【14】「はい」 1
求めても与えられてもまだ足りなかった。会えない間、何度もこの温もりを求めてた。抱きしめられて、抱きしめて、ここがわたしが一番帰ってきたかった場所だと心から思う。駅員さんに出会う前のことなんかもう思い出せない。
今までこんなにも心も身体もぴったりと寄り添える人はいなかった。駅員さんはわたしにとって〝目に見える大切な人〟だな、と思って一人笑った。
「……ん?」
夜中、ふと気がつくと隣りに駅員さんはいなかった。サイドテーブルの時計を見るともう明け方の近い時間で、トイレかな、と思ったけどなかなか戻って来ないことにちょっと不安になって、わたしはすぐそばにあった駅員さんのパジャマの上だけを借りてリビングに向かう。
月明かりの蒼い闇の中で、駅員さんが立ったままバイオリンケースをじっと見つめていた。
何を考えているのかはわからない。でも駅員さんとヴァイオリンの間に、確かに対話のようなものを感じて、このまま見なかったことにしようかどうしようか悩んでいると、気配に気づいたのか駅員さんが顔を上げてしまった。——遅かった。
「咲紀さん」
気まずそうに立ち尽くしたわたしを見て、一瞬のびっくりがすぐに柔らかい笑顔に変わる。差し出された手に吸い寄せられるように、わたしは駅員さんに近づいて、すぐにその腕の中に抱きこまれた。冷えてる。一体いつからこうしていたんだろう。たった一人で。
「どう、したんですか?」
わたしを抱きしめる駅員さんの顔がわたしの肩に落ちる。微かにため息が聞こえた。
「……弾けないと弾きたい。不思議なものですね」
「怪我が治るまではダメですよ」
「はい」
治っても、元のように弾けるようになるためには長い時間が必要になるだろう。わたしもそっと駅員さんを抱きしめた。少しでも不安が消えるように。
「会えないと会いたい、みたいですね」
この間までのわたしです、と見上げて笑いながら言うと、駅員さんが頷いた。
「僕も……いつも咲紀さんに会いたいですよ」
駅員さんはまるで甘いお菓子でできているようだ。わたしを魅了してゆっくりどこまでも蕩かしてしまう。これはダメな甘さだ。過ぎると中毒になったりダメ人間になってしまう。きっと。
わざとだろうか。耳にかかる息がくすぐったい。ぎゅっと更に強く抱きしめられて、わたしは手を伸ばしてそっとその柔らかな髪を撫でた。
そこで唐突に思い出す。
「あっ。そうだ!! 真哉さん、諌山先生になんて伝言したんですか?」
「聞かなかったんですか」
意外そうに、というよりはやっぱり、的な響きで。抱きしめられたまま応える。
「はい。ええと、諌山先生が本人から聞かなきゃ意味がないって」
「そう。なるほど……喰えない人みたいですね」
よくわからなかったけど、諌山先生が難しい人であることは本当だ。
「えと、それで、なんて言ったんですか?」
駅員さんはいきなりひょいとわたしを子どもを抱き上げるみたいにして、ソファの背もたれ部分の上に腰かけさせた。そしてそのまま、わたしの腿の両サイドに手をつく。前かがみにわたしの顔を覗き込む駅員さんの顔を見つめた。少しやつれた感じが、元々整った顔立ちに陰影を与えてて色っぽい、とかちょっと思う。久々のスキンシップですっかり思考が爛れてる感じだけど、でも本当にそう思うんだから仕方がない。
額にくっついてた髪をそっとはらうと、その手を駅員さんがそっと掴んだ。
「会うたびあなたを手放せないと思う僕は……変でしょうか」
「……わたしもそうだから。変じゃないと思います」
もうこれ以上は好きになれないくらい好きだと思うのに、いつも昨日より今、もっと好きだと感じる。始まったばかりの恋だからじゃない。駅員さんだからだ。額を寄せ合って、ふっと笑いあう。ここに編集長がいたらまた〝馬鹿二人〟って言われるんだろう。
言葉が途切れて、駅員さんの目に宿る何かが微かに変化した。
何? きょとんとしてるわたしに、駅員さんはいつものようにわたしの手を貴婦人のように恭しく持ちながら、口を開いた。
「僕と結婚してください。咲紀さん」
え、と?
駅員さんの言葉をぼんやり聞いて、必死にそれを引き戻す。
えええ? 今、なんて!?
思わず思考停止。わたし、また頭がバカになってるし!!
結婚? 誰と、誰が?
