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駅員さんの恋  作者: 高藤みずき
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【14】「はい」 3



 夏。


 暑いし辛いけど、実はそんなに嫌いじゃない。ビールは美味しいし、何となく空を見上げるとワクワクするし。そんな気分になるのも今日が久々の早上がりだったからかもしれない。空が明るいうちに会社を出たのっていつぶりだろう。それでももううっすら夕闇は広がっているけど。


 いつもはぎゅうぎゅうの満員電車もいつもよりゆったりしてるし、しかも運よく座れた。普段なら立てる距離だけど、今日は外回りも多かったし、素直に嬉しい。まあ、さっきの駅から乗り込んできた酔っ払いのサラリーマンの声がうるさいといえばうるさいけど。この際贅沢は言うまい。終電の泥酔者率なんて最悪だもんね。それに比べたらマシだ。多分。


 できるだけそちらに意識を向けないようにしながら、わたしはぼんやりと外を眺めた。電車の窓の外を流れてゆく風景を見つめながら、この光景を見たのは果たしてもう何回目くらいなのかなあとふと考える。


 普通一日に行きに一回帰りに一回だよね。ただし夜は真っ暗なので見えないから、カウントされないか? あー、お昼に出て帰りが翌日の昼間、とかもあるな。朝出て、帰宅が翌々日の夜中、っていうのもあったっけ。そう考えるとやっぱり想像以上に編集の仕事は過酷で、本当に好きじゃなきゃできないと心底思う。そうなるとちらちらちらちら脳裏を掠めるのだ。


 こんな女と誰が好き好んで結婚しようと思うのよ?


 好きな仕事ではあるけど、全部が楽しいわけがないし完璧な職場なんてないから、辞めてやるーッ!! と思ったこともしばしば。だけどちょっといいことがあると持ち直す。担当している本ができあがったりすると辞めなくてよかった、生きてて良かった神様ありがとう! とか思うのだ。現金にも。


 やっぱり、好きだ。この仕事が。


 それでも、このまま仕事を続けるということは、婚期が更に延びるということで、ため息をつかざるをえない。だって、ようやく楽しくなってきたところなんだもの。


 今年の三月に諌山先生の初めての本「ひとこと屋」が発売になった。


 あの『幻影図書館』の諌山望海四年ぶりの新刊というのもあったけれど、表紙が作品数の極端に少ない若手天才画家という話題性もあり、いきなりベストセラーになったのだ。これはもちろんわたしの力などではなく、諌山先生たちのお力の結果だ。そんなことは充分承知している。


 出来上がった本を手にしたときの感動は、ちょっと言葉では言い表せない。


 でもゆくゆくは無名の作家を発掘してベストセラー作家に押し上げたい。——最近はそんな野望も出て来た。実は今度新しい担当をまかされることになったのだ。うちの小説大賞に輝いた、若干一七歳の作家さん。下読み段階でわたしが花丸をつけた子だ。若い文体だったけど、筆力はダントツだった。短編を何作か見せてもらったけど、一作で終わるタイプじゃない。どんどん花開くタイプだと思った。


 山櫻社に入社して一年半。まだまだ駆け出しだけど、最近ほんの少しだけ自信がついてきた。自信——まではいかないか。ちょっとずつペースが掴めて来た。わたしは左手の薬指に輝く指輪を見て、小さく笑みを浮かべる。去年の誕生日に駅員さんがわたしにくれた印だ。


 遠くに異動になってしまった駅員さんとは案の定会う回数が激減した。保留にしたままのあの約束は今もまだ有効なのか、時々無性に確認したくなる。そんなこと勿論できないけど。だってそんな勝手なこと言えない。保留にしたのはわたしだ。慣れれば何とかなるかと思っていた仕事は、日が経つほどにハードになってるし、変わらないってわかってきた。うん。むしろ仕事は慣れると増える。叩くと増えるビスケットみたいに。


 一度慧介さんにそのあたりぜひお聞きしたいものだ。超ハードな奥さんをもってどう思っているのか。いや、まあ、あそこはらぶらぶなのはわかってるんだけどね。特に旦那様が奥さまにべた惚れなのだ。そしてわたしと編集長じゃ色々スペックが違いすぎるってこともわかってる。編集長は美人で有能。しかも山櫻社の創立者が直々にヘッドハンティングした人だ。比較対象になるわけがない。


 ふう、とため息をついて疲れてるな、と思う。


 以前と変わらず、駅員さんはわたしを支えてくれている。わたしからは何もあげられていないのに。


 電話で話してる途中で寝落ちとか、いったい何回やっただろう。それすら彼は笑って許す。しかも労わってくれる。逆!! 逆だよね!? わたしが労わらなきゃいけないんじゃないの!? その海よりも広くて深い優しさは嬉しいけど時々居たたまれない。いつも優しすぎるほど優しい。駅員さんだってわがまま言ってくれたっていいのに。


