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駅員さんの恋  作者: 高藤みずき
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【13】「あげるよ」 3



「この馬鹿者がッ!!」


 部屋に入ってすぐに聞こえてきたのは辺りを憚らない物凄い怒号だった。ひゃ、と思わず首をすくめる。


「お前はなんということをしてくれたんだ!」


 衛藤氏の傍らには居たたまれないといった様子で千晶さんが立っていた。衛藤氏がうなだれたままの万璃子さんを厳しく責め立てているのだ。駅員さんは部屋に入ってきたわたしたちに気づくと、目線だけで奥の部屋へと促す。そこには、衛藤氏となるべくなら顔を合わせたくないのか、身を潜めた九重先生の姿があった。


「真哉!! なんだよその怪我はっ」


 入るなり、まだ応急処置すら施していない駅員さんの血まみれの手に気づいて、真っ先に顔色を変えてその手を掴もうとした樹くんを駅員さんは片手で制した。


「時間がないので手短に」


 そう言うと、真っ直ぐに編集長を見つめる。


「僕が手を怪我をしたことをできるだけ派手にマスコミに広めて頂けますか」


「どの程度で?」


「……もう二度とソロのヴァイオリン奏者として演奏するのは無理だろうという程度で」


「真哉さん!!」


「真哉!!」


 わたしと樹くんの声は同時だった。さっき神経には問題ないって言ったのに。あれは嘘だったの? 顔色を変えたわたしに、駅員さんがそっと微笑む。


「大丈夫です。ただもうコトを穏便に収めるにはこの方法しかありませんから」


「ヴァイオリンを完全に捨てる、ってことか?」


 今にも泣きそうな樹くんに、駅員さんは違う、と首を振る。


「もう随分前に僕は選んだんだ。駅員であることをね。そもそも失礼な話だろう。世の中にはヴァイオリンに生涯を捧げている人がいくらでもいるのに」


 音が甘い、という諌山先生の言葉が脳裏に蘇る。それはきっと駅員さん自身が一番感じていたことだったんじゃないんだろうか。


「真哉!! でも!!」


「人前では弾かないというだけで、捨てるわけじゃない。ヴァイオリンは好きだよ」


「……捨て、ない?」


「うん」


「も、決めたんだ?」


「うん。……最後にお前とやれて良かったよ。樹」


 俯く樹くんの頭を駅員さんの大きな手がぽんぽん、とたたく。樹くんはようやく小さな声で、〝なら、いい〟と呟いた。どこかホッとした表情で。


「で、怪我の原因は」


 早く言え、とばかりに詰め寄る編集長に、一瞬駅員さんの視線が彷徨う。


「不慮の事故、ということにしておいてください」


「で、本当は?」


 やっぱり誤魔化されてはくれないか、と言いにくそうに言い噤んだ駅員さんの代わりに答えたのは九重先生だった。


「万璃子が、……衛藤氏の長女が刺しました。僕のせいで」


 編集長は眉を上げた。気圧されたように九重先生が一瞬息を飲む。


「あなたは?」


「九重智巳といいます。川野辺さんの従兄の友人で、歯科医をしています」


 値踏みするように九重先生を眺め見て、小さく息をつく。


「なるほどね。痴情のもつれか」


「まあ」


 ため息交じりに応じた九重先生に、編集長は目を眇めて、コドモだな、と呟いた。


「恨まれて蔑まれてこんな男とは別れられて良かった清々したと綺麗に別れてやるのがいい男ってものだろ?」


 千里眼ですか編集長!!


