第11話:キス
黒と白がぶつかる。
が、形勢は明らかに焔のほうが劣勢だった。
「あの精霊、かなり無理をしておる。あの状態で戦える相手ではない」
埴輪がそう言った。
確かにそうだ。以前の彼からはもっと、溢れんばかりの火の力を感じたのに、今の彼からはそれが微弱にしか感じられない。
今の朔夜の状態と関係があるのだろうか。
しかし
「早く憐を!」
必死の様子で彼は俺にそう言った。
俺は朔夜の手を取って駆け出す。
が、朔夜が後ろを名残惜しそうに振り返るので走りにくい。
「朔夜、今は逃げないと!」
俺がそう言って振り返ったとき。
「!!」
焔が塀に叩きつけられるのが見えた。
朔夜が言葉にならないような叫びを上げる。
……名前を忘れても、あいつが誰なのかってこと、なんとなく分かってるんだろう。
「どうしたお前達? せっかくこの子鹿が逃げる隙を作ってやったというのに逃げもしないのか?」
奴は焔を足蹴にして、悪魔のように嗤った。そしてまた彼を蹴り飛ばす。
「やめて!!!」
朔夜が叫んだ。
俺の手を振りほどいて、彼女は駆け出す。
「朔夜!!」
慌てて追いかけるが、遅かった。
「っ!」
ケモノはあの銀髪男に劣らぬ速さで彼女の前に現れて、その首を掴んだ。
奴は心底満足そうな笑みを浮かべる。
「やっと捕まえたぞ、迦具土の娘。お前の器は捨て置くには惜しいからな……っ!?」
そうしていると、朔夜が奴の手を噛んだ。
……奴がひるんで手を緩めることはなかったが。
「……お前……」
ケモノはそのまま朔夜を引き寄せた。
「まだ抵抗する魂が残っているのか?」
朔夜は涙を流しながらも奴を真っ直ぐ睨み付けている。
ケモノは怒ったというより、嗤っていた。
「流石、というところか。だがそれは邪魔なものだ。今度こそ、全て奪ってやろう。そのほうがお前も楽だろう?」
奴の顔が彼女のそれにゆっくりと近づく。
――そう、それはまるで、あの公園で見た男女2人の様子に似ていて……
「っ!?」
直前で、倒れていたはずの焔がケモノに体当たりしていた。ケモノの手から朔夜が離れる。
すると遠くで、傍観していた銀髪男が口笛を鳴らした。
「すげえ執念。流石は精霊様ってか。せっかく熱いキスが見られると思ったのによ」
それを聞いて、頭が真っ白になった。
いや、真っ黒の間違いかもしれない。
「英輔!?」
埴輪の声もほとんど聞こえなかった。
俺は真っ直ぐに奴に飛び込む。
焔に気を取られていたケモノは、俺に気付くのが少し遅れたようだった。
腕を伸ばして奴の肩を掴む。
途端、手から何かが流れ込んでくる感覚が体中を走った。
しかし今はそんなものに驚いている心の余裕なんてなかった。
「何!?」
ケモノがそう慄いた瞬間、俺は奴の頬を拳で殴っていた。
ケモノが吹っ飛ぶ。
拳が奴から離れた瞬間、身体を流れた何かも止まった。
「英輔、やるの」
埴輪の賞賛の言葉ですら俺には響いてこない。
腹の底から湧き上がるような、底なしの怒りを抑えられないでいた。
「おい、大丈夫かよお前」
慌てた様子で銀髪男がケモノに駆け寄る。
「……お前、今、何をした……」
ケモノは俺を見てそう言った。奴がはじめて見せた、驚愕の顔だった。
「流星、今日は退く。行くぞ」
「は!? おい、ちょっと待てよ!」
2人は一瞬で姿を消した。
ホテルに帰ると、朔夜はぱたりと眠りについてしまった。
「守護精霊が実体化した影響もあって疲れとるんじゃろ」
埴輪がそう言った。
さっきオカマ男と鼠女に奴に出くわしたことを話すと、彼らまで面持ちが暗くなってしまった。
それは、まあ、致し方ないと言えばそうなのだが。
(……鼠女の奴、気にしてないといいけど)
その辺りが少し心配だった。
「……鼠娘なら大丈夫じゃろ。金髪がついとるし」
埴輪が俺の考えを汲んでそう言ってくれた。
彼女はじっと、天井を見ていた。
泣いているわけでもなく、ただ何かを真剣に考えるように。
「緋衣、りんご剥いたけど食べる?」
私がそう声をかけると
「アンタが剥いたりんごなんか食べないわよ」
相変わらずの毒舌が飛んできて少し安心した。
「憐たちがわざわざ買ってきてくれたりんごよ?」
私がそう言い直すと
「…………食べる」