「真哉、さん? え、と、いま」
「プロポーズです。咲紀さんに」
にこやかに告げる声も爽やかで、わたし今スッピンだよ、とか、きわどいトコから足が丸見えだとかそんなことを気にしてる間もなく、一気に体温が上昇する。血圧も多分上がってる。息が苦しい。なんだかぼうっとする。
結婚。——わたしと駅員さんが? 嬉しい。それは素直に嬉しいけど。
「ちょ、ちょっと待って」
途方に暮れたように駅員さんを見ると、駅員さんは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「やっぱり、急ぎすぎですか」
ええと。思えば確かに駅員さんと出会ってまだ数ヶ月。まあね。早いとは思うけど……、
「ええと、時間は、関係ないです」
否やはないのだ。
「嬉しいです。本当に」
本当に嬉しくて頬が緩みかける。それが微かに歪んだ。
「……でも?」
口を噤んでしまったわたしを駅員さんが優しく促す。わたしは駅員さんの腕にそっと手を添えて、見上げた。どうしよう、うまく伝えられるかな。
「わたし、ずっと出版社に入るのが夢だったんです」
運よく夢が叶って山櫻社に入れた。でもようやくスタートラインに立てただけでまだ何もしていない。全部、これから。やりがいがあるはずのその仕事は、多分過酷を極める。そして多分わたしはそれにのめり込む。駅員さんとの時間をたくさん犠牲にして。
「だから……ごめん、なさい」
いっやあああっ。何断わってんのわたし!! 心のどこかが、物凄い勢いでハリセンでわたしの頭を叩く。何馬鹿なこと言ってんの。ここで断わってどうする!! あの会社で暇になる日があるもんか。編集長見たってわかるでしょう!! さんざん先輩たちにも結婚は勢いとタイミングだって聞いたじゃない。こんなに好きで、一緒にいたくて。一生そばにいて欲しいのに、何が不満だわたし!! しちゃえ結婚!!
——そう、思うけど。……思うのに。でも。わたしがわたしをぎりぎりのところで誤魔化せない。
「今は仕事を全力でやりたいんです」
他のこと考えないで、真っ直ぐに仕事に向き合いたい。今は。
「……叔母を見てますから出版社の忙しさはわかるつもりです。僕も連休をとるのは殆ど無理だし、半分は朝が早いか夜遅い。お互い様ですよ」
真哉さんは多分そうやって優しくわたしを許す。包み込んで守るように。
だけど。
「最初から駄目奥さん許してどうするんですか。わたし駅員さんと結婚したらきっとものすごく家事頑張りたいと思いますよ」
好きだから。がっかりされたくないから。なにより帰りたいと思ってもらえる家にしたいから。でも今みたいに甘えすぎればきっとどこかで破綻する。でも頑張りすぎてもきっと破綻してしまう。
「咲紀さんばかりにやらせようなんて思ってないですよ」
この人は優しい。きっと本当にそうしてくれる。どこまでも優しい。どうしよう。「はい」って言ってしまいそうだ。だって、もう断わったこと激しく後悔してるんだから。この手を、離したくなんかない。
「咲紀さんがそばにいてくれるだけでいいんです。それでも?」
「……ッ」
なんという殺し文句。わたしはしばし天を仰いだ。駅員さんの指先が、そっとわたしの頬を撫でる。その動きがふと止まった。
「問題は時期で、僕ではないんですね?」
「あ、当たり前ですッ」
「付き合いをやめたい、ってことじゃないんですね?」
「やめたくないです。真哉さんが、許してくれるなら」
問題はわたしの方だけで断じて駅員さんではない。本当は結婚を断わって一番不安なのはわたし自身なのだ。駅員さんはこんなに素敵なんだから。この先いくらでも素敵な人が現れる。結婚してそれで安心できるわけじゃないけど、よすがくらいにはなるのに。わかってるのに、なんでわたしこんなに不器用で融通がきかないんだろう。
「良かった。……じゃあ、言ってください」
「え?」
「待ってて欲しいって」
「え、でも」
言えない。わたしにそんな価値があるとは思えない。それに一体いつまで待っててもらえばいいのかもわからない。首を振ろうとしたわたしの顔を、押しとどめるように駅員さんが両手でそっと包む。包帯の感触がくすぐったい。
「僕は咲紀さんしか欲しくないんですから、いつまでだって待ちますよ。それに待ってる間ずっと会えないわけじゃないでしょう?」
「それは、もちろん」
そりゃあそうだ。そんなのわたしが耐えられない。でも考えてみればそれはずるいことなのかも。結婚を断っておいて、会いたいときだけ会いたい、なんて。考え込んでしまったわたしに、〝咲紀さん〟と駅員さんが優しく呼びかける。