 えーと。デートはいつが最後? 声を聞いたのは? さあっ、と血の気が引いて愕然とする。忙しかったとはいえそれはあんまりだ。ドタキャンは何回した? そのフォローは何回できた? 帰ったら電話しよう。駅員さんがいいなら会いに行きたい。明日は久しぶりのオフだから。いきなり決まったオフだけど。気がついたらひと月休んでなくて、編集長に休め、と命じられたのだ。


 とりあえず家に帰ったらやることのリストを脳内で作成しているうちに、車内アナウンスが間もなく到着を告げる。立ち上がってドアに向かいかけたとき、電車が大きく揺れた。


「……っと、」


「す、すみません」


 運悪くぶつかったのは例の泥酔サラリーマンだ。ホントここの路線はタチの悪い酔っ払いが多い。嫌そうな顔を極力封じて謝る。そういえば、駅員さんを意識したきっかけも酔っ払いか。そう考えると悪いばかりでもないかもしれない。


「ちょ、待ってよおねーさん」


 ぐいっ、と乱暴に手を掴まれる。酔っているせいで耳障りなほど声が大きい。——前言撤回。やっぱり酔っ払いは最悪だ。幸いもう駅だし飛び降りれば追ってこないだろう。走って逃げればさすがに追いかけては来られまい。


「すみません。離して下さい」


「ダメダメー。ぶつかったのもさあ、何かの縁だよねえ? ちょっと聞いてー? 俺さあー。会社でやなことがあってさあー。落ち込んでんの。ねえ、慰めてよー」


「は?」


「女の子と仲良くしたら、また頑張れる気がするんだよねー」


 な・ん・で・わたしが見ず知らずのあんたを慰めてやらなきゃいかんのだ!! ふざけんな。会社で嫌なことなんてわたしだっていっぱいあるっ。でも間違っても見ず知らずのこんな人に慰めてもらおうなんて思わない。むしろ絶賛嫌な目に遭っているわたしの気持ちはどうしてくれるんだ!


 電車がホームに滑り込み、ドアが開く。人ごみに紛れて無理矢理降りようとしたけれど、腕ががっちり掴まれたままだ。失敗した。意外としつこい。


「奢るから飲みに行こうよー」


 またこのパターンか!! っつーか、まだ飲む気なのかこの酔っ払いはッ!! 誰か助けて、と周囲を見るけど係わりたくないのか皆一様に視線を逸らす。そりゃあ、そうだよね。こんな面倒なことに巻き込まれるのはごめんだろう。誰だって。


 仕方ない。ここは蹴ろう潔く。と心に決めて間合いとタイミングを計る。


 その時だった。


 背後から一瞬で男の手を捻り上げてわたしから引き剥がし、片手でわたしを抱き上げて易々と電車から降ろした、力強い手。何が起こってるのかわからないままのわたしの目の前で、ドアが閉じる。


 間一髪。——これはデジャヴ、だ。


 酔っ払いは茫然としたまま電車とともに去って行った。わたしの胸の下あたりに回された、大きくて筋ばった綺麗な手。優しくて、大好きで、時々不埒な。


 どうして? どうしていつもこう、タイミング良く。


「大丈夫ですか? 咲紀さん」


 耳元で囁かれた声に、びっくりしたまま振り仰ぐ。


「真哉さん……?」


「はい」


 にっこりと笑う駅員さんは……駅員さんで。混乱したままのわたしをそっと下ろして、今日付けで戻ってきました、と柔らかに告げる。


「嘘、わたし聞いてた!?」


 聞いておきながらスルーしたの? それじゃあんまりヒドイ奴だわたし。泣きそうになるわたしに駅員さんは小さく首を振って〝内緒で驚かせたくて〟と、続けた。


 驚きましたよ!! 驚きすぎってくらい。こんなサプライズ、嬉しいんだか何なんだかもうわからない。


「言ってくれれば良かったのにい」


 ぽろっと涙が零れ落ちた。


「……え……ッ、咲紀……さ?」


 ああ、わたし、こんなにも駅員さんに会いたかったんだ。仕事中だってわかってたけど、瞬間駅員さんに抱きついていた。


「咲紀、さん?」


 ああ、もう、ダメだ。わたしの負けだ。ううん、負けとかじゃない。今この瞬間だって、思いたい。



「わたしと……結婚して下さい。きっと、駄目な奥さんだけど」



 口をついて出たこの言葉は、疲れから来る逃げじゃない。それは絶対断言できる。たった一度の人生なんだから、大好きな人とできるだけ一緒にいなきゃ損だと、以前思った。だけどあの時のわたしは仕事を優先させた。多分今でもあの選択は間違ってなかったって思う。去年のわたし痛いほど余裕がなかったもの。お互いのことも知らなさすぎて、もっと深く知り合う前に破綻していた可能性はある。駅員さんが根気よくわたしに付き合ってくれなかったら。


