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駅員さんの恋  作者: 高藤みずき
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【13】「あげるよ」 4



「お父様」


 衛藤さんが樹くんの肩をフレンドリーに叩いて顔を上げさせたのを見て、ああよかった、と思う間もなくそこへ千晶さんの硬い声が割って入る。


 ああっ、そうか!! そうだ。その問題が残っていた本日最大で最悪のメインイベント。今ですか、とちらっと思わなくもなかったけど、駅員さんと婚約発表、なんて噂が広がってる以上早い方がいいのだろう。また今度にすると九重先生は今度こそ逃げてしまうかもしれないし。


 頑張れ、とわたしはぎゅっとこぶしを握った。


「わたし、好きな人がいるんです。栗生さんではなく」


「……なに?」


 衛藤さんの声が低く、剣呑な響きを宿す。


「会って頂けますか」


「認めないわ」


 力なく、万璃子さんが呟いた。それは依然として暗い翳りを帯びたままで、仕方のないことだとは思いつつもいたたまれなかった。


「万璃子、お前も知ってる奴なのか」


「……九重の息子よ」


 その名前にすぐに思い当たったのだろう。さあっと衛藤さんの顔色が変わる。こんなに心臓に悪いことが続いて、衛藤さんは大丈夫なんだろうかとちょっと心配になる。


「許さんっ。許さんぞ、そんな……ッ」


 喘ぐように言葉をくり返す衛藤さんに、千晶さんは冷ややかともいえる視線を向けた。


「許していただけなくてもいいんです。もう決めたんです」


 怒りに真っ赤になった衛藤さんが千晶さんに向かって手を振り上げる。ぶたれる!! と誰もが思った瞬間、想像以上の激しい音がしてぎゅっと目を瞑った。


「……お、まえ……」


「兄さんっ」


 そろりと目を開けると、そこには千晶さんを庇って殴られた様子の九重先生の姿があった。どれだけの力でぶたれたのか、口端からは血が滲んでいる。その力で娘を殴ろうとしたのか! 動揺してるにしても酷すぎる。


「お久しぶりです」


 九重先生は指先で血を拭って、不敵に笑った。


「どうして、どうしてお前がここに」


「千晶を迎えにきました」


「なに?」


「義母はあなたにお返ししましたが、千晶は返してもらいます」


 その言葉のもつ意味に、衛藤さんは言葉を失い身体を震わせた。


「あなたはオレからすべてを奪った。……でももうこれで許してやるよ」


「……な……」


「万璃子」


 九重先生の声に、ぼんやりと万璃子さんが顔をあげる。一瞬見つめあった二人にどんな想いがよぎったのかはわからない。


「——悪かった」


 九重先生から告げられたその言葉に万璃子さんはくしゃっと顔を歪めて、言いかけた何かを飲み込んだ。九重先生は衛藤さんを一顧だにせず、そのまま千晶さんを連れて部屋を出て行った。彼女の肩をしっかりと抱いたまま。


 やってくれた。


 九重先生らしいといえばらしい。お願いしないままにあっさりと千晶さんを奪っていった。まるでそれが正当であるかのように。


「ゆ、許さんっ。許さんぞあんな……ッ」


 怒りに震える衛藤さんに、さっきまでとは打って変わって、気丈な声が飛んだ。


「お父様」


「万璃子、どういうことだ!! お前とあいつの間に何があったんだ」


「……なにも」


 万璃子さんは真っ直ぐに顔を上げて衛藤さんを見つめた。


「な、に?」


「なにもなかったの。——なにも、なかったのよ」


 瞬間泣き出すかと思った万璃子さんは、艶やかに微笑んだ。


「行かせてあげれば。いいじゃないの。どうせあの子は……もともとうちの子じゃなかったんだから。そうでしょう?」


「ま、万璃子」


「衛藤家の本当の娘は、わたし一人でしょう? お父様」


 負い目のある衛藤さんを一瞬で封じる言葉。素直じゃないな。まあ、万璃子さんの気持ちを考えればそれも仕方のないことだと思うけど。でも、あれは彼女なりの今できる二人への精一杯の後押し、だったんだろう。


