに世界の終わりに見るような光景だった。
「……いい、英輔。アイツを倒そう。アイツが自分の弱点に気付いてない今がチャンスだよ」
朔夜がそう呟いた。
「……けど」
俺が食い下がろうとすると
「戻らなくてもいい。ううん、ほんとは取り戻したかったけど、でもやれることはもうやった。私は後悔しないよ、今までのこと」
彼女はそう言った。
その顔も、その声も、本当に潔くて、俺は胸が熱くなった。こんな状況じゃなかったら、間違いなく彼女を抱きしめていただろう。
だけど。
「……朔夜、俺にはまだ手がある。だから諦めないでくれ」
俺はそう言った。
「え?」
彼女が戸惑いの声を漏らしたとき、彼女の手の中の火光が一際光って焔が現れた。
「君のやりたいことは分かった。けれどそれは危険すぎる」
わざわざ彼が出てきて忠告するんだ。相当危険なことだとは分かる。
けど。
「俺も最大限に自分が出来ることをやっておかないと、後で後悔するから」
俺はそう言って、再び駆け出した。
「英輔っ!?」
朔夜の声を背中に聞いても俺はもう振り向かない。
俺は外からじゃ『形を持った』力しか抜き取れない。
だったら、『形のない』力は中から持ち出せばいい。
「埴輪、頼む!」
俺が叫ぶと、埴輪は無言で俺の跳躍を助けてくれた。
奴の黒い鱗が目の前に迫る。
俺はぶつかる瞬間、目を閉じた。
――自分の全てが、『透明』になるように。