 ここまでだって決して平坦じゃなかった。ちょっとはケンカだってした。不安は今だって不安だ。余裕のなさは変わらないかもしれない。でも、わたしのどこかが今がそのタイミングだと告げている。


 唐突に。今、駅員さんと会ったこの瞬間に。心のコップの水が満たされて溢れるみたいに。ううん、気づかなかっただけでずっと表面張力状態だったのかもしれない。だってこんなに好きなんだもん。


 天啓って、こういうこと? 落ちたりんごで重力に気づいたニュートンみたいだ。


「咲紀さん。……本当に?」


 潜められた声にハッと我に返る。


 ここは駅だーッ!! しかもホーム。周りの人に妙に微笑ましく見られてる! 


「ご、ごめんなさ……ッ」


 離れようとしたわたしを駅員さんが、ぐっと力強く抱きしめる。


「やっと言いましたね」


 ため息のような苦笑にも似た声。そういえば駅員さんはわたしから結婚したいって言わせるって言ってたんだっけ。それきりプロポーズのことなんかおくびにも出さなくなった。もうあれナシなのかなって不安になるほど。え、ひょっとしてわたし駅員さんの術中にハマった感じ?


 ああ、でも恥ずかしいよう!! 今頃恥ずかしさがピークになる。


「ええと、これ……真哉さんの作戦勝ちですか、ね?」


 やっぱり長期戦で前以上に大好きにさせる作戦だった? 作戦じゃなくてもきっともっと大好きになったに違いないけど。そして今も大好きの途中だ。


「咲紀さん相手に作戦を立てる余裕はないですよ。それに僕はいつも咲紀さんに負けっぱなしですから」


 嘘ばっかり。


「でも、あとで気の迷いでした、っていうのはナシですからね」


「そ、そんなことしません。絶対」


 でも本当にいいの? って聞くのはわたしの方だ。そんなわたしの視線に気づいて、駅員さんがわたしの身体を離して微かに笑う。ちょっと待ってて下さいね、と通常の業務に戻って、各停電車を一本迎え入れて送り出す。久しぶりに見る駅員モードの駅員さんはやっぱりカッコよくて。その姿に目を奪われたせいで更に体温が上昇した。火照りを冷ますべく、手で顔をぱたぱたと仰ぐ。


 恥ずかしい。なんで駅員さんはあんなに冷静でいられるんだ。


 ホームからあらかた人がいなくなって、うしろから改めて〝咲紀さん〟と呼びかけられる。なんか色々だだ漏れの甘い甘い声。うわああっ、今話しかけないでええっ。顔っ。顔わたし大丈夫かな。まだ赤い気がする。


 恐る恐る振り返ると駅員さんは帽子を下げて身をかがめ、帽子の影で素早く唇を重ねた。


「……ッ!!」


「ありがとう。喜んで」


「……え、」


「結婚してください。咲紀さん」


 にこやかに笑う駅員さんに、思わず腰が抜ける。慌ててわたしを駅員さんの腕が支えた。駅員さんの顔を見つめて、詰めていた息をはああーっと盛大に吐き出す。


「よかったああっ!!」


 本当は断わられるかと思ってた。この一年、自分のマイナスポイントは思い出せてもプラスのポイントになることが思い出せなかったから。


 駅員さんはそんな不安定な想いごとふわりとわたしを抱き上げて、ホームのベンチに座らせた。


「今日の業務はもう少しで終わりですから、そこでもう少し待ってて頂けますか」


「あ、テンペストで祝杯?」


「……まさか。今日は一誠には邪魔させません」


 その何だか妙に色っぽい一瞥に、心臓がどきんと高鳴る。付き合って一年以上になるのにいつもこんなにどきどきさせられてしまう。


「え、と、じゃあ一度帰って……」


 着替えてくる、と言おうとしたわたしを駅員さんが視線だけでまず止める。


「咲紀さん」


「え?」


「今日はもう待ちたくないです」


 いつもと同じ爽やかな駅員さんなのに、目だけが男の人、だ。顔が爆発したみたいに赤くなる。もう駄目だ。死ぬ。わたし絶対死んでしまう。


 どきどきするし、苦しいし。


 返事もできなくて、わたしは酸欠になりそうになりながら、こくこくと頷くだけで精一杯だった。




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