彼女はそう呟いた。
私がそのりんごをさらにひと口サイズに切っていると
「ねえ火砕。アンタに頼みがあるんだけど」
彼女から、そんな珍しい言葉が飛び出した。
「何よ、気持ち悪いわね」
心からそう言うと、彼女は少し笑ったようだった。
「いちいちうるさいわね」
その返答が、いつもの彼女らしくて私もつい綻んだ。
「で、何よ?」
私が問うと
「下のバーからアルコール貰ってきて」
彼女の口からそんな言葉が飛び出した。
私はつい手に持っていた果物ナイフを取り落としそうになる。
「ちょ、アナタまだそんなこと言って……」
私が非難しようとすると、彼女は真っ直ぐ、真剣な目でこちらを見た。
「度数は高いほうがいいわ。出来ればウォッカのスピリタス」
どうやら娯楽で飲むためのものではないらしい。
「……何をする気だ?」
私がそう尋ねると、彼女は言った。
「今のままじゃ私、アイツが次に襲ってきても動けもしないもの。こんな怪我、故郷の火山のマグマの中にでも放り込んでくれたらすぐ治るんだけど、そんな暇ないから……ちょっと荒療治だけど内側から炎を起こすわ」
「……内側から? そんなことができるのか?」
そんな方法聞いたことがない。
「燃料さえあればできるわよ。でもガソリンとかは無理。口に含めないから」
彼女は言う。
「火砕、お願い」
そう言った彼女の眼は、決意を固めたように強くて真っ直ぐなのに、どこか贖罪の色が滲んでいて、折れそうでもある。
(……そんな顔で頼まれたら、断れないじゃないか)
私は目を伏せた。
いつものビルの中。今日は灯りをともす気も起こらない。
「なあ、どうしたんだよ」
俺は建材の上に座る少年に尋ねた。
あれから俺が何度尋ねても、こいつはじっと黙り込んだままだった。
いい加減痺れを切らして俺は立ち上がる。
「ったく、次出るとき知らせろ。俺は外で飲んでくるからな」
俺が背を向けると、奴はようやく口を開いた。
「……あの男、危険だ」
それは、俺が考えだにしないことだった。
「は? あの男って、今日お前をぶん殴ったあの小僧のことか?」
俺が訊くと、奴は静かに頷いた。
「……奴が触れた瞬間、我の中に閉じ込めていたはずのあの女の魂が流れ出た」
それを聞いて、俺はさらに驚く。
「はあ? そんなこと出来るのかよ。ただの人間だろ、あの小僧」
「……ただの人間だからこそ、注意が必要ということだ。流星、お前もあまり油断しているとあの火鼠に出し抜かれることがあるかもしれないぞ」
奴は皮肉っぽくそう言った。
「出し抜くって? 緋紅がか? 冗談。あいつにどれだけ才があろうと火鼠の限界は超えられない。俺はもうそんな壁、越えちまってるんだからよ」
ああ、そうだ。
俺はもう火鼠なんて弱っちい生き物じゃない。
言ってみれば『新しい生き物』だ。
そう、目の前の悪魔と同じなんだ。
私が部屋に戻ると
「手に入れた?」
緋衣はすぐにそう尋ねてきた。
「ええ」
私は手に持ったボトルを掲げてベッドに歩み寄る。
「下のバーにもあったんだけど、流石にボトルでは売ってくれなくて。近くの酒屋まで飛んだわよ」
私がそう言うと
「ありがと。これは借りにしといてあげるわ」
彼女はそう言って、起き上がろうとした。
私は急いでそれを止める。
「無理しないでよ、寝たままでも飲めるでしょ?」
すると彼女はじろりとこちらを睨んで
「こぼすしむせるじゃない」
もっともなことを言った。昼間にそれは十分と言うほど経験済みなのだ。私はふっと笑って
「だったら『口移し』してあげましょうか?」
そう言うと、彼女はかっと赤くなって
「あ、アンタまたそんなこと言って! 火砕、実はアンタ隠れSでしょ! そうに決まってるわ!!」
そんなことを言った。
「隠れ? 隠してるつもりないんだけど」
「はあ!? 何よ普段はなよっとしてるくせに!」
「そういうアナタは意外とM?」
私が笑うと
「な!? 人が動けないからって言いたい放題言うじゃないこのモス男!! 後で痛い目見ても知らないわよ!」
彼女は威勢よくそう言った。
「そうね、期待してるわ」
私はそう笑って、ボトルのキャップを外す。
外した瞬間に、かなりきついアルコール臭が鼻をついた。
