【13】「あげるよ」 2
ゆらりと立ち上がり、万璃子さんはキッ、と千晶さんをにらみつける。視線だけで人が殺せるなら即死だろう。そのくらいの強い憎しみの籠められた眼差し。どうして女はこういうとき、男ではなく女のほうを恨んでしまうんだろう。
「衛藤家の娘としての自覚が足りないんじゃないの。そんなこと許されるはずがないでしょう!」
「兄さんを諦めなくてはいけないことが衛藤家の娘であるということなら……、わたしは家を捨てます」
「この恥知らず! できるわけないわ。苦労なんてしたこともないくせに」
「できます。兄さんと一緒にいられるなら、どんなことでも幸せだと思うから。それにお忘れかもしれませんけど、わたしは衛藤家に来る前まではあなたの言うただの庶民だったんですよ」
にっこりと微笑む千晶さんは、羨ましいくらい綺麗だった。反して、相対する万璃子さんの闇が深くなる。血の気を失ったその震える唇から振り絞るような呪いの声が漏れた。
「これまで育てられた恩を仇で返すというの」
「……お姉さま」
「姉なんて呼ばないで、穢らわしい! 親子揃って男を誑かすのが上手なのね。秘訣を教えてもらいたいくらいだわ」
さっきまでの絵画のような美しさが嘘のようだった。なりふり構わない剥き出しの憎悪。わかったんだ。九重先生が真実誰を好きなのか。
「邪魔してやるわ。絶対邪魔してやるから。あなただけ智巳と幸せになるなんて許さない」
血を吐くような呪いの言葉だった。千晶さんの顔から血の気が失せる。
「あなたに智巳は渡さない!」
「……あ……」
思わず声をあげたわたしを駅員さんが見る。そしてこの瞬間多分全員にわかってしまった。万璃子さんは万璃子さんなりに九重先生に本気だったのだと。ちらりと九重先生を見ると、わかってる、と言った様子で儚く笑った。本当に罪な人だ。
「不倫の証拠なんていくらでもばら撒けばいいわ。そしたらわたしは自由になれる。智巳を選んでも文句なんていわれない。そのかわり千晶、今度はあなたが〝衛藤〟というこの檻の中に囚われるのよ。わたしの代わりにね」
「お姉さま」
悪意という凶器に晒された千晶さんを、九重先生が庇う。それがますます万璃子さんの闇を深くすると知っていながら。
「万璃子、自力で檻を出なかったのは自分の怠惰だと思わなかったわけ?」
「……だ……って、それは、あなたが別れるなって言ったからじゃない。後腐れのない女じゃなきゃ付き合えないって。だから……ッ」
本当に、九重先生は最低だ。どちらにも同情できないけど。
「オレは君に何も求めたことはないよ。……オレから会いたいって言ったことはなかっただろ?」
一瞬万璃子さんの表情がぽかんとしたものに変わり、やがて小さく息を飲むような音が聞こえた。
「だって、あなた平日は仕事で……土日は連絡がとれないから……わたしから前もって連絡取るしかないじゃない。——ほら、わたしの、立場もあるし」
「連絡がとれないんじゃなくて、オレがとらないようにしてただけだよ。本当に会いたければどんなことをしても連絡ぐらいとる」
土日の携帯の電源をオフにする九重先生。唯史ちゃんからそのことを聞いたときには九重先生らしいと思ったけど、その〝らしさ〟はどうしてなのか、何を取り繕うためのものだったのか。考えたこともなかった。九重先生の装う軽さの中に、こんな闇が潜んでいたなんて。
「オレの予定を聞きもせず会えと再三言われるのはうんざりだったからね」
「わたしのこと、好きだって言ったじゃない」
「言ってないよ」
いっそ清々しいほどきっぱりと言い放つ。万璃子さんの表情がショックで歪んだ。
「そんなことは絶対に言ってない。だからこそ君は意地になってオレに執着したんだ。……だからさっき言っただろう? 最初からオレは君のことがとても……嫌いだったんだ」
「もう、わたしとは終わりってことなの」
「最初から何も始まってない」
恋愛してたのは君だけだと残酷にほのめかす。九重先生がしてたのは、恋愛じゃなくて復讐だったんだから。
「嫌よ!」
耳を塞ぎたくなるような万璃子さんの叫び。それを聞きたかったはずの九重先生は無表情のままだ。
