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駅員さんの恋  作者: 高藤みずき
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【1】「一目惚れって信じる?」 3



 わたしはこれまで虫歯知らずで、歯医者さんにお世話になることは殆どなかった。歯医者が嫌いな子は必ず「あのキーンっていう音が嫌なんだよね」という話していたけれど、体験してなくてもそれは嫌なものなのかなとかちらっと思っていたわたしは自分の認識が甘かったことを知った。音なんて気にしている余裕はなかった。洗い物ならなんとかなりそう、なんて簡単なものじゃなかった。めちゃめちゃ大変だったのだ。あっという間に積み重なってゆく洗い物、次から次へとやってくる患者たち。セットも間に合わない。途中見かねたいずみさんたちが手伝ってくれなかったら、どうなっていたかわからなかった。嵐のようだった。


 ため息をついて、ようやく終わった洗い物を滅菌器に入れてスイッチを押す。夕方前に、ぽっかり空いたインターバル。唯史ちゃんたちも休憩に入っているようだ。


「結構大変でしょう?」


 くすくすと笑いながらいずみさんが声をかけてくれる。


「はあ。ちょっと考えが甘かったです」


「でも動きは悪くないからすぐに慣れるわ。優先順位がわかるようになれば大丈夫」


 本当に優しい。気配り上手な素敵な人だ。確かに自分でも動きに無駄が多いとは思った。何度ぶつかりそうになったことか。


 そういえば今日のお昼は初日だからと唯史ちゃんがお弁当をおごってくれた。近所の手作り弁当屋さんの一番人気は確かにおいしかった。小夜さんと、敦子さんが手作りのお弁当で、他はみんなお弁当屋さんだった。お弁当か。節約にはなるけど当分は無理かも。あ、でもおにぎりだけとかなら可能かな。


「そうそう。お昼のことだけど更衣室によくお昼を頼むところのメニューがあって、朝どこに頼むか決めるの。それで午前中十一時くらいまでに何を頼むか頼まないかそれぞれホワイトボードに書いておくのね。それで余裕のある人が先生たちにも希望も聞いてお昼に持ってきてもらうように頼むんだけど、咲紀ちゃんも慣れたらよろしくね」


「はい」


 そんな余裕できるときがくるんだろうか。十一時といえば、今日わたしが一番いっぱいいっぱいだった時間だ。そんな顔をしたわたしの表情を読んで、いずみさんが笑顔を向ける。


「仕事は滞る前に、声をかけること」


 滞る方が迷惑をかけるからだ。前の会社でも経験がある。


「はい」


「今日はまだいいほうよ。患者さん少ないし、全員揃ってるし、技工物少ないし」


「技工、物? って、なんですか」


 わたしの問いかけに、いずみさんはあれ、と指差す。その棚には色んな歯型が並んでいた。


「歯に銀色の被せたり詰めたりするのがあるでしょう? 削ったあとの歯の型をとって、固めたりしなきゃいけないから」


「ああ」


 空気が入っちゃいけないとか、色々面倒なのよ、と教えてくれる。


「取引先の歯科技工士さんが、朝までにポストに届けてくれるのよ。急ぎのときは直接持ってきてくれるの。瀬名さんって人で若いけど腕は確か。今度来たとき紹介するわね」


 キャパが、キャパがそろそろやばい。愛想よくはい、と答えながら、今夜は反芻することいっぱいで、眠れるのかなとこっそり心配になった。あまりにこの仕事は、わたしが今までやってきたものとは違いすぎる。


「ゆっくり丁寧に、じゃなくて、手早く丁寧にやれるようになれば大丈夫。あ、そろそろ後半組が来る時間ね」


 四時四十五分。


 そのタイミングに併せたように、玄関のドアが勢いよく開いた。


「ゆきくんサイテー。それ絶対騙されてるって」


「ええ、そうかなあ?」


「そうだよ。賭けてもいい。絶対浮気してるね」


 な、なに? 思わず耳がダンボになってしまいそうな会話と共にギャル系の女の子と、男の人だよね?という華奢な男の人が入ってくる。靴を持って慣れた様子で更衣室に向かってくるのをみると明らかに患者さんではない。


 ええと、この人たちが?


