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駅員さんの恋  作者: 高藤みずき
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【2】「キスしてもいい?」 2



 ちょっと、軽率だったかも、と思ったのは背中でドアと鍵の閉まる音が聞こえてから。落ち着かなくてそわそわと辺りを見回す。何もないシンプルな部屋だ。綺麗にしてるけどたくさんの本で雑然として見える。


 唯史ちゃんは従兄だ。でも……唯史ちゃんは……って、気にしすぎ。内心で激しく首を振る。単純にわたしが意識しなければいい話だ。ここにいるのはわたしに下心など欠片もない優しい親戚のお兄さんなんだから。わたしのこの穿った感情の方が間違ってる。煩悩退散!


わたしをリビングに促した唯史ちゃんが「咲紀」とキッチンのカウンター越しに声をかけてくる。手に持っているのはミネラルウォーターだ。あれだけ飲めば喉も渇くよね。わたしは前の職場のこととかを質問攻めにされて、あんまり飲めなかった。楽しかったからいいんだけど。久しぶりの女の子とのお喋りは癒される。


「咲紀は? 何か飲む?」


「うん」


「お酒? 水? コーヒー?」


「あー……飲み足りない感じかな、なんとなく」


 色々な意味で。むしろオールで飲んでてもいい。素面だと色々余計なことを考えたり思い出したりしそうだ。またわーっと叫び出したくなって、慌てて誤魔化すように出しっ放しになってる医学書を集めて部屋の隅に積み上げる。それを片付けてしまえばやっぱりこの部屋はすごく綺麗だった。さすが優等生の唯史ちゃん。実家の部屋もいつもきちんとしてたしね。


 でも見たところやっぱり確かに女の影はなさそうだ。伯母さん残念がるだろうなあ。早く孫を、が口癖だから。


「何がいい?」


「何があるの?」


「適当に揃ってるよ。冷蔵庫に色々入ってるから好きなの飲んでて。僕はシャワー浴びてくる。それとも先に浴びる?」


 どきん、と跳ねた自分の胸の鼓動は聞かなかったことにした。


「ううん。わたしはあとでいい。ゆっくりどうぞ。その隙に高いの開けちゃうから」


 おどけたように笑ってみせると、唯史ちゃんは苦笑した。


「残念ながらうちにそんなにいいものはないよ」


 そう言ってバスルームに消えてゆく唯史ちゃんを見送って。さて。邪念を振り払え、わたし。


 遠慮なく冷蔵庫を開けると、ビールとペリエが並んでいた。あービールはもういいや。あのビアバーのビールならともかく。一度閉じると、冷蔵庫の隣りにワインセラーを発見して宝箱開けるみたいにそっと扉を開いた。


「おおっ。ドンペリだ」


 あるじゃん。高いの。でも、さすがにそれを手に取る勇気はなくて。結局自分が知っているので一番リーズナブルで軽くて飲みやすいスペインワインを取り出した。白赤両方揃ってる。ちょっと考えて赤にした。ちゃっかり冷蔵庫からカマンベールチーズと生ハムも持ってきて、棚からワイングラスも二つ。


 カウンターもあるけど、ローテーブルって気分かな。ラグの上にソファに置いてあったクッションを適当に重ねて座り込もうとして、その前に。


「ワインオープナーはどこだ?」


 人んちの台所はよくわからない。当てずっぽうで引き出しを開けていくと、ようやくソムリエナイフを発見した。スクリュー部分を嵌めこんで、梃子の原理で押し上げようとするけど……固い。


「ぬぬぬぬぬぬ」


「なにやってるの?」


「固い」


「そんなに?」


 背後からシャワー後のイイ匂いがして、抱きこまれるようにわたしの手に唯史ちゃんの手が重なる。……うわ、近い。ぐ、と力がかかって、コルクはあっけなく抜けた。わたしのどきどきを置き去りにして唯史ちゃんはワインを抜き取ってローテーブルの向こうのソファに座った。唯史ちゃんの大きな手が、ワインをグラスに注いでゆくのを眺める。とくとくとく、といい音がした。注ぎ終えた唯史ちゃんはラベルを見た。


「トーレスか。もっといいのもあったのに」


「イヤイヤ。わたしこれ好きだし、十分」


 あーでも、ドンペリは一回くらい飲んでみたいかもしれない。今日みたいに飲み足りないからなんて時じゃなくて、ちゃんとドンペリを飲む為に色々特別な料理とか準備して。


「咲紀はシャワーどうする?」


「……もうちょっとあとにする」


 下着の替えとか、メイク落としとか細々したものは途中のコンビニで買ってきた。でもなんか、ちょっと。とりあえず飲みたい。


 じゃあ、と唯史ちゃんがグラスを持ち上げる。わたしも目の前のそれを唯史ちゃんのグラスに軽く触れ合わせた。生ハムもチーズも美味しい。塩っ気をワインでさっぱり洗い流す。重たくないからついつい飲み過ぎてしまいそうだ。