「僕が性急でした。すみません。……あなたとのわかりやすい絆が欲しくて」
「絆?」
「咲紀さんは魅力的だから」
独り占めしたくて、と続く。はあ!? それ逆でしょう! 褒め殺し? 褒め殺しってこういうの? もう嬉しいんだか居たたまれないんだか自分でもわかんない。繰り出される甘い言葉のフルコースに、これ以上赤くなれないってほど顔は赤くて。心臓は爆発しそうな勢いでドキドキしてて。
なのに、ひどく現実味がない。
「真哉さんはわたしのこと買いかぶりすぎですよ」
俯くわたしの顔にかかった髪を耳にかけるようにして撫でてくれる。
「そうかな? 正当な評価だと思うけど」
わたしはそんな風に言ってもらえるほどの女じゃない。でも駅員さんがそう言ってくれるなら、少しでもそうありたいと思ってしまう。
下からそっと駅員さんの顔が近づいて、吐息を感じた後唇が重なった。唇を愛撫されるみたいに辿られ、招き入れるように開いた唇から舌が入り込んでくる。すぐに絡み取られて舐められて、ぞくりと身体が震えた。
「…………ん、ッ、……ふ、」
静かな部屋の中に音とわたしの恥ずかしい声だけが響いて、与えられる気持ちよさにだんだん何もかもどうでもよくなってしまう。
「いつか」
小休止を与えるみたいにそっと離れた唇が囁く。
「……ん……?」
「いつか咲紀さんの方から結婚したいといってもらえるくらいに頑張ることにします」
ええっ。これ以上!? だからそのう。結婚したくないわけじゃないんですー! 今は考えられないだけで。
困った顔になってしまったわたしをあやすようにあちこちに唇が落とされる。仰け反ったわたしの身体が落ちないように、いつの間にか背中に手が回されていた。駅員さんの片手に負担をかけたくなくて、首に両腕を回すようにしてしがみつく。
触れられたところが次々熱を帯びた。こんな風に誘惑して、わたしが一日も駅員さんと離れたくなくて、別々の家に帰りたくなくなるほど溺れさせて、なるべく早く結婚したいと思わせたいのだろうか。……そんなのもうとっくなのに。とっくに溺れきって駅員さんなしでは生きられないって思ってるのに。
「ごめん、ね?」
それでも〝はい〟と言えない自分が憎い。わたしの謝りに駅員さんはゆるくかぶりを振った。
「僕は咲紀さんのそういう真っ直ぐなところも好きなんです」
不器用でもね、と余計な一言を付け加えてわたしを抱き上げる。手に負担をかけないようにか、怪我をしていない方の手で子どもにするみたいな縦抱きだ。
「眠い?」
わざわざそんなことを聞いてくるのも意地悪。応えの代わりに駅員さんにぎゅっと抱きつくと、笑うような気配が伝わってくる。
「ちゃんと起こしてあげますから」
ああでも咲紀さんはお休みでしたね、という駅員さんの言葉に、絶対ちゃんと起きようとこっそり決意した。今度こそ駅員さんよりも先に起きて身支度を整える。
それは朝には呆気なく勝敗を決してしまうような甘い決意だった。——勿論、駅員さんの勝利で。
*+*
「いやーっ。ホントよかったっ」
満面の笑みでそう言うのは織田さん。日曜日の夜、仕事の終わった駅員さんと待ち合わせしてこのテンペストにやってきた。
金曜土曜を禁酒したからと言って、果たして日曜日なら飲んでもいいのかという疑問はありつつも、やっぱりそろそろ禁断症状だ。美味しいお酒が飲みたい。そして美味しいご飯も。どこか食事に行く? という駅員さんに迷うことなくこのお店をリクエストすると、なんともいえない複雑そうな顔をされた。ホンのちょっとだけ申し訳ないなと思ったけど、織田さんといるときの駅員さんを見るのは大好きだし、料理もお酒も美味しいし。
「ま、とりあえず」
差し出された緑の瓶には青りんごの絵。ほんのり甘い香りがする。
「りんご?」
「そ。青りんごのビールで〝ニュートン〟。洒落てるでしょ?」
「へえー」
ここに来るたびビールって奥が深い、と思わずにはいられない。綺麗でとろりとした感じの金色。駅員さんはいつもどおり生だ。
珍しく織田さんも自分の分の小ぶりのグラスを用意して、生ビールを注いだ。
「お前も飲むのかよ」
眉をひそめた駅員さんに、艶っぽく片目を瞑ってにやりと笑う。
「お祝いだろ?」
「それでどうしてお前が飲む」
「だってさあ、前にお前ら別々で来たとき最悪な顔だったじゃねーか。それが解消されただけでも飲む価値あるだろ」
ムカつくほど幸せそうなツラしやがって、と駅員さんを小突こうとした織田さんの手をひょいと避ける。
「解決、したんだよね?」