 美人はこんなときも綺麗だ。まるで孤高の薔薇のように。


 全員が立ち尽くしていたそこへ、なかなか戻ってこない衛藤さんに痺れを切らしたらしい秘書の人が呼びにやって来て、ばたばたと場が慌ただしく動き始める。衛藤さんはさぞかしぐちゃぐちゃだろう頭の中をさすがに見事に一瞬で切り替えて、樹くんに準備ができたら来るように告げて出て行った。


 万璃子さんのことも、出てゆく前に秘書さんに何ごとかを言いつけたらしく、その人に連れられて、万璃子さんは促されるままドアに向かい、出る寸前わたしたちに「申し訳ありませんでした」と一礼してそのまま去ってゆく。女優の退場、まさにそんな感じだった。


 ばたん、と閉じたドアに、はあっと詰めていた息を吐き出す。


「大丈夫ですか?」


 隣りで心配そうにわたしを見つめる駅員さんに頷いた。


「平気です」


 平気じゃないのは駅員さんだ。駅員さんの手の中ですっかり役に立たなくなったわたしのハンカチは真っ赤で。もはや絞れそうなほどだ。


「すみません。今度新しいハンカチプレゼントさせて下さい」


 青ざめたわたしの視線に気づいて、駅員さんが見当違いなことを言う。


「ハンカチ気にしてる場合ですかーッ!!」


「新人」


「は、はいっ!!」


 ぽい、と放られた名刺大の紙を反射的に受け取る。


「そこに真哉を連れて行け。そいつならうまくやってくれるはずだ」


 病院?


 そこに書いてあった名前は、世界的にも有名な外科医の名前で。現代のブラックジャックとか言われてる不可能を可能にするという奇跡のお医者様だ。噂によると頭のてっぺんから足の先まで、治せないところはないという。


 えええっ。


「あの、編集長。こ、この人は三年先まで予約でいっぱいとお聞きしましたが」


 確かテレビでそう言ってた。テレビ放送時にそれなんだから、今はもう五年先ぐらいまでいっぱいかもしれない。それに、この人でなきゃ駄目な手術しかしないって聞いたんですけど!!


「今日はオフだと言っていた。わたしの名前を出せば診てくれるはずだ」


「重症じゃなくても、ですか?」


「かすり傷でも」


「編集長の名前を出せば?」


「そうだ」


 つまりこの名刺はプライベート用なのか! もー、わたし編集長がハリウッドスターやアメリカ大統領とお友達だって聞いてもきっと驚かないかもしれない。いや、むしろあり得る話だ。


「連絡はしておく。そいつのとこなら表沙汰にはならない。真哉を頼む。診てもらったあとはそのまま直帰していい」


「はいっ」


 じゃあ駅員さん、と視線を向けると、ちょっと困ったように視線を彷徨わせる。


「でも樹の演奏を」


「そんな場合ですかっ!!」


 この期に及んでそれですか。もう随分と血は止まってきたけど、それでもずっと流れっぱなしなのに。そんなにも樹くんのことが大事なんだなあってちょっとこんなときなのにヤキモチをやいてしまいそうだ。