「……ほんとに飲める? これ」
彼女の顔の前に瓶を持っていくと、彼女も一瞬顔をしかめた。
しかし
「……それくらいじゃなきゃ意味ないもの。時間がないわ。昼間のあれ、やってくれる?」
彼女がそう言うので私は頷いて、ゆっくりとボトルの口を彼女の口へ運んだ。
途端、彼女は激しく咳き込んだ。私は慌ててボトルを離す。
「やっぱ無理じゃない」
私が呆れて言うと
「無理じゃない! さっさとよこす!」
彼女は涙目ながらもそう豪語する。
「……ちょっとぐらい薄めたら?」
「それじゃ意味がないって言ってるでしょ! 特に水なんかで薄めたら本気で意味がないのよ」
……それは、なんとなく分かるが、これは流石にそのまま飲めるようなものではない気がする。
(……仕方ない、か)
私は手近にあったタオルを取って、彼女の顔に放り投げた。
「んな!? ちょっと、何すんのよ!?」
彼女が戸惑っている間に私はあまりに高濃度すぎて痛いとすら感じるアルコールを口に含んで、
「……!?」
彼女の口にそれを運んだ。
喉が動くのが見える。
これならタオルで鼻も押さえてあるからアルコールの匂いでむせることもないし、直接飲むより易しいだろう。
「ちょ、ちょっと!! 何すんのよ!!」
目隠しされたままでも彼女は怒る。当然といえば当然だが。
「こうでもしないと飲めないでしょ。蛾が口に止まったとでも思っときなさい」
「馬鹿火砕!! ドS!! 変態!! 後で殺す!!」
「物騒なこと言ってないで、次いくわよ」
そうして、私は2口目を口に含んだ。
珍しいことに、今夜はオカマ男が鼠女の看病をするというから、俺は選択肢なしの形で朔夜と同室になった。
朔夜は昼間寝たきり全く起きない。
ベッドは部屋に1つしかないので、俺は椅子に座って彼女を見ていた。
ただ、じっと眠り続ける眠り姫。
いつになったら目覚めてくれるんだろう。
王子様のキスで目覚めてくれるのか?
(…………キス)
その言葉が頭の中を巡る。
今なら分かる。
こっちに来た日、彼女が公園で唇を押さえて泣いていた理由。
『せっかく熱いキスが見られると思ったのによ』
拳を握る。
――あのケモノ、あいつの魂を奪うときあいつの唇まで奪いやがったに違いない。
ああ、泣くだろうよ。
男にキスされたぐらいで泣いた俺だ。
自分の仇にそんなことされたら相手が人間じゃなくても嫌だろうよ。
(……いや)
ほんとは分かってる。
俺がこんなに腹を立ててる理由。
あいつが可哀相だとか、そんなのは2番目の理由だって。
結局人間ってのは自己中心的な生き物で。
本当は――……
俺は立ち上がって、彼女が眠るベッドの脇まで歩み寄っていた。
向こう側の椅子に立てかけられた土の神の剣は沈黙している。今は、中の精霊が眠ってくれていることを祈ろう。
俺は眠っている彼女にそっと話しかける。
「……朔夜、お前、前に言ってたよな」
冬のあの山で、埴輪の奴が俺にキスして、『女子に接吻されて喜ばない男子なんていないだろ』みたいなことを言って。
帰り際、お前がどさくさ紛れにキスしてくれたとき
『……埴輪の言ってた通りだね。英輔、嬉しかった?』って。
あの時は、照れくさくて言葉に出来なかったけど。
「女なら誰からでも嬉しいってわけじゃないんだ」
今なら言える、本当の気持ち。
「……俺は、相手がお前だったから嬉しかった」
朔夜の頬に水滴が落ちた。
それで初めて、自分が泣いていることに気がついた。
変な話だ。
彼女はすぐそこにいるのに。
また、手が届かない。
「……だから、な」
ごめん。
後で謝るから、今だけは許して欲しい。
俺はどうしても許せないんだ。
あんな奴が、お前の唇を奪ったことが。
俺はそっと、彼女の唇に口付けた。
すみません(汗)最初に謝ります。前々から今回の話は色々アブナいですよと言っておくつもりだったのに前回のあとがきに注意書くのをすっかり忘れていました。
世界一アルコール度数が高いというあのお酒をボトルの口から飲むのは絶対無理です。絶対真似しちゃいけませんよ!!!
……あとのことについてはあまりここでは触れません(笑)。私が色々馬鹿でした。
それではまた次回……今回で懲りないで読んでくださるとありがたいです。