【1】「一目惚れって信じる?」 4
【BEER BAR・The Tempest】
下地の木に、鋲で打たれた上の透明なアクリル板に流麗な金書体。素敵な看板だなと扉を開けると中も感じの良いアンティーク。間接照明だけの店内は落ち着くほの暗さで、いっぺんで気に入った。L字カウンターとテーブル席が四つ。程よく空間のある店内は二十人ほどでいっぱいになってしまうだろう。無理すれば三十人くらいいけるのかな。でもこのぐらいのゆったり感の方が好みだ。
「いらっしゃいませ」
低く響くいい声がして、目の前に奥から出て来たバーテンダーが立つ。若く、はなさそうだけど髭の似合うがっしりした体躯のイイ男だ。すごく鍛えられてる感じだけど脳筋っぽくはない。むしろ逆だ。ビシッとスーツを着ればバリバリ活躍するエリートサラリーマンに見えるだろう——そんな印象だ。今日はまだイイ男祭りは継続中らしい。
「あの、もうやってますか?」
「大丈夫ですよ。どうぞ」
大丈夫、か。うーん微妙な答えだ。店内はいい匂いがしていて不自然なくらい静かだった。舞台開演前という気配がする。まだ時間は六時にもならない。中には一人の姿もなく貸切状態だ。本当は六時からなのかな。どうしよう、と思った時心地よい大きさでジャズの音楽が流れて来る。
まるで背中を押してくれるように半身を引いてもう一度「どうぞ」と言われて申し訳なく思いながらも中へ進んだ。
「お一人様ですか?」
「はい」
「カウンターとテーブル、どちらになさいますか?」
確かに普通ならご飯食べた後にちょっと一杯、って感じに来るお店かもしれない。でもわたしはお酒はご飯と一緒に飲みたい口だ。
「じゃあ、カウンターで」
せっかくだからお酒を用意するのとか見たいかも。読む本とか持って来てたら飲みながらテーブルも素敵だけど。バーテンダーさんは優雅な仕草で椅子を引いて、「どうぞ」とカウンター中央の席に座らせてくれる。ジェントルマンだ。
「何になさいますか?」
背後からそっと渡されたドリンクメニューには聞いたこともないビールの名前が並んでいて大雑把に特長は書いてあったものの、早々に見るのをやめた。
「オススメ、お願いしてもいいですか?」
「何か苦手なものとかありますか?」
「いえ。大体のお酒は嫌いじゃないです」
「かしこまりました」
おお。薄暗いバーが太陽の下みたいに見えるいい笑顔だ。ドリンクメニューはわたしの傍らに置いたまま新たにフードメニューを差し出して受け取るのを待ってから一礼して下がって行く。流れるような仕草だ。ふと気がつくとカウンターの中には茶髪の若い男の子がいて、グラスを磨いていた。カッコ可愛い爽やかアイドル系。さっき音楽を流し始めたのはこの子だろうか。わたしと目が合うと愛想よく微笑む。
「お客様、初めてですよね。うち」
「引っ越してきたばかりなんです」
「学生さんですか?」
「いえ社会人です」
いきなり初対面で自分のことをあれこれ話すのは苦手だ。深く聞かれるのも。それをすぐに察してくれたのか、それ以上の質問はなかった。若く見えるけどこの人ものすごく優秀なのかも。
そんなことを思いつつフードメニューに視線を落とした。フィッシュ&チップス、チキンのガーリック焼き、牛肉のカルパッチョ、とろとろオムライス、ぺペロンチーノ、牛肉のビール煮、特製サラダ、特製メンチカツ……が、今日のオススメらしい。おつまみ系だけじゃなくてがっつり系もあることにホッとする。良かった。
どれも美味しそうだなあ。
迷ってるうちにさっき席に案内してくれたバーテンダーさんからカウンター越しにビールが差し出される。
「ペローニ ナストロアズーロ、イタリアのビールです」
なにそれ、呪文?
