【第四話】記憶の鍵
「悠斗くん、いい文献は見つかったかい?」
「高嶺教授、おはようございます」
とある大学にある研究室のその一角。古くかび臭いその部屋に好き好んで入る者はそういない。
高嶺研究室。
民俗学について学ぶ研究室の名であり、このかび臭い部屋の名でもある。
その研究室の長たる高嶺は、白いもじゃもじゃの髭を蓄え、分厚い瓶底メガネをかけた中肉中背の老紳士だ。
そんな高嶺研究室は最も人気のない研究室と有名だ。だが、悠斗にとってはその方が都合がよかった。
「思っているような文献は見つからないですね……」
「ふうむ、そうかい」
悠斗がこの研究室に入ったのには理由がある。他でもないこの教授がいるからだ。
高嶺は見た目こそ穏やかな老紳士だが、民俗学を研究する上でこの人を知らない者はいないと言われている程の人物だ。
悠斗は、自身の家系や地域の風習を調べる上でこれ以上にない環境にいた。
熱心に文献を調べる姿に高嶺は好感を持っていたし、どんな事でも惜しまず教えてくれる教授のことを悠斗も信頼していた。
そんな充分すぎる環境で、悠斗は様々なことを調べ、なんとか祥希を普通の女の子に戻す方法を模索していた。
しかし、肉体と同じ歳まで精神年齢を回帰させる方法がどうしても分からず困難を極めていた。
「妹の記憶を取り戻せそうな情報はどこにも……」
高嶺は瓶底メガネを外し、紺色のメガネ拭きを取り、きゅっきゅと音を立てながら拭いている。
「うーん。ボクもね、専門家じゃないから詳しいことは分からないけど、人間は強いショックを受けると身を守るために記憶を消すらしいよ」
「それはつまり、妹の記憶が不安定なのは精神的なストレスによる心因性疾患ということでしょうか」
悠斗は思わず高嶺に近づいた。高嶺は髭を触りながら答える。
「強いショックから心を守るために記憶という箱に鍵をかけたんだろうねえ。その鍵を開ければ、もしかしたら妹さんの記憶も戻るかもしれないよ」
「それは……」
悠斗は祥希の記憶から母親を殺めたことを消してしまいたかった。これだけは思い出して欲しくないと、そう思っていた。
「辛い記憶があるんだね。それなら無理に思い出そうとさせなくてもいい。君が傍に居てくれるだけでも思い出すきっかけになるかもしれないよ」
高嶺は優しく微笑む。悠斗から全ての事情を聞いてはいなくとも、二人の間には短いながら確かな信頼関係が構築されていた。
「今までずっと、どうにかしようとして気持ちが急いてばかりで近くに居られなかったと、今気付かされました。ありがとうございます」
高嶺は何も言わずに大きく、深く頷いた。
もう、きっとこの優秀な学生は、ここを訪れることは無くなるだろうと思いながら。遠くへ行く孫を見送る、祖父のような表情を浮かべて。
「君はもっと自由になるといい」
「はい」
「……傍にいてあげなさい」
「はい!」
誰の、と教授は言わなかった。
悠斗が傍にいたい人なんてたった一人しかいない。それを知っているから。
悠斗は逸る気持ちを抑えながら、高嶺教授に深々と頭を下げた。