 調弦をしていたその当の樹くんが、その声が聞こえたのかムッとした顔で駅員さんの前に立つ。


「バカにすんな」


 指慣らしのつもりなのか、ガーシュウィンの難しそうな曲をさらさらっとちょっと弾いてみせ、どうだ、という顔をする。


「一人でも大丈夫だよ。もう」


「樹」


「真哉がいなくても、ちゃんと最高に、最高の演奏をする」


 そのときの駅員さんの顔に浮かんだ表情は、嬉しいような淋しいような複雑そうなそれで、わたしは小さく吹き出した。


「咲紀さん」


「ご、ごめんなさい。だって真哉さんまるで樹くんのお父さんみたいだからっ」


 まるでわたしが小さいとき、もうお父さんと一緒にはお風呂に入らないって宣言したときみたいだった、とか言ったらさすがに気分を悪くするだろうからそれは内緒だけど。


「心配しなくても真哉の代わりにわたしがちゃんと見届けといてやるよ。いいかいボーヤ。音一つでも外したら遠慮なく野次飛ばしてやるから覚悟しな」


「上等だ!!」


 なんだかんだでいいコンビかも。見た目は美女と美少年のこの二人の口の悪さがいかんせん惜しい。黙ってたら耽美な雰囲気なのに。


 さてと。今度はわたしの番だ。ごっくん、と息をのんで駅員さんに向き直る。


「わたしと一緒に来て頂けますか? 王子様」


 そう言って駅員さんに手のひらを上に差し出したわたしの手が、情けなく震えた。


「待たせてごめんなさい」


 そっと目を伏せる。駅員さんを見るのが少し怖い。物凄く長く感じた沈黙のあと、大きな手が、わたしの手に重ねられ、そのままきゅっと掴まれる。見ると真摯なまでの眼差しがわたしを捕らえていた。


「真哉、さん」


「僕の方こそすみません。——もう、離しませんけどいいですか」


 目を細めるようにしてそう言って、わたしの手をくるりと返してその指先に口づける。


 どきん、と心拍数が跳ね上がった。この人は、どれだけわたしをめろめろにしたら気がすむんだろう。自分が恋愛に溺れることなんて一生ないって思ってたのに、駅員さんといるとそんな考えがたちまち揺らいでしまう。


 駅員さんは手を離さないまま身をかがめて、上目遣いに囁いた。


「返事は? 咲紀さん」


 ああ、もう、返事なんて聞かなくたってわかってるはずなのに。どきどきしすぎて眩暈がしそうだ。


「……わたしも、離しませんけどいいですか」


 どこまでも負けるもんか、なわたしの物言いに、駅員さんがくすっと笑う。


「もちろんです」


「そこのバカ二人」


 冷ややかに、編集長の声が背中にかかる。


「早く行けといってるだろーがっ!!」


「はいっ!!」


 駅員さんと目を見合わせ、肩をすくめて笑いあい、追い立てられるまま部屋を出る。


 樹くんがパーティーでそれはそれは素晴らしい演奏をして、しかも意外な社交的素質を垣間見せたという報告を聞いたのはまた後日の話。


 かくて慌ただしくも運命的な血まみれの決戦の日は、こうしてゆっくりと終わりを告げたのだった。


      *+*


 ばったばたの病院経由で駅員さんのマンションに戻ると、もう日付が変わりそうな時間だった。治療が済んだ時点で編集長に報告の連絡はしてある。良かったも何もなく「早く帰れ」の一言だったのがらしいといえばらしい。


 部屋に入ると駅員さんの匂いがした。ホッとする。ここへ来るの、なんだかものすごい久しぶりな気がするけど、本当はそれほどでもないはずだよね。——長かった。なんだかすごくそう思う。


 リビングで、〝酒は今日はやめておけ〟という医師の言葉に従って二人でコーヒーを飲みながら、ソファに座る駅員さんの膝の上の左手を、テーブル越しにじっと見つめた。駅員さんの手の傷は七針。


「細かく縫ったというだけで、傷が大きいということじゃないですから」


 そう駅員さんは言ったけど、わたしは涙目だった。


 わたしがあんな変な賭けに乗らなければきっと駅員さんはこんな怪我しないですんだのに。わたしはバカだ。とんでもない罪悪感に襲われて、視線を落としたまま顔を上げられなくなる。もっと他に方法はなかったのかな。全部を一度に終わらせる必要なんてなかったんじゃないかな。うまくいったけど、なんてのは結果論でしかない。