「じゃあ、そろそろ話してもらおうかな」


「ええっ、何を!?」


 びっくりしすぎて危うくワインを零しそうになる。ちらりと唯史ちゃんを見ると、探るような眼差しをわたしに向けて来た。


「今日一度帰ってからおかしいよね、様子が」


 遠回しではなく直球か。さすが鋭すぎるよ、唯史ちゃん……。「そ、そーかなー」と呟きながらワインを置いてかわりに傍らにあったクッションを引き寄せて抱きしめる。何とか誤摩化せないものか。


「言い逃れられると思わないようにね」


 ちょっぴりヒヤリとする声に、見ると、目が、笑ってるけど笑ってない。こういう唯史ちゃんを誤摩化せたことはこれまで一度もなかった。逃げられたことも。なんだろ。うちのお母さんに咲紀のことくれぐれもよろしくね、とか頼まれてるのかな。頼まれてるだろうな。頼まれてなくてもきっと気にかけてくれるんだろうけど。


「それに、彼氏と別れたっていつ?」


「どうして彼氏いたって知ってるの?」


「知られたくないなら叔母さんに言わなければ良かったのに。あの姉妹で隠し事があるわけない。筒抜けだよ。で?」


「……結構前」


「どうして? って聞いてもいいかな」


「アメリカ、行くんだって」


 振られた、とは言いたくなかった。誰が聞いてもそれは振られたんだと言われても。


「ついて行こうとは思わなかったの?」


「思わなかった」


 それは、全然思わなかった。あいつにはあいつの考えがあるように、わたしにもわたしの考えがある。でも、本当にすごく好きだったら、着いて行くのが普通なんだろうか。着いて行きたいと思うのが普通なんだろうか。だったらわたしの気持ちは“本当”じゃなかったの? 


 ふうん、と唯史ちゃんはワイングラスを傾けた。とぷ、とワインが波立つ。


「じゃ、今日は?」


「今日、はそのー、」


 仕方なく覚悟を決める。多分わたし、誰かには話したかったのだ。頭の中をすっきりさせるためにも。勢いをつけるためにグラスに残ってたワインを飲み干して話し出した。


 酔っ払いに絡まれたあたりで、唯史ちゃんの頬がぴくりと震え、駅員さんに助けられたところで眉が上がり、一目ぼれ云々のくだりで深々とため息をつく。話し終えて唯史ちゃんの反応を窺い見ると思案深げに目を伏せて、「咲紀」と名前を呼ばれる。


「なに?」


「今度から送り迎えしようか」


「い、いいよっ。子どもじゃないんだから」


「子どもじゃないから心配してるんだけどね」


「う、ん」


「いっそここに住んでもいいけど」


 ええっ、ここに? 唯史ちゃんこれ以上結婚できない障害を増やしてどうするんだ。伯母さんにも恨まれちゃうし、それよりなによりわたしが落ち着かない。その選択はない。


「いや、それはさすがに大丈夫」


 唯史ちゃんの優しさは嬉しいけど、さすがに子どもの時みたいには甘えられない。甘えたくない。わたしはやっと唯史ちゃんから卒業したんだから。


「それで? どうするの駅員さんのほうは」


「どうするもなにも、別に告白されたとかじゃないし」


 わたしの言葉に唯史ちゃんは苦笑した。


「告白だと思うけど。思いっきり」


「そう、かなあ?」


 信じる? って疑問系なのに? それとも信じる、と答えたら何か始まるんだろうか。新しい恋を始める覚悟が今のわたしにあるだろうか。


「悩んでるならやめとけば」


 うーん。断るほうでは悩んでなかった。なんかこう、ただ舞い上がってる感じで、気持ちがいいというか、混乱してるというか。ふわふわして。


 ほろ酔いに似ている。


 再びくーっとグラスを空けると、唯史ちゃんがすぐにまたワインを注いでくれた。そろそろ残り少ない。


「でも、いい人そう、だよ」


「じゃあ、付き合うの?」


「……よくわかんない」


 だってまだ会ったばかりなのだ。急展開すぎて、心がついていかない。まだわたしの中の何かがブレーキをかけてる。


「そういう唯史ちゃんはどうなの? ホントに彼女いないの? 欲しくないの?」


「今はいないよ。……欲しいとは思ってるけど」


「思ってるんだ?」


 それは意外だ。唯史ちゃんにはそういうがつがつしたものはないのかと思っていた。思わずじいいーっと凝視してしまう。


「なに?」


「どんな人が好みなの?」


「明るくて、気が利いて、笑顔の可愛い子がいいかな」


「それってまるっきりわたしみたいじゃなーい」


 九重先生の真似をしておどけて見せると、あっさりと頷かれた。


「うん」


 へ?