「しかし、とんだスキャンダルだな」


 すみません、と謝る九重先生に、編集長はわたしに謝る必要はないとぴしゃりとそれを撥ねつけた。


「千載一遇の好機、か。まあ、それしかないだろうが、本当にそれでいいのか? 真哉」


「はい」


「本気なんだな」


「はい」


「もう二度と大舞台には立てないぞ」


「わかってます」


 駅員さんが一度言い出したらきかないことを承知しているのだろう。編集長は肩をすくめただけて答えに代えた。


「樹」


 何かを孕んだ駅員さんの呼びかけに、樹くんは緊張した面持ちで、なに、と呟く。


「衛藤氏に謝るんだ」


 瞬間、樹くんが信じられない、といった様子で目を見開く。


「……イヤだ」


 ふるっと首を振って、一歩後ずさる。


「衛藤氏に関しては自分が悪かったってことはわかってるんだろう」


 きゅ、と結ばれた唇が、駅員さんの言葉を肯定する。


「でも、嫌だ」


「聞くんだ樹。お前は天才だけど、クラッシックを知らない人間にとってはただの生意気な子供に過ぎない。……それはわかってるか?」


「……」


「前にも何度となく言ったけど、樹にはただの不遜な奏者になって欲しくないんだ」


「媚びろ、ってこと」


「違う」


 駅員さんは今にも引きこもって頑なになってしまいそうな樹くんの気配を察して、言葉を慎重に選んでいるようだった。


 彼の心に一番響く言葉を。


「僕が今まで見てきたトップの人間は……勿論尊大な人もいるけど、尊敬されている人の殆どは押し並べて皆謙虚だ。そして自分に厳しい。いい音を長く出し続けることができるのはそういう人だと僕は思う」


「でも」


「閉じた世界からは何も生み出せない。樹は今のままじゃいずれ音楽をやることが辛くなるだろう」


「そんなこと……ッ、それは、いい演奏をすれば……」


「演奏家がいい演奏をするのは当たり前だ。咲紀さんに前に言われたこと忘れたのか? どんなに素晴らしい演奏をしてもお前自身が台無しにしたら意味がないんだ」


 わたし? ——あっ、と前にケンカ腰で樹くんに言ったことを思い出す。


〝あなたの演奏は素晴らしかったけど、あの音の持ち主がコレだなんて正直興ざめ〟


 い、いやっ、あれは売り言葉に買い言葉というか、嘘かって言われたら嘘じゃないけど、でも樹くんの音楽をすごいと思ったのも本当なのだ。それに樹くんがあの時わたしに噛みついたのはわたしに駅員さんをとられたくなくて、だし。——それともあの態度は誰にでも普通にデフォルトなのかな? それじゃあ、確かに、損をしてしまうこといっぱいありそうだ。樹くんに愛嬌が加わったら最強なのに。まあでも、愛嬌がないから樹くんだともいえる。だからこそ、輝きを失わない程度の処世術なんだろう。


 それは樹くんにとって相当難しそうだ。でも、まだこれからだもんね。変わるならきっと今なんだ。


「現にこの間も共演者に二度も断わられてる」


「……一人でだって」


「うん。確かに一人でも演奏会はできる。でも後援者を大事にできないような演奏家にはいつかスポンサーだってつかなくなるだろう。仲介を入れる? それじゃ、今度はその人とうまくやらなきゃいけないけどできるか?」


 先回りして答えを封じられて、樹くんはついに言葉を失った。


「樹、生きてくってことは否応なく人と付き合っていく、ということなんだ」


「……大人になれってこと?」


「うまく人と付き合えることだけが大人だとは思わないよ」


 そりゃあ、そうだとわたしは内心深く頷いた。それが大人なら大人になることは本当に難しいことになってしまう気がする。多分人は一生人間関係に苦労する生き物なのだろう。わたしだって今まで随分理不尽なこと飲み込んで、泣きたいのに笑って、怒りたいのに頷いて来た。


 正論が必ずしも正しくないってことも、社会に出ればだんだんわかってくる。気持ち悪いけど、イヤだけど、それでうまく回るならって。——でもそれってホントに正しいの? 我慢してるのわたしだけなんじゃないの? そんなジレンマ抱えて、それでも仕事は忙しくて、抱えたまま騙し騙ししてるうちに今度は体が悲鳴をあげる。リフレッシュなんてその場しのぎでしかなくて、会社に出社すればすぐにリセットがリセットされる。焼け石に水、なんて言葉を実感する日が来るなんて想像もしてなかった。


 辞めたい、って何度も思った。それは逃げだと何百回自分に言い聞かせただろう。逃げなのかな? 本当に? もう駄目だって、何千回思った? でも辞めたらすぐに次が見つかるかどうかわからなかったし。次が見つかるまでの大変さとかを考えてるうちに、だんだん少しくらいの嫌なことは平気になってた。平気、じゃないな。無理矢理目と心を閉じたんだ。そんなことばっかり上手になる。


 それって成長なの? いいことなの? ——それはきっと永遠に答えの出ない問いかけ。


 嫌な奴が相手だと、そいつの性格矯正なんて無理だから、自分の神経鈍化させるしかなかった。うまく環境変えられないのかな、って何度も思ったけど、忙しいから我慢する方が断然楽で。みんな頑張ってるんだから、と思うしかなかった。そうやって、会社が潰れるまで、わたしはわたしを頑張って誤魔化した。忙しいから、無理だからって言い訳して。でもあの時期があったから、多少今打たれ強くなったともいえる。確かに給料は我慢料なのだと痛感した。それにしちゃ随分少なかったけど。あれがわたしの一番の底辺だ。いまのところ。


