バレンタインクレイジー
俺には彼女などいなかった。二十年間皆無だった。
しかし、ついに俺にも彼女が出来た。
彼女と出会ったのは、電車の中だ。
「や、やめてござそうろう」
独特の言いまわして困惑している彼女を発見したのだ。そう彼女は痴漢の被害に合っていたのだ。
漫画などで良くある出会いの場面。まさか本当にそんな場面に遭遇するとは。いつも穏やかな、あだ名ナマケモノと呼ばれている俺だが、泣きだしそうな彼女の顔を見て激怒し、俺は警察に通報するだけでは、怒りが収まらないと判断し、痴漢をしている男のズボンの中、パンツの中に手を突っ込んだ。そして二つの急所をこれ以上握るとやばいぐらいのぎりぎりの力加減で握った。
男は後ろを振り返り、戦慄の表情を浮かべていた。これで彼女の気持ちが分かっただろう。もしこれ以上続けるのならば、本当に潰すつもりでいた。俺はそれほどまでに怒っていたし、フリーターの俺に失うものはないと思っていたからだ。モノクロの毎日、もし捕まって刑務所に入ったとしても今とさほど変わらないだろう。そう思っていた。男は彼女から手を引き、俺から逃げるように去って行った。でも逃がすはずはなく俺は痴漢犯を駅員に突出した。痴漢は「こいつから痴漢された」と俺を指差したが、俺は否定し、それを駅員は当然のごとく信じた。「なあ、男が男のことを痴漢なんてすると思うか?」
「そうだそうだその通りだー」
俺は棒読みで言ったが、視線はナイフのように鋭く痴漢相手の男を射抜いた。もし余計な事言ったら、マジで急所潰すかんな的な視線を。それを感じ取った男は「痴漢なんてされませんでした。嘘でした。私が痴漢をしました」としゅんとした表情で言って全ては無事解決した。だが、それで終わりではなかった。
「あ、ありがとうございます」
痴漢の被害に逢っていた少女が言った。
「うん。当然のことをしたまでだよ。ユアウエルカム」
「ウエルカムということは私と付き合ってくれるんですね?」
「え、ええ……」
俺は困惑した。意味が分からない。意味が不明だ。これが俗に言う意味不という奴なのだろう。だが、俺に彼女が出来たことはなく、趣味は道端の石蹴りぐらいしかなかった俺に彼女が出来るチャンスが巡って来たのだ。これを伸ばせば多分後、八十年は結婚は無理だろう。つまり百歳ぐらいで俺が万が一お金持ちになったとして、遺産目当ての彼女ぐらいしか出来ないだろう。なので、どんな女か知らなかったが、付き合うことにした。それに彼女の痴漢に遭っている時の泣きだしそうな顔、それは彼女がいかに純粋であることかの証明であると思ったからだ。そんなことで判断する俺も俺だが。まあというわけで俺は今の彼女と付き合うことになった。彼女の名前は値綺麗綺麗あたいきれいきれいという特殊なハンドソープみたいな名前で、前世はまるでウサギかアルパカだったんではないかと思われるくらいの草食系女子だ。そしてとても天然であった。
「そういえば、今日はバレンタインデーだな」
彼女が俺にどんなチョコをくれるのかちょこっとだけ気になった。一気にくれるのか、ちょこちょこくれるのか。なんてギャグを考えながら。
「チョコを持ってきたのだ」
何故かいつもと口調が違う彼女。というかこういう時はテンションが上がっているのだ。
「本当に?ありがとう」
「美味しくないかもしれないいけど。食べるのだ」
「それ言わなくてもいいよ。謙遜しなくていいよ。大丈夫キレイキレイが作ったのはどんな物でも食べるから」
「嬉しいのだ。ではあげるのだ」
俺は初めてのバレンタインチョコにとてもハッピーで心がまさに弾むような気分で包装紙を開け、箱を開けた。
「く、くせえ」
俺はつい言ってしまった。しかし彼女は哀しがるどころかさも当然のような顔をした。