「そう。咲紀のことだよ」


 ええっとー、ここは笑うトコじゃないの? もしくは突っ込みいれるトコでは? 目の前のローテーブル越しの唯史ちゃんの顔は思いのほか真剣で。わたしは、逃れるように視線を落としてグラスを見つめた。なんだこれ、なんだこれ? どういうこと?


 どのくらい時間が経ったのか。わたしにはすごく長く感じたけど多分ほんの数秒のことだろう。引き戻すように唯史ちゃんの声が聞こえた。


「……って、言ったらどうする?」


 きょとん、と顔を上げると、唯史ちゃんはいつもの優しげな微笑で。


 わたしはホッと息をついた。


「や、やだなあ、びっくりしたーっ。唯史ちゃんもそんな冗談言うんだね。いきなり真面目に言われたら本気だと思っちゃうよ。どきどきしちゃった」


「どきどき、した?」


 なんて、意味ありげにわたしを見るから。またどきどきする。


「唯史ちゃん、悪趣味」


 唯史ちゃんにはぜひともわたしの初恋の人だっていう自覚を持って欲しい。いや、そんなこと一度も言ったことないし、言うつもりもないから本人は永久に知らないままのはずだけど。こんなからかいは心臓に悪すぎる。


 くそう。何だか悔しくてまたグラスを空ける。今度は手酌でワインを注いだ。このやり場のない憤りは酒に向けるしかない。次はもっと高いワインにしてやる。ドンペリをこっそり持って帰ったって文句はいわせない。


「ピッチ、早すぎじゃない?」


 いったい誰のせいだと!


 わたしのグラスを持つ手に、唯史ちゃんの手が触れる。


 え?


 離れてゆく、と思ったその手は不意にわたしの手を掴んだ。


「た、だし……ちゃん?」


「こっち、おいで?」


 ぞくり、とした。


 声も、表情も、わたしの知らない唯史ちゃんだった。腕を引かれるまま立ち上がり、唯史ちゃんの目の前に立つ。えーと、これは、どんな状況? そのまま、引き寄せられるようにして緩く抱きしめられる。


「た、……ッ」


 嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。わたし、唯史ちゃんの腕の中にいる。


「俺のこと好き?」


 僕じゃなくて俺って言った言葉に〝男の人〟を感じてどきっとする。どうしてこんなこと聞くんだろう。今になってよりにもよって唯史ちゃんがわたしに。


「そ、そりゃあ、」


「親戚のお兄さんじゃなくて、男として」


「……」


「ずっと言わないつもりだったけど。考えてみて、〝駅員さん〟に返事する前に」


 これは、夢ですか。それともわたし、今日ずっと夢の中にいるんだろうか。でもわたしを抱きしめる腕の力も、その胸の温もりもやけに生々しくて。わたしを見つめる唯史ちゃんの強い視線に、身体がカッと熱くなる。


「唯史ちゃん……」


 唯史ちゃんの指が、わたしの頬をなぞった。


「なんで、こんな急に……」


「……急じゃ、ないんだけどね」


どういうこと? どういうこと? 理解できない。何が起こってる?


「咲紀」


「え?」


「キス、してもいい?」


 耳元で囁く、ぞくりとする、甘い声。どうしよう。何だかわからないけどどうしよう。何が困るって、この状況でめちゃめちゃどきどきしてて、そして何だか流されてしまいそうな自分にだ。


 駄目だ! こんな気持ちのまま、次になんて進んじゃダメ!


 纏わり付く何かを振り切るように唯史ちゃんの腕を振りほどいた。


「咲紀」


「……わたし、帰る」


「咲紀! ごめん。怒った?」


 怒った? 怒ったんじゃない。違う。違うけど。


「違うの。びっくりして、何だか今わけわかんなくて……、あの、ありがと。——ちゃんと、考えるから」


 コートと荷物を持って、振り返らずに部屋を出てゆく。出て行く直前唯史ちゃんがわたしの名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。


 パンプスでよかったと、しみじみ思う。ロングブーツで、履くのに時間がかかって、その間にもう一度唯史ちゃんに抱きしめられて、もしもあれ以上何か言われたらわたし……。

 

 ドウ、ナッテタ?


 幸い道に出てすぐにタクシーを拾えた。なんだか、すごく濃い一日だった。濃いというか、変、というか。どうして一気にこんな。縁結びの神様の配慮というならちょっと色々物申したい。


 とにかく家に帰ろう、早く。何も考えずに眠ってしまいたかった。


 今すぐ。




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