「千晶のことが、好きだというの……?」
「……奪われたものを取り戻すだけだ」
「いや、いや、よ……好き、なの……」
強気の仮面の外れた顔で、万璃子さんが呟いた。ぽたりと涙が床に落ちる。
「あなたが好きなの。智巳」
「そう仕向けて、それを踏みにじってやるのがオレの目的だった」
「ごめんなさいっ。あんなことになるなんて思ってなかったのっ。ただ、ただヤキモチを妬いただけだったのよ。だって酷いじゃない。わたしの、わたしだけのお父様だったのに……。だから、ただ軽い気持ちだったのよ、まさか自殺するなんて……」
おおよその経緯をその言葉から察する。千晶さんが自分の子どもではないと知ったという九重先生のお父さん。では、それをどうやって知ったのか。……誰かからの告発だ。それをしたのが万璃子さんだったんだろう。多分本人が言っている通りきっかけは子どもらしい小さな嫉妬。万璃子さんがどうやって知ったのかは知らないけれど、父親が自分以外の娘を可愛がるなんて、彼女には堪えられなかったのだ。だから、相手の夫に密告すれば父と愛人は会えなくなるに違いないと単純にそう考えてしまったのだろう。コドモなりに考えて。——それがどんな結果を引き起こすかなんてまるで想像もせずに。
そもそも悪いのは自分の父親だったのだとしても。彼女のやったことは別の罪になってしまった。彼女の知らないところで。
「全部謝るから。許してもらえるまで謝るわ。それにわたしの悪いところは全部直すわ。だから、だからお願い。もう一度……ッ」
もう、駄目だ。これ以上は駄目。
「わたしを選んで。わたしを抱きしめて。わたしを好きだって言って」
どうか許して、と弱さに震える声も、九重先生にはまったく届かない。
「万璃子」
わたしが動く前に、残酷な引き金が引かれる。
「オレは絶対に君を好きにはならないよ。一生」
刹那、目に見えて万璃子さんの何かが壊れてゆくのがわかった。これは——堪えられない。もう。
わたしはぐっと拳を握りこんだ。
「九重先生。そこまで言う必要ないでしょう。それ以上何か言うつもりなら、わたし先生のこと殴りますから」
本気のわたしに九重先生が苦笑する。
「怖いな。咲紀ちゃん誰の味方なの?」
「わたしは誰の味方でもないです。でも強いて言うならその時自分の心が動いた何かを守りたいと思います」
「それが咲紀ちゃんのプライド?」
プライド、そんな立派なものじゃない。たぶんもっとシンプルで、大切なもの。だけど今はそれに代わる言葉が見つからなくて、小さく頷いた。
「……多分」
「そもそも君の駅員さんが酷い目に遭ってるのは彼女のせいなんだよ? それでも?」
「それでもその仕返しを九重先生にやってもらおうなんて思ってません」
「やっぱり強いね。咲紀ちゃんは」
尊敬するよ、と呆れたようにも聞こえる言葉が紡がれる。多分、本気で呆れてたのかもしれない。
こんな状況で万璃子さんの目の前でなおも九重先生にしがみつく千晶さんに、申し訳ないと思いつつもホンの少しだけ苛々する。ため息をついて二人を纏めてドアへと押しやった。
「もう早く行ってください。二人がここにいると……」
万璃子さんの心がどんどん闇に沈んでゆく。
「咲紀さんッ!!」
どん、と、身体がはじかれた。
「え……?」
なに?
駅員さんの声が聞こえたのだけはわかった。
全てが止まって、目の前でスローモーションのように動く。
な、に?
「真哉、さん?」
まるで自分の声が自分のものじゃないみたいだった。
がたがた、と震えているのはわたし?
それとも……。
万璃子さんが、目の前でナイフを持って立ちつくしていた。あんなのどこから、って思って、さっきまで九重先生が弄んでたオレンジを思い出す。そこにはりんごもあって、果物ナイフが添えられていたっけ。ぽたり、とわたしの視界で何かが零れ落ちた。
赤い。……真っ赤な、駅員さんの、血。嘘。どうして駅員さんがわたしの目の前にいるの? さっきまであっちに立ってたのに。こんな、まるで、わたしを庇ったみたいに。——やだな。頭が動かない。なんなの? 何が起こってるの?