ゴマのかかったビーフジャーキーとナッツが添えられる。お通しかな。お通しまでオシャレ。
「頂きます」
グラスは凍るくらいに冷たい。遠慮なく口にすると発泡の刺激が喉を通り過ぎていく。
「……おいしい」
働いた後の一杯はそうじゃなくても美味しいけど、これはまた格別だ。まさに極上の一杯だ。お通しも美味しい。バーテンダーさんは再び笑顔を浮かべた。
「よかった。食事はどうします?」
「え、とじゃあ、牛肉のビール煮と、サラダを」
「かしこまりました」
立ち居振る舞いがすごく綺麗。もともとホテルマンとかしてたって言われても信じられるレベルだ。いいお店見つけちゃったなあ。俄然このあとにやって来る料理にも期待値が上がる。
その時、キイっとドアが開いた音がした。バーテンダーさんがそちらへ顔を向けて破顔した。“お客様”用の笑顔じゃない。ちょい悪な感じの……これが素なのかな。でもそれはそれで魅力的な感じだ。
「よお。久しぶりだな」
その砕けた口調にお友だちかなと推測する。常連さんならもう少しさっきの余所行き寄りの態度だろう。いいなあ。こんなお店やってるお友だちがいたら多分通い詰める。以前の仕事のときはそんな暇全然なかったけど。朝はやっと起きて目を覚ましがてらシャワー浴びて家を飛び出して、ゼリー飲料片手に目一杯仕事して、余力があったらコンビニお昼、なかったら常備してあるカロリー的なものを珈琲で流し込む。終電間際走って飛び乗って帰ったらコンビニ弁当か常備してあるカップ麺。酷いときは何も食べずに気を失うように寝てたっけ。まっとうな生活じゃないな。
「一ヶ月ぶりくらいじゃないか。仕事忙しいのか?」
「まあな」
……この、声。どきん、と身体が反応する。聞き覚えがある。っていうか今朝聞いたばかりだ。他人のそら似? いや、本人? 思いっきり見るのは失礼かと意識をそろそろとそちらに向かわせる。
「座れよ。何にする? またいつものか」
「生」
「くっそ。りょーかい」
バーテンダーさんが用意を始めるのに合わせてそっと一つ向こうの席に座ったその人の横顔を盗み見る。
……駅員さんだ!
嘘。こんなのってある? 落ち着け、落ち着けわたし。わたしがいくら覚えてたって向こうは毎日たくさんのお客さんを相手にしてるんだからわたしのことなんか覚えてるはずないでしょ! その証拠に今日歯科医院に来た患者さん全員をわたしが覚えているかと言えば当然否だ。そうは言ってもこの偶然にはどきどきする。
まるでちょっとだけ物語の主人公になったみたいだ。
わたし別れたばっかりなのにゲンキンだな。まあいーじゃん。何が始まるわけじゃなし。ちょっぴりときめくくらい自由でしょ。だって目の保養をするだけなら——、傷つかない。
「ほら、生」
「ん」
「たまには違うのも飲めよー」
「……嫌だ」
くっそー、とブツブツ呟きながら今度は奥に消えて火を使う音がする。ここで隣りにこんばんはーって声をかけるのは何となくナンパみたいで気が引ける。仕事上がりの一杯を楽しんでる人に仕事を思い出させるのは無粋だろう。わたしだって患者さんに声をかけられたら困る。——よし、ここはスルーで。
メニューを見ながら色々ごちゃごちゃ考えてるところに、しばらくするとことんといい匂いとともに料理が置かれる。うわー、何だか本格的だ。
「お待たせしました。 特製サラダと牛肉のビール煮です」
ビール煮には薄く切ったフランスパンも添えられる。匂いだけでお腹がきゅう、と鳴った気がした。はやくはやくと急かされるようにお箸を手にする。
「おいしそう。頂きます」
お肉に箸をいれると、力を入れなくてもすんなりとほぐれた。口に入れると一瞬で蕩けて甘みが広がる。
「美味しい」
言葉にしなくてもわかるだろう勢いでサラダも食べる。フランスパンに乗せて食べるビール煮はまたこれも格別だ。んー、美味しいー。うっとりしてるわたしを「ありがとうございます」とバーテンダーさんが楽しそうに見ている。目元の笑い皺が感じがいい。美味しいお酒と肴とイケメン。これ以上の幸せがあるだろうか。
「来て良かったです」
そう言うとバーテンダーさんは嬉しそうな顔をして、わたしに背後のお酒が置いてある棚の前にあったケースから何かを取り出して差し出してきた。反射的に受け取って視線を落とすと黒っぽい地に銀の箔押しで店名と名前。名刺だ。
「オーナー兼料理人兼バーテンダーです」
【BEER BAR・The Tempest】
織田 一誠
「おだ、いっせい、さん?」
「はい。よろしくお願いします」
「あ、こちらこそ。……すごく美味しいです。ビールもお料理も」
お世辞ヌキで。サラダもドレッシングが……なんだろう、これ。焦がしバター? バルサミコ?