 働くことはどこでも結局は大変。真っ直ぐに、正直に、自分の心を曲げずに生きてゆくことはかなり難しい。これからだって、多分そう。


「はっきりと思ったことを口にするのは悪いことじゃない。それを変えろといってるわけじゃないよ。ただ不必要に、不用意な言葉で人を傷つけるなと言ってるんだ」


 言葉は刃物だから。いったん傷つけてしまえば、元には戻せないから。


「口にする前に考えろ。感情で喋るな。……俺の前では、お前をわかってる人の前ではそのままでもいいから」


「真哉」


「俺はお前に一生ヴァイオリンを弾いてて欲しいんだ。ヴァイオリンだけは、ずっと自由に」


 駅員さんは本当に樹くんの音が好きなんだな。


 少し妬ける。多分駅員さんがヴァイオリンを辞めたのには、樹くんの存在も大きかったんじゃないだろうか、なんて思う。目の前に欲しくてたまらない音を出す奏者がいたら。そしてそれは自分が一生をかけても得られないものだとわかっていたとしたら——。そこまで考えて、ちょっと穿ちすぎかなと却下する。


 駅員さんは駅員さんになりたかった。それだけでいいものね。


「樹」


 樹くんの葛藤が手に取るようにわかった。でもここを乗り越えないと、樹くんはずっと今の樹くんのままだ。


「……わかった。……謝る」


「樹。謝ることよりも許す方が難しい。そこはわかれ」


「……うん」


「大丈夫だ」


 ずっと黙って聞いていた編集長が、背後から樹くんをぐりぐりしながら羽交い絞めにした。


「今こーんな偉そうなこと言ってる真哉だって、昔は随分小生意気なクソガキだったんだからな。それにくらべればまだまだお前なんか可愛い可愛い」


「佐和さん!」


 駅員さんのこの焦り具合をみると事実なのか。小生意気な駅員さん。それはすごーく気になる。


「離せこのば、」


 またしても暴言を吐こうとした樹くんを、編集長が〝ああん?〟と見やると即座に黙り込んだ。


「なんならしばらく慧介に預けてやろうか? ビシビシ鍛えてくれるぞ?」


 あのプロフェッショナルな人たちに。あ、それはなかなかいい考えかもしれない、と思ったら、樹くんはたちまち青ざめた。


「スミマセン。モウシワケアリマセン。ユルシテクダサイ」


 棒読みだけどあの樹くんが謝ってる!! って、どうして怖がるんだかわからないんだけど。慧介さんはもちろん、みんな優しそうな人だったよね?


「樹はリンダのお気に入りなんだ」


 わたしの疑問を見透かしたように樹くんを解放した編集長がニヤリと応える。ああー。なるほど。愛情が大きすぎるのか。重い、というか。おもちゃにされる様が目に浮かぶ。あの人なら樹くんを問答無用で大人しくさせられるんだろうな。


「咲紀さん」


「はい?」


「怒ってますか?」


「え?」


「……相談もしないで勝手に決めてすみません」


「それは……」


 わたしに謝ることじゃない。駅員さんの自由だ。むしろこのところのわたしの方が駅員さんに話さず勝手に決めたこと多かったし。責める筋合いはない。だって駅員さんの人生なんだから。——って、前にもこんなこと思ったなって、はたと気づく。あれは立場が逆だったけど。


 あの時は突き放されたと思った気がしたけど、そうか。うぬぼれてもいいのなら、今のわたしと駅員さんが同じ気持ちだったのなら、どんな選択をしても好きだという気持ちは変わらないから、だよね?


 わたしは駅員さんを見上げた。


「その選択で、真哉さんは後悔しないんですよね?」


「はい」


「諦めたんじゃないんですよね?」


「はい」


 それなら充分だ。


「じゃあ、いいんじゃないでしょうか」


 精一杯の笑顔を浮かべたわたしに、駅員さんがありがとう、と小さく囁く。


「でも許されるなら時々は、真哉さんのヴァイオリン聞きたいです」


「勿論」


 咲紀さんだけにあげるよ、ととても贅沢な甘い言葉がわたしの耳に落とされた。人前でびっくりの愛情だだ漏れな駅員さんに、や、やっぱり早く手当てした方がいいのではっ!! と、嬉しい気持ち半分切実に思う。