「当然なのだ。そのチョコには私の汚物が入っているのだ」
「はあ? はあ?」
まさかの二度聞き、耳を疑い、目の前にあるチョコ、そして当然の顔をしている彼女を見て、自分の目も疑った。そして自分の頬を思いっきり叩いた。いてえ。
「な、何かの冗談だよな。汚物が入っているって聞こえたけど」
「私は嘘はつかないのだ。そのチョコには汚物が入っているのだ」
俺の心の中で何かが、いや彼女と出会った日からの出来事全てがガラガラと音を立てて崩れて行くのを感じた。もうだめだ。こんな女とは付き合えない。一気に気持ちが冷め、目の前にある腐敗臭のする形だけはやけに綺麗なチョコをまじまじと眺めた。よくもまあこんなチョコを堂々と俺に渡せるよなこいつ。チョコの中にはコーンや、ニラ、糸こんにゃくなど消化の悪い物が色々と混ざっていて彼女の食生活を若干だが垣間見ることが出来たが、全く嬉しくなかった。
「なあ、俺達今日で別れよう。異論は認めない」
「ど、どうしてなのだ? 私のこと嫌いになってしまったのか? わ、私が何か悪いことでもしたのか?」
抑えきれない怒りが込み上げてくるのを俺は感じた。
「ふざけてんのか? 馬鹿にするのもいい加減にしろよ。どこにバレンタインチョコに汚物を入れる奴がいるっていうんだよ。お前最初から、俺のこと馬鹿にするつもりだったんだろ!」
「ち、違うのだ。怒りを収めて欲しいのだ」
「黙れ、お前とはもう一生合わないからな、どこかですれ違ったとしても声を掛けんなよ。今日から俺とお前は完全なる赤の他人だからな」
「そ、そんな……」
綺麗綺麗の目から大粒の涙が溢れるように流れ出した。
それを見て、そのあまりに純粋で美しい、まるで絵画にでもしたいような光景を見て、俺は何か思い違いをしているんじゃないかと初めて思った。そうだこいつは信性の天然だったんだ。
「なあ、詳しくそのチョコについて聞かせてくれ」
「ひっく、ひっく。分かったのだ。面鳥栖爽めんとすそうの為に、ただの市販のチョコを溶かしただけじゃ、オリジナリティーもない、ただのパクリになると思い、独創的なチョコを作りたいと思ったのだ」
「だからって、汚物はないだろう?」
「しょうがないのだ。手作りチョコを作る人は皆汚物を中に入れているのだ」
「んなわけねえだろ!」
「本当なのだ。手で混ぜたり、唾が飛んだりするので、汚物は必ず入っているのだ。寿司職人だって手で握るから、汗だの若干の皮脂だのが寿司に混入するから皆、汚物を入れることは避けられないのだ」
「えっ、どういうこと?」
「こっちがどういうことなのだ」
「だって、コーンや糸こんにゃくやニラが入っているけど」
「だからさっき言ったのだ。パクリは嫌だし、面鳥栖に健康になってもらおうと思い、チョコの中にコーンや糸こんにゃくやニラだけでなく、納豆やクサヤも健康の為に入れたのだ」
くせえはずだよ! って本当に何考えてんだよ。こいつ本当に天然なんだな。でもでも。こいつを勘違いで失わないで本当に良かった。
俺はキレイキレイを力強く抱きしめる。
「すまん。俺の勘違いだ許してくれ」
「えっ、じゃあ、私達別れなくても良いのか?」
「もちろん。というか今後一生お前と共に生きる!」
「本当か?嬉しいのだ。とても嬉しいのだ!!」
キレイキレイは今度はワンワンと大泣きし始めた。
「ああ、これからもよろしくな!」
「うん。なのだ!!」
彼女が泣きやんだ後、俺は彼女から貰った、人生で初めてのバレンタインチョ彼女の目の前で、食べることにした。
不思議と目の前のチョコがとても美味しそうに見えた。
「頂きます!」
「たんと食べるのだ」
俺は口の中に一気にチョコを頬張った。
「やっぱくせえ。でも最高にうめえ」