【12】「好き」 3
衛藤氏の誕生パーティーは、結婚式場も併設している人気のホテルで人数が一番収容できるという会場だった。さすがだ。普通の人がこんなところで誕生日する機会なんて殆どないだろう。……やりたいとも思わないけど。
それにしても。美女と歩くのは気分がいいなー、なんて思う。タクシーを降りてからずっと、至れり尽くせりの扱いだった。モーゼの十戒みたいに道が開ける。
「すごいですね」
少し先を歩く編集長にそっと耳打ちする。
「何が」
「みんな編集長をみてうっとりしてますよー。わたし美女を連れ歩いていい気分になる男性の気持ち、やっとわかりました」
編集長は呆れたようにちらりとわたしを横目で見た。
「バカ。半分……いや、四分の一くらいはお前だろう」
「はあ?」
「当たり前だろう。慧介の仕事なんだからな」
編集長、それわたしじゃなくて旦那様を褒めてますよね?
そんなバカなことあるはずが、とそっとあたりを見回すと、なんとなくあたりの男性陣と視線がぶつかってはふいと逸らされる。ひょっとして、わたし、どこかおかしい!? 編集長の身体の影に隠れるようにしてきょろきょろしようとするわたしを押しとどめたのはまたしても編集長の視線だった。
「きょろきょろするな。堂々と歩け。安く見られるぞ」
高く見られたことないですー、と内心半べそ状態になるが、とりあえず今日の目的のためにも背筋をしゃんと伸ばす。それでいい、という一瞥に胸を撫で下ろし、慣れないハイヒールに転ばないように、と願う。
「真哉と連絡はとったのか?」
「……メールは、送りました」
そうか、というどう思っているのかわからない声。
「あの、編集長は、真哉さんと連絡とってます?」
「わたしにそんな暇があると思うか?」
それはそうだよねえ。編集長の抱えている仕事はわたしの比じゃない。家にも帰ってる様子はないし、慧介さんは編集長に久しぶりって挨拶してたし。
「と、いいたいが、一度だけとった。確認でな」
何の? と思いかけて、千晶さんとの結婚のことだと気づく。
「なんて言ってたか聞きたいか?」
「いえ。……本人に聞きます」
「それがいいな」
編集長は今日初めてわたしに笑いかけた。いや。入社して初めてだったかもしれない。
そしてわたしたちは、会場に足を踏み入れた。うわ、なんだろう。この数。あまりの人の多さに辟易する。
「さすが衛藤慶太郎だな。自分の誕生日にわざわざ人を集めて祝ってもらって何が楽しいんだか」
異論はないけど誰かに聞かれたらまずいような怖い感想を平気で呟いて、編集長は通りすがりのボーイさんから水割りを受け取っていた。
ええっ!? いきなり!?
「お前も飲むか?」
「え、ええと、水割りはちょっと」
そこにタイムリーにシャンパンを持ったボーイさんが通りかかって、これでいいやと一つもらう。あんまり変わんないか。っていうか、いいのかな、飲んで。ちょっとだけ悩んだけれど、ええい景気づけだと口をつける。美味しい。思わず一気飲みしてしまう。
「いい飲みっぷりだな」
にやりと笑いながらいつぞやの駅員さんと同じようなことを編集長からも言われて、やっぱり酒量を改めるべき? とか思うけど、水割りをぐいぐいいってる編集長に言われる筋合いはない、と思い直す。
そこへ、耳障りな声が響いてきた。
「なあ、今日オジョーサマの婚約発表があるってホントか?」
「あ、オレも聞いた。噂によるとあれだろ? 例のCMのイケメンヴァイオリニスト」
「本当だったらちょっとしたネタだよなー」
「でもそいつ、本職は駅員なんだろ? ガセじゃねえ?」
「売名か」
「かもなー」
会場の隅で、そんな下世話な声が聞こえる。悔しい。駅員さんのことをそんな汚い言葉で穢さないで。グラスを握る手が怒りで震えた。編集長が眼差しだけでわたしを抑える。
「気にするな」
「でも」
「あいつは昔、ああいうのが日常の世界に居た。今更あんな戯言気にしない」
それでも、わたしは気にする。あんなの酷い。本当の駅員さんを知りもしないで。
「一過性のものだ。今は堪えろ」
そうだ。今は別のやることがある。我慢だ。我慢だわたし!! ——でも!!