「浮気……してるのかなあ」


「してる」


 そのあとからばたばたと愛嬌のある小さくてぽっちゃりした女の子が入ってくる。


「いいタイミング。紹介するわね。三人ともいい?」


 不思議そうな顔で三人がわたしの目の前に並んだ。


「今日からうちで働く咲紀ちゃん」


「か、川野辺咲紀ですっ。よろしくお願いします」


 一瞬最初に入ってきた女性と男性が顔を見合わせ、お互い指差しあって笑った。


「「噂の!」」


 ええっ、またっ?


「あ、あたし久保田里美。よろしくねーっ。本当は昼からなんだけど、今日は半日お休みもらったの。明日はお昼から来るね!」


「僕は藤島紘雪ふじしまひろゆきです。よろしくお願いします」


「里美ちゃんが社員で藤島くんがバイトよ。里美ちゃんが後半の受付担当です。それから短大生でバイトの、」


「津田優美子です。よろしくお願いしますっ」


 みんな感じのいい人だ。ホッとして、よろしくお願いします、ともう一度頭を下げた。


「じゃあ、咲紀ちゃん。今日はもう上がっていいわよ」


「え? いいんですか?」


 てっきり今日は最後までいるものだと思っていたから、びっくりして問い返す。いずみさんはゆったりと頷いた。


「患者さんもキリがいいし、初日だもの。心配しなくても前半組はわたし以外もう帰るし」


 わたしは六時まで、といずみさんが教えてくれる。そっか社員さんだからかな。前半後半関係なくフルで働く唯史ちゃんたちは大変そう。


「えー! 帰っちゃうんですかー?」


「ざんねーん」


「残念だなあ」


 あからさまにがっかりしてくれる三人に、歓迎されてるみたいで嬉しくなる。がっかりされないように頑張らなきゃ。そう思ってるところにいずみさんが声をかけて来る。


「咲紀ちゃん、明後日は後半組で入ってみる? 一通り仕事わかっておいたほうがいいと思うし」


「やってみたいです。いいんですか?」


「歯科助手と受付とバイトの子のシフトの管理はわたしが任されているの。明後日は藤島くんが休みだから後半に入ってもらえると助かるわ」


 見ると、藤島くんが申し訳なさそうな顔をする。なるほどそういうことか。


「はい。よろしくお願いします」


「あー残念、だったら僕明後日来ようかなあ」


「あれえ? ゆきくんも浮気ー? いいね! 反撃だね! あたし彼女に言っといてあげようか」


「あ、そ、それはー」


 藤島くんに里美さんがすかさず突っ込む。いいコンビだな、この二人。


 くすりと笑う。


「みんな、そろそろ予約の患者さんが来るから準備してね」


 いずみさんの言葉にみんな時計を見る。わたしもそろそろ帰らなきゃ。そういえば藤島くんは更衣室どうするのかな、と思ったら先生たちの控え室に入って行った。そりゃそうか。


「じゃあ、失礼します」


 いずみさんに頭を下げる。緊張してるから今はそうでもないけど、間違いなく疲れてるはずだ。明日の円滑なお仕事のためにも、お言葉に甘えて今日は帰ろう。手早く着替えてタイムカードを押し、靴と荷物を持って更衣室を出る。


 そうだ。唯史ちゃんにも挨拶して帰らなきゃ。先生たちの控え室をノックする。


「どうぞ」


 柔らかな唯史ちゃんの声が聞こえて、〝失礼します〟とドアを開けた。中にいたのは唯史ちゃん一人だった。


「お疲れ様。疲れただろ。どうだった? 今日やってみて」


「うん。大変だったけど、みんないい人だね」


「だろう?」


 嬉しそうに蕩けるように微笑む。わたしもつられてへにゃりと笑った。


「じゃあ、明日もよろしくね。……咲紀が来てくれて嬉しいよ」


 屈託のない笑顔と甘い言葉にどきっとする。これだ。これがタチが悪い。


「ありがと。こちらこそよろしくお願いします」


 ぺこりと頭を下げたわたしの頭に温かな手が乗せられる。


「少し落ち着いたら歓迎会やるから」


「……うん」


 こんなに優しくて素敵なのに、伯母さん経由で伝え聞こえて来る唯史ちゃんの元カノの数は片