まるで水の底にいるみたいに外の音が入ってこない。
どうして駅員さんの手は真っ赤に染まっているの?
どうして万璃子さんのナイフには血がついてるの。
どうしてわたしの身体は倒れたまま動かないの。
ぐるぐると、視界が回るみたいに意識が回る。
それが突然ぱたりと停止した。
ひ、と小さく喉の奥で悲鳴のようなものが漏れる。それがわたしの何かを一気に決壊させた。
「いやああああーっ!! 真哉さんっ!」
「何の真似だ! 狙う人、間違ってるだろう、万璃子!」
さっきまでとは違う厳しい響きを持つ九重先生の声に万璃子さんがぴくりと反応する。
「違うの、だって、その子が急に」
「……誰を刺すつもりだった? オレ? 随分短絡的だね。言うことを聞かないのなら死ねばいいって、そういうこと?」
「……ち、が……。違う、違うの。わたしが狙ったのは、千晶で……」
「……お姉さま……」
「なのに、どうして」
子どものようにいやいやするように首を振って、万璃子さんは再びぺたりと座り込んでしまった。九重先生が、その手からナイフを取り上げる。その瞬間すがりつくように触れた彼女の手を、残酷に振りほどいて。
「栗生さん、大丈夫ですか?」
平静を装いつつもホントはすごく焦ってるんだろうな、という様子で歩み寄った九重先生に、駅員さんが薄く笑う。
「大丈夫に見えますか」
「……すみません。オレのせいで」
殊勝に頭を下げたところに、
「まったくです。咲紀さんがあの瞬間あなた方の前に立たなければ、黙って見ていたんですけどね」
駅員さんに辛辣に返されて、九重先生はやや苦笑した。
「優しそうな顔をして意外と言うね。それにしてもまずった。ここで君が怪我をすれば当然大問題になるな」
「でしょうね。でも、これは……いいタイミングです」
「え?」
駅員さん。駅員さんが。
「……さん、咲紀さん」
動けなくなってたわたしの顔を駅員さんの心配そうな顔が不意に覗き込む。
「怪我はありませんか」
何言ってるんだろう。
何言ってるんだろう駅員さんは。
怪我をしてるのはわたしじゃない。——わたしじゃないのに。
わたしは何度も顔を横に振って、やっと動いた身体をゆるゆると動かして安心したように笑う駅員さんの腕を掴んだ。
「ばかっ!!」
「……咲紀さん……?」
「怪我してるのは真哉さんのほうじゃないですかっ」
どうしよう。どうしよう。
絨毯にぽたぽたと滴り落ちる血液が、いくつもいくつも染みを作る。
「どこ、ですか? どこ刺されたんですかッ!?」
震える声で詰め寄るわたしの手を、血がついていないほうの手でそっと掴む。
「落ち着いて」
やけにのんびりしている駅員さんに、カッとなって叫ぶ。
「落ち着けるわけないでしょーがっ!!」
「僕は大丈夫ですから」
「だって、でも、血がこんなに……ッ」
「大丈夫ですよ。切られたのは手ですから」
手?
「手-ッ!? 全然大丈夫じゃないじゃないですかっ!!」
駅員さんの手は音楽家の手なのに。普通の手じゃないのに。ううん。普通の手だって、わたしにとって駅員さんの手は特別な手なんだから。全然大丈夫なんかじゃない。初めてわたしはこんな愚かな茶番を計画してしまった自分を恨む。
「かすり傷ですよ。幸い神経は何ともないようですし」
駅員さんはそう言って、暢気に血まみれの手を閉じたり開いたりして見せる。
「バカーッ!! 押さえなきゃ駄目でしょうッ!!」
わたしは駅員さんの手のひらのぱっくり開いた傷口から血がだらだらと流れ落ちるのを見て、慌ててバッグからハンカチを取り出して押さえた。見る間にそれは血に染まる。わたしの手の包帯ごと。
「汚れますから」
距離を取ろうとした駅員さんを掴んで引き止める。
「構いませんッ」
このときわたしの頭からはすっかり、値段聞いたら倒れるわよというあの言葉は吹き飛んでいた。ううん、聞いていたとしても同じことをしただろうけど。
「せっかく咲紀さんすごく綺麗なのに」
い、今っ、そういうこというかっ。怒ってるのに、顔がかっと赤くなるのがわかった。
「いつも綺麗で可愛いけど、特に綺麗な今日の咲紀さんは僕のためですよね?」
ひょっとして出血で、意識朦朧としてるんだろうか、この人は!? 恥ずかしい。恥ずかしいけど、……嬉しい。
「そうですよ。囚われの王子さまを一瞬にして籠絡して強奪する、とっておきの武装ですから」
ぷ、と駅員さんは小さく笑った。痛くないはずないのに。わたしを心配させまいとしているんだ。
「なるほど。強力なはずですね」
とっくに籠絡されてるのに、とわたしにだけ聞こえるように言う。
「……着飾ったわたしなんか、また見せてあげます。いくらでも」
瞬間駅員さんがすごく嬉しそうに笑うから、わたしは照れくさくなって顔を上げられなくなった。ああでもこの高レベルな武装はわたしじゃ無理か? 編集長にあとであそこのサロン紹介してもらおうかな、とか頭の隅で考える。
「約束、ですよ」
もし駅員さんに何かあったら、この場にいる全員を恨んでしまうかもしれない。それは勿論、自分も含めてだ。安心したくてもう一度顔を伏せたまま問いかけた。
「本当に、平気?」
「本当に、平気です」
信じます、と呟いて、そっと傷を押さえているハンカチに触れる。やがて駅員さんが思いもよらないことを口にした。
「……咲紀さん。申し訳ありませんが、会場に戻って佐和さんと樹を呼んできて頂けませんか」
思わず顔を上げていた。
「えっ。樹くん来てるんですか?」
「そのはずです。できればなるべく目立たないように、そっと」
何をするつもりなんだろう。何だかよくわからなかったけれど、わたしはこくりと頷いた。
「千晶さん。あなたは衛藤氏をお願いします。できますか?」
「連れてきます」
さっそうと部屋を出てゆく千晶さんを見送って、駅員さんは綺麗な顔で微笑んだまま、実に物騒なことを呟いた。
「この傷は、高く買ってもらいましょう」
「真哉、さん?」
首をかしげたけれど、とりあえず言うとおりにしようと部屋を飛び出す。ああ、走っちゃ駄目だ、と思い直してスピードを緩めた。できれば目立たないようにそっと、だ。会場に戻ると、すぐに編集長と樹くんの姿を探す。
意外にも最初に見つけたのは樹くんだった。会場の隅にひっそりと影のように立っていた。いつものオーラは全然ない。どこにでもいる拗ねた子どもみたいだった。勿論、タキシード姿は誰よりも堂に入ってるけれど。——その手には当たり前みたいにヴァイオリンケース。まるでそれは彼にとってのライナスの毛布みたいに見えた。きっとものすごく来たくなかったんだろうな、ってすぐにわかった。顔に書いてある。いつぞやの女子大生の言い草じゃないけど、わかりやすく極太マッキーで。
「久しぶり」
歩み寄ったわたしに、少しだけ目を瞠る。そしてきょろりと見回してから。
「……真哉、は?」
「ついてきて」
一瞬何か言いかけたけれど、わたしの顔をじっと見て樹くんはこくりと頷いた。よし。樹くんは確保。あとは、と。編集長を見つけるべく、会場をぐるりと見渡す。
「あ、」
探すまでもなく華やかな編集長は複数の男の人たちに囲まれて、にこやかに談笑していた。本当に、別人かと思ってしまう。
「編集長」
わたしが近づくと、何か感じたのか編集長はすうっと目を細めて、〝失礼〟とハーレムから抜け出てくる。
「もてますね」
「当たり前だろう」
わたしを誰だと思ってる、と言わんばかりだ。にやりと笑って、それから表情を引き締めわたしの血のついた包帯を顎でしゃくる。
「何があった」
顔色をまったく変えないあたりもさすがだ。
「ちょっと、来て頂けますか」
「わかった」
頷いて、行け、と促す。この行動力はぜひとも見習いたい。そうしてわたしは二人を連れて部屋に戻ったのだった。