幸いマスコミの人たちの話題はあっさり最近不倫騒動を起こしている俳優の話に変わった。あれと同じ。個人じゃなくて、あの人たちにとっては駅員さんのことなんか、ただのネタの一つに過ぎないんだ。本気で怒るだけ無駄。無駄なんだ。我慢だわたし!
「……はい」
苦い薬を水無しで無理無理飲み下した、みたいなわたしの顔を見て、編集長はふっと笑って会場を見渡した。
「真哉がいないな」
そうなのだ。さっきから探しているけれど、駅員さんの姿も九重先生の姿もない。千晶さんと衛藤氏は主役だから多分パーティーが始まってからの登場になるのだろうけれど。
もうあとほんの少しだ。もう少しで、駅員さんとも会える。それだけでなんだか胸がどきどきした。
そして。七時ちょうど。
正面の扉が開いて衛藤親子が華やかに入場した。千晶さんのドレスは深い緑。スタイルに自信のある人だけが着こなせるマーメイドタイプ。あれがホントのお姫様だよねえって、ため息をつきながら思う。
会場にいた人々がこぞって挨拶をしようと衛藤氏を取り囲む。なんというか、あれだ。餌に食らいつくピラニア。じゃなかったら生者に群がるゾンビ。あれじゃあ千晶さんに声をかけられるのはいつになることやら。半ば諦め気分でそう思っていると、すっと黒服の人がわたしに近づき、千晶様からですとメモを手渡してくれた。そこに書いてあったのは部屋のナンバーで、ここで一時間後に待っていてほしいとのこと。
いよいよだ。
ひょっとしたらここに駅員さんがいるのかもしれないと思ったら居てもたってもいられなくて。ぎゅっとメモを握りしめて駆け出そうとして落ち着け、と自分に言い聞かせる。とりあえず編集長に一声かけてから行こうと思ったら、獲物を見つけた肉食獣のようにとある一人の青年に声をかけているところだった。あっ、あの人知ってるっ。今年最年少で**賞にノミネートされて惜しくもとり逃した作家さんだ。ナイーブだけれど実にしっかりした文章を書く人で、新作が気になる一人。——さすが編集長。こんな時でもチャンスは逃さない。参戦すべき? いや、ここは編集長にお任せすべきだろう。うん。邪魔をしないほうがいいと判断して、わたしは遠目にその様子をみやりながら残ってたグラスの中身をくーっと空けた。
「お一人ですか」
どうしようかな、と手持ち無沙汰にグラスを弄んでいるところに声が振ってくる。——えーと、知らない人だよね。きょろりとあたりを見回すが、どうやら間違いなくわたしに声をかけてきたらしい。
「連れがいます」
「じゃあその方が戻るまでお話しても?」
にこやかに笑って、わたしの返事を待たずに問答無用で話を続ける。強引だな。
「衛藤さんとはどういったお知り合いですか?」
「あー、わたしはその……千晶さんの友人で」
「そうですか!! だと思いました。お美しい人にはさすがお美しいご友人がいらっしゃるものですね。気づいてますか? さっきから周りの男たちがあなたに声をかけたくて仕方がない様子だ」
「は?」
えっと。ここ日本だよね? 目の前にいる人も間違いなく日本人。本気で言ってる? ドラマでも今どきないような非日常的な言葉に反射的に吹き出してしまいそうだったけど、なんとかこらえる。目の前の男性は何というか見るからにお金持ちー、なボンボンだった。自分の立場に自信があって、用意された確実な明るい未来に何の疑問も持たないタイプ。多分いつものわたしにだったら絶対声をかけないはずだろうなって何の含みもなくそう思った。
さすが魔法の力はすごい。
「よろしければ後で一曲踊っていただけませんか」
「え? 踊る?」
マジでここは舞踏会ですか。世の中そんなにダンス踊れる人がいるんだろうか。ひょっとしてわたしが知らないだけで一般常識なの? せいぜいマイムマイムとか学校で踊ったフォークダンスしか知らないんだけど。無理無理無理無理っ。踊れない!! 片足どころか両方の靴をなくしてしまいそうだ。
「ごめんなさい。怪我をしてますので」
わざとらしく包帯を見せつけてみる。多分、一般的にはカッコいいんだろうなあ。この人。でもあいにく、と言っていいのかどうか。わたしは駅員さんや唯史ちゃんや九重先生を見慣れてしまっている。そんなわけで、ごく普通の男の人にしか見えない。