「咲紀さん」


 俯いてたわたしに呼びかける優しい声に、顔を上げると、いつものふんわりした、わたしを幸せにする微笑を浮かべた駅員さんの視線とぶつかって。怪我をしている方で手招かれ、わたしは重症の心を抱えたまま駅員さんによろよろと歩み寄った。


「座って」


 促され、駅員さんの隣りに腰かける。駅員さんは包帯の巻かれた左手で、そっとわたしの左手を持ち上げた。包帯はもう血に染まってはいない。駅員さんの血で血まみれだったわたしのこれも、ドクターブラックジャックがついでにと綺麗なものに交換してくれたのだ。ぶっきらぼうで口は悪いけど優しい人だった。しかもクラークゲーブル風の渋くてかっこいいオジサマだったし。編集長との関係がとても気になります。治療費はいらないって言ってたし。


「真哉、さん?」


「包帯、おそろいですね」


 にっこり笑ってそんなことを言うから、がっくりと肩を落として泣き言を返す。


「……こんなおそろいはイヤですーっ」


 仮にも恋人同士なら、もっとお揃いで嬉しいものがあるはずだ。断じてこんな痛々しいものであっていいはずがない。


「咲紀さん」


 今度は顔を上げなかった。柔らかな雨のように降ってくる駅員さんの声が優しく沁みこんでくる。


「僕はよかったと思ってますよ」


「……何がですか」


「僕がいないところでもし咲紀さんが怪我をしていたら、その方が堪えられないから。——この間は守れませんでしたからね」


「あっ」


 やっと顔を上げたわたしの頬に、駅員さんの手が触れた。


「階段から落ちたときも、わたしを助けてくれたの真哉さんですよね?」


「はい」


 申し訳なさそうに頷く駅員さんに、やっぱりあれは夢じゃなかったんだと安堵する。都合のいいわたしの妄想かと思っていたのだ。


「倒れてた咲紀さんを見たとき、死ぬかと思いました」


 僕が怪我をすれば良かった、という駅員さんの手にそっと凭れる。


「わたしは、真哉さんが怪我するほうが辛いです」


 駅員さんがわたしを守りたいと思ってくれるのと同じように、わたしだって駅員さんを守りたいのだ。


「じゃあ、お互い気をつけましょうか」


 なんだそりゃ、と思ったけど、多分わたしたちはお互いのためなら無茶をする。きっとする。だからその言葉は多分正しい。


「そう、ですね。それからホウレンソウも」


「ホウレンソウ?」


「報告連絡相談です。……わたしもしますから、真哉さんもしてください」


「……はい」


 二人顔を見合わせて破願する。どちらともなく顔が近づいて、ゆっくりと唇が重なった。触れ合う先から溶け合ってゆく気がする。優しいぬくもりに包まれて、ようやくわたしは帰るべきところに帰ってきた――――そんな気がした。


「結局咲紀さんに助けられましたね」


「わたし、王子ですから!」


「ところで僕は随分と咲紀さんが不足してるんですけど」


 そんなことを不意打ちで囁かれて耳まで赤くなる。


「……わたしだって、真哉さん不足ですっ!!」


 こんなときまで負けるもんかの自分の性格が恨めしい。もっと可愛く言えないかな。駅員さんはものすごい至近距離でそんなわたしをちょっと見つめてから、ふっと解けるように笑って……耳元に囁きを落とした。



「……あげるよ」



 心拍数が一気に跳ね上がる。この人はわたしのこと殺す気なんだろうか。わたしのどきどきをさらにどきどきさせる不埒な手が行動を開始する。


「真哉さん、手……」


「大丈夫です」


「いや、ダメでしょ、安静にって先生も……」


 わたしの言葉を遮るように駅員さんの唇が重なる。こうなると勝てる気がしない。おっとり優しい駅員さんはこんな時だけ少し強引だ。——明日が休みでよかった。


 そんな冷静なことを考えていられたのはそこまでだった。




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