「おい、いちゃつくのはあとだ。効果的な話し合いをするためにその怪我そのままにしてるんだろう。ならさっさとしろ。部屋が汚れる」


 掃除をするのも弁償するのもわたしじゃないから構わないけどな、と続ける辺りが編集長だ。


「はい」


 いよいよ交渉開始だ。


「咲紀ちゃん」


「え?」


 不意に黙ったままだった九重先生が、部屋を出かかったわたしを呼びとめる。


「……彼、すごいね」


「え?」


「何がすごい、ってちゃんと言葉にはならないんだけど……、あんな風だったらよかったのかな」


「駅員さんのこと、ですよね」


「うん。オレ最初から勝ち目なかったんだね」


 何をもって九重先生がそういったのかはわからなかった。でも。


「だから最初っからそう言ったじゃないですか」


「だね。ごめんね。咲紀ちゃん」


 口調はおどけてるけど、結構これは本気で謝ってるっぽい。わたしは九重先生をじっと見つめて、頷いた。


「……もう、しないんですよね、こんなゲーム」


「しない。誓う」


「許します」


「……ありがとう」


 一瞬顔を見合わせて、わたしたちは小さく笑う。


 そうしてわたしたちは衛藤親子の待つリビングに戻ったのだった。



「栗生さん!! 本当に申し訳ありません。このたびはうちの娘がとんでもないことをッ」


 土下座せんばかりの勢いで早くソファへ、と促す衛藤さんに駅員さんは緩く首を振った。


「……衛藤さん。申し訳ありませんがこうなってしまった以上、全てのお話は白紙にして頂きます。僕が承知していない噂の件についても、です。いいですね?」


「勿論です。今後こちらでも充分な償いをさせて頂きます」


 芝居ではなく、衛藤さんの顔色は本当に悪い。そりゃあそうだ。自分の贔屓にしている演奏家の手を、他でもない自分の娘が刺したとなれば。間違いなく警察沙汰だ。しかも大勢のお客様が集まっているこんな日に。色んな意味で致命的だろう。多分こうしている今も色々と計算しているに違いない。どうすれば穏便に済ませられるのか。


「すぐに車を用意しますので病院へ」


「その前に、お願いがあります」


「なんでしょう。なんなりと」


 どこまでも低姿勢な衛藤さんに、駅員さんは淡々と告げた。


「今日僕がやるはずだった演奏を、樹に任せていただけませんか」


「えっ」


 このとき初めて彼はこの部屋に樹くんがいることに気づいた。当惑したように樹くんを見る。なぜ樹くんがここにいるのか考えているのだろう。


「彼を、ですか」


「そうです。そしてできれば以前と同じようにまた樹の後援をお願いしたいんです」


「そ、それは……」


 さすがに迷うそぶりを見せる。被害者の願いなら一も二もなく承諾しそうなものだけど、ここでも迷うって、いったい樹くんは何をしたんだ!! と本人の頭を激しく揺さぶりたくなる。


「お願いします。本人も深く反省していますし、もしお引き受け下さるなら、ーー今回のことは内々におさめたいと思っています」


 これは、脅しだ。あきらかに。意外と駅員さんも人が悪い。でもそれだけ樹くんが大切だってことなんだろう。駅員さんはいつも自分以外の人のためだったらなりふり構わない。


「樹」


 駅員さんが後ろで居心地悪そうに小さくなっていた樹くんを招き寄せる。


「……」


 ああっ。うしろからハリセンでどついてしまいたい!! というくらいの長い沈黙のあと、樹くんは衛藤さんに深々と頭を下げた。


「申し訳ありませんでした」


 棒読みじゃない、心からの言葉。多分それは衛藤さんにも伝わったはずだった。


「……どうか許してください。どうか、僕に、演奏させて下さい」


「いや、しかし……」


「お願いします!」


 これは今の樹くんの精一杯だろう。上出来だ。困惑していた衛藤さんも、しばらくの間考えていたようだったけど、やがて根負けしたように表情を緩めた。


「わかりました」


「衛藤さん!」


 駅員さんもホッとしたような顔をする。


「わたしも藤間さんのファンですから。これからも応援させて頂きますよ」


 衛藤さんがそういうと、樹くんは一瞬泣きそうな顔をして、もう一度頭を下げた。


「ありがとうございます」


 今この瞬間、確実に樹くんの中で何かが変化したのがわかった。一人ぼっちの王様は、ようやく王様でいさせてくれる人がいなければ王様ではいられないことに気づいたのだろう。


 謝るより許すほうが難しい。——樹くんはさっきの駅員さんの言葉を今正しく理解したんだ。





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