とにかく絶妙で。一口一口大事に頬張る。
「幸せ」
「これからもご贔屓に」
「はい」
本当にラッキーだ。家のすぐそばにこんないいお店があるなんて。
「ビール、もういっぱいいかがです?」
どうしよう。本音を言えば全然物足りないけど、ビール煮もまだ少し残ってるけど、明日も早いし……。迷うわたしに織田さんが畳み掛ける。
「お近づきのしるしに奢らせて下さい」
「そんなっ。そんなわけには」
「気をつけたほうがいいですよ。こいつは気に入った女性にはすぐその手を使うから」
楽しげな声が予想外のところから割って入る。
駅員さんだ。
「真哉、人聞きの悪いこと言うな」
……しんや、って言うんだ。名字はなんだろう。それにしても年季を感じさせる二人の仲の良さだ。わたしはくすりと笑って、空になったグラスを差し出した。
「じゃあ奢りじゃなくていいので……もう一杯オススメお願いします」
「おススメですね。かしこまりました」
すぐ次のビールがやってくる。見た目は輝きのある明るいゴールドで、日本のビールっぽい。
「デュベル。ベルギービールです。このビールは、温度によって味わいが変わるので、食前、食中、食後で楽しむことができます」
まずはじっと見てからゆっくり口をつけると、柑橘系の香りに、スパイシーな香りが広がる。
「おいしいです。とっても」
「本当に美味しそうに飲みますね」
隣りからの柔らかな声に、そちらを向く。まさか話しかけてくれるとは思ってなかった。
「そう、ですかね?」
「僕もうっかり同じものを飲みたくなるくらいです」
「真哉、常連になって下さるかもしれない大切なお客様を口説くな」
「あのな」
いくらなんでもわたしだって、口説かれてるか世間話くらいかの会話の温度差はわかる。駅員さんのは考えるまでもなく後者だ。オーナーと友達という会話で第三者の客が疎外感を感じることのないように気を使ってくれているんだろう。かえって申し訳ないくらいだ。
「仲、いいんですね」
「高校からの腐れ縁なんですよ」
「そうなんですか」
いいな。そういうの。じゃあここが地元なのかな。わたしは高校を出てすぐに上京してきてしまったから友人たちと会う機会はぐっと減った。友達関係が終ったわけじゃないけど、一番仲のいい子は結婚して以前のようにいつでも連絡するというわけにはいかなくなってしまって、今は少し距離感を図りかねていた。元々辛いことを人に吐き出せるタイプじゃないからここ最近は余計に疎遠になっていたかもしれない。こっちでできた友達もいるけどこっちはこっちで同じようにバリバリ忙しく働いてるのを知っているからなかなか連絡が取りづらかった。なかなかままならないものだ。そのうち仕事に慣れたら連絡してみようかな。時間とりやすくなったし。
……別れてから時間がとりやすくなるなんて皮肉だけど。
「こちらに引越してきたのはお仕事の都合ですか?」
今度はさりげなく織田さんが聞いてくれる。さっきの青年との会話を聞いていたんだろう。あっさりと聞かれたせいか美味しいビールのせいかわたしも素直に頷いていた。
「そうなんです。今日から初出勤」
「お仕事は……? って、すみません。初対面で踏み込みすぎですかね」
屈託のないその物言いには不思議と抵抗がない。年の功かな。さっきの青年もにこやかにグラスを拭き続けている。
「えーと。歯科助手、の助手?」
雑用係にもまだなっていないという感じだけれど。そのうち躊躇わずに言えるようになるといいな。視線を感じて隣りを見ると駅員さんがにこりと微笑んだ。
「じゃあ、今度歯が痛くなったら行きますね」
おおう。社交辞令もソツがない。バーテンダーさんも駅員さんもさすがある意味サービス業。この愛想の良さ見習わなきゃ。ふと時計を見るとあっという間に八時だ。楽しいけど潮時だろう。少しビールの残っていたグラスを空けて、立ち上がった。あとは水入らずでゆっくり飲んで頂こう。名残惜しいけどね。
「会計お願いします」
やがて差し出された金額は、きっちりビール一杯分少なくて。
「足りませんけど?」
「奢るって言ったでしょう? 初出勤のお祝いです」
ここで素直に引くのが多分可愛い女の子だろうと思うのに、初対面の男性に奢られるのは何となく抵抗があって「でも」と逡巡すると織田さんは再び首を振った。
「また来て下さい」
少し考えて。このお店が気に入ったのは確かだった。約束しなくても多分また来る。
「……ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えます。ご馳走様でした」
織田さんがお医者さんなら、どんな患者さんでも安心させてしまいそうな笑顔。お店を出る前に何となく振り返ると、駅員さんと目が合った。グラスを上げて挨拶してくれる。どぎまぎしたままお辞儀を返した。今日は駅員さんで始まって駅員さんで終わった感じだ。
酔っているのかなんなのか、ふわふわした気持ちのまま家路についた。疲れたけど良い一日だった。