自分が声をかけても舞い上がらないわたしに、少しだけ勝手が違うなって思ってるのが伝わってきた。
「怪我を?」
そっと包帯を巻いてある手に触れてこようとしたその手を、やんわりと避ける。
「あ、はあ、ちょっとヒビが」
「なんということだ。可哀想に。酷く痛みますか?」
まるでわたしが不治の病だって聞いたみたいな顔をする男性にちょっと……いや、かなり引く。
「いや、そんなには」
いちいちオーバーリアクションな人だ。それはよかった、となんだか背筋がぞわぞわしてしまうようなエセっぽい微笑を浮かべて、「シャンパンのお代わりはいかがです?」と聞いてくる。
「え、あ、もういいです」
そう言わずに、とその人は空っぽだったグラスを取り上げて、新しいシャンパンを手渡してくれた。
「普段僕はこういったパーティーはあまり好きではないんですが、今日は来てよかった。……貴女に会えたから」
それ以上はやーめーてーっ。ここ笑うところだよね。あーもー、机をバンバン叩きながら大声で笑ってしまいたいっ。現実に真顔でこんなこと言えちゃう人がいるんだなあ。笑いそうになる口元を必死で堪える。けどッ、肩が、肩が震えるっ。
「寒いですか? ひょっとして気分でも悪い? 実は部屋をとってあるんです。もしよろしければ……」
は!? びっくりした瞬間にはわたしの手からグラスを取り上げてテーブルに置き、慣れたエスコートでわたしの腰を抱いて歩き出す。
ちょっと待った!! よろしくないっ。よろしくないよっ!! バカだわたしっ。面白がってないでさっさと退散しておけばよかった!!
「あ、あの、待って下さいっ。わたし……ッ」
その時、ふわりと身体が浮いて、くるりと身体が回ってぽふっと別の人の腕の中に抱き寄せられる。そして、頭の上で声が響いた。
——夢にまで見た声が。
「わたしの連れが何か?」
一瞬、その声が信じられなかった。
駅員さん!! 駅員さんだ!! 見上げて顔を見たかったけれど、なぜかがっちりと押さえられてて身動きがとれない。
「連れ?」
わたしを拉致ろうとした男の声が聞こえる。自信に溢れていたさっきまでとはぜんぜん違う、何かを取り繕おうとして失敗している情けない声。
「あ、でも連れは女性だったんじゃ」
「何か?」
「あ、いや、その……僕は彼女が具合が悪そうだったので部屋で休ませてあげようと……あ、別に他意はなくて」
「そうですか。それはご親切にどうも」
駅員さんの口調は柔らかいのに相当高圧的な声だ。こんな声は初めて聞いた。ううん。待って。二度目。あれは、金田に釘を刺したときの声に似てる。
「行こう。咲紀」
不意に名前を呼ばれてどきりとする。それは暗にわたしを自分のものだと相手に知らしめてるみたいですごく嬉しかったけど、同時にマスコミの存在を思い出してひやりとした。そんなわたしの思いをよそに、わたしの無事なほうの手を掴んで容赦なくざかざかと歩き始めた駅員さんを追いながら、待って待ってと呟く。
そこへ、恐れていた声が聞こえてくる。
「おい、あれ例のヴァイオリンのヤツじゃねえ?」
途端に冷水をかけられたような気持ちになる。
どうしよう。
「ホントか? くそっ。顔確認し損ねたな」
「一緒にいるの誰だ? あれオジョーサマじゃないよな」
……マズイ。
「ってか、イイ女だなあ」
「だなー」
えっ。
そんなこと言われたことないからびっくりしたけど、いやいやそんなことに気をとられてる場合じゃないからっ。
「どうする? 声かけてみるか?」
「どっちにだよ」
「どっちかってーとオンナの方に声かけたいけど、仕事だからな」
「でも間違って声かけたらまずいぞ」
「だよなー、お披露目まで待つか」
「し、真哉さんっ。手、離して下さい。こんなところマスコミに……ッ」
「構わない」
立ち止まらずに、冷たいほどの声が聞こえてくる。
やっぱり、怒ってるんだ。しゅんと打ちひしがれる心を無理矢理立て直して、マスコミの人が見えなくなったところで掴まれた手を振りほどいて立ち止まった。
「だけど……」
「僕が咲紀さんに会いに行かなかったのは、マスコミに咲紀さんの存在が知られて余計な迷惑がかかるのを恐れたからであって、恋人がいることを隠したかったわけじゃない」
こんな時なのに、わたしは久しぶりに見る駅員さんに見惚れてしまった。燕尾服にルーズなオールバックのその髪型は駅員さんの端正な顔立ちをノーブルに引き立てている。真っ直ぐにわたしを睨むように見つめる駅員さんは、怖いほどカッコよかった。——でも、痩せた。最後に会ったときよりも。
居たたまれず顔を伏せたわたしの手を再び掴んで歩き出す。
「し、」
「もう黙って」
拒絶の背中に何もいえなくなる。やっぱり振られちゃうんだろうか。
怖い。
このまま手を振りほどいて逃げてしまいたい。それでも掴まれた場所から伝わる温もりが嬉しくて、わたしは部屋に到着するまで黙りこくったまま大人しく手を引かれたのだった。
部屋に入ってからもわたしたちは黙ったきり、リビングに立ち尽くしたきり、そして手は掴まれたままだった。いたたまれず思わず部屋を見回してしまう。贅沢な部屋だ。ふかふかの絨毯。一目で高いんだろうなあと思われる調度品の数々。センターテーブルには、カサブランカをメインにした大きなフラワーアレンジメント。奥にきっとベッドルームとかがあったりするんだろう。この部屋だけでもわたしの見たことのあるホテルの部屋の3、4倍はある。
つくづくわたしって庶民なんだなあ。と情けなくなった。普通のホテルの部屋じゃない。なんとなく衛藤家での駅員さんの立場が透けて見えた気がして、不意に落ち着かなくなった。
「真哉さん」
振り返らない背中にそっと呼びかける。返らない言葉にも心が萎えそうになってしまったけれど、そこはぐっと我慢して小さく息をついた。
よし。頑張れわたし。
わたしは手を掴まれたまま駅員さんの正面にまわった。
「あの、」
見上げると、駅員さんの顔に浮かんでいたのは怒っているような悲しんでいるような、色んなものがないまぜになったようなそれで。ぎゅうっと胸が締め付けられる。
「怒って、ますか?」
こんな沈黙は耐えられない。いっそすぐにも終わってしまえばいいとも、永遠に続けばいいとも思う。自分でも相当情けない顔をしてるんだろうなってわかる。自分でも思うよりずっと、わたしの中駅員さんでいっぱいなんだ。
駅員さんはそっとわたしの左手を持ち上げた。怪我してるほうの手。わたしよりも痛そうな顔をして、口を開く。
「痛いですか」
「あ、いえっ。もう全然。大丈夫です。わたし頑丈だから」
てっきりギプスだとばかり思っていた手首は、一人暮らしを考慮してか、それとも意外に軽かったのか、固いテーピングのようなもので固定されているだけだった。でもよかった、と今は思う。あまり大げさなことになっていたら、駅員さんの心に更に負担をかけてしまったかもしれない。
わたしが勝手にやったことで。
「咲紀さんは……僕が、怒っていないとでも?」
その冷たい声に、無意識に手が震えた。はっきりと言葉にされるとやっぱりツライ。ごめんなさい、と口にする瞬間、
「……ッ!!」
一瞬痛みが走るほど強く怪我をしていないほうの手首を掴まれて、なんで? と思う間もなくそのまま抱きしめられる。息が止まるほど、強く。
「し、しん、……」
真哉さん、と呼びかけようと顔を上げたところにぶつかるように唇が重なった。最初怒りそのままの、乱暴なくらいだったそれが、やがてゆっくりと、わたしがここにいることを確認するかのような愛撫に変わる。
怒ってる、って、言ったのに。嬉しくて大声で泣いてしまいそうだった。
「ッ、ん、ふぅ、う、」
唇の形をなぞるように舐められて、薄く開いた口腔内にするりと舌が入り込む。お互いに熱を分け合うような激しい口付けに、束の間酔わされた。このまま溶け合ってしまいたいと思うほどの最中、残酷に駅員さんが囁く。
「怒ってますよ。とてもね」
言っている内容とは反して、その声音は蕩けるように優しくて、わたしはただ溺れるみたいに駅員さんにしがみついた。好きだと、言われたみたいだった。足に力が入らなくなったところを、駅員さんの腕がしっかりと抱きとめて、なおも罰だと言いたげな深いキスが続く。
呼吸の合間に、喘ぐように「好き」と呟いた。
返事の代わりに再び重ねられた唇は、まるでもう離さない、と口移しでわたしの身体に覚え込ませるかのようで。
わたしの頬を涙が伝った。