念のためにと聞いてくる織田さんに、わたしはこくんと頷いた。
「はいっ」
「この間のイケメンは?」
「イケメン……?」
って、誰? 本気で思い当たらないわたしに織田さんが吹き出す。
「あー、ごめんごめん。咲紀ちゃんにとっては真哉だけがイケメンなんだよなー。ほら、あれだよ。真哉を助けてくれるとか言ってた」
「ああ!! 九重先生ですか!!」
そういやそんなことあったな、と思う。奥からウエイターさんが、角切りトマトとモッツァレラをバジルとオリーブオイル、塩コショウであえたお通しを持ってくる。あったかいおしぼりを受け取って、ほわっとなった。
そんなわたしを目を細めて笑う駅員さんが買いかぶり以外の何モノでもないだろう発言をする。
「結局全員を救ったのは咲紀さんだよ」
「おお、英雄だな!!」
褒め上げる二人に慌ててぶんぶん首と両手を振る。
「あ、わたしは何もっ」
みんなが少しずつ勇気をもって一歩前に進んだ、その結果だ。わたしはそれを観客のように見ていたに過ぎない。
「それでも、みんなの背中を押したのは咲紀さんだと思うよ?」
「……きっかけがたまたまわたしだっただけで、みんな変わりたいと思ってたからですよ」
恥ずかしい。メイクさえしてなければおしぼりで顔を拭いてしまいたいほど、じんわりイヤな汗が滲んだ気がする。
「人はなかなか変わりたいと思っても変われません。でも真っ直ぐな咲紀さんを見てるとその部分を刺激される気がする」
「え、えと、」
「お前が刺激されんのは別のトコだろ」
「……一誠」
ふっと目つきを険しくした駅員さんが、織田さんのグラスを取り上げてくーっと空けてしまう。空になったグラスを悲しそうに見つめて、織田さんは苦笑した。
「お前も丸くなったよなー。咲紀ちゃん効果か? 前なら鉄拳が飛んできてたもんな。あ、手じゃなくて足だから鉄足?」
「無駄口はいいから早く料理を持ってこい」
そんな駅員さんの様子に笑いを押し殺す。素直に従う織田さんもなんだか可愛くて。本当に楽しそうだ。
「じゃあ、乾杯しようか」
「そうですね」
グラスを持ち上げて、そっと触れ合わせる。
「英雄に」
「……もう」
上目遣いに駅員さんを軽く咎めて、くーっとグラスを傾ける。
「美味しい」
少し甘いけど食前ビールとしてはいいかも。やがて料理がやってくる。はちみつとバルサミコを効かせた味が良く染みていて感動的に柔らかいスペアリブ。蛸と旬野菜のマリネはレモンの加減がちょうどいい。ハマグリのガーリックバター焼きも、熱々濃厚ラザニア風カルツォーネも泣きたくなるほどおいしくて。やっぱり来て良かったーっと改めて思う。締めのビアゼリーまで大満足で堪能する。
「で、お前はお咎めなしなのか? 真哉」
改めて新しいビールを用意して、あえてわたしが聞けなかったことを織田さんが問う。
「いや」
ちょっとだけ口ごもって、真哉さんはちらりとわたしを見ると、仕方なく口を開いた。
「明日から異動。うちの駅から四十分くらい離れた駅に」
「家は?」
「寮を使う。行きっぱなしってことはなさそうだから」
「ほとぼりが醒めるまで、ってことか。難儀なことだな」
そんな、とわたしは言葉を失った。
「会いに来ます。電話も、メールも。……寂しいのは僕の方ですからね」
臆面もなく優しくそう言った駅員さんに気を利かせたのか、織田さんがグラスを持ったまま再び店の奥に消える。
「会いたくなったら会いに行ってもいいですか?」
多分きっとなかなかそんな時間はできないだろうけど。それでもほんの少しでも顔が見られれば頑張れる気がする。
「もちろん。大歓迎ですよ」
寂しい。本当はすごく寂しい。でもそんなことを言ったら駅員さんが困る。これまでのことを考えてもこれは会社的には格別の配慮なのに。
「咲紀さん。誕生日はいつですか?」
「え? ……三月三〇日、ですけど」
もうすぐですね、と少しだけ目を瞠って駅員さんが〝空けておいて下さいね〟という。
「はい」
そしてそっとわたしの左手の薬指に触れる。
「ここに約束の印を……つけてもいい?」
印? 楽しそうな駅員さんと、誕生日と左手の薬指……。あっ、と気づいてこくりと頷く。
「楽しみにしています」
「それ、わたしが言うことじゃ」
そうですか? と駅員さんは何気なく返して、空のグラスを触れ合わせる。
「咲紀さんが不足したらSOS出しますから。助けに来てくださいね」
「……わたしも」
「もちろん。いつでも」
そんなことを言ってもきっとお互い仕事を優先するし、なかなか会えないことはわかってる。
でも今はその気持ちが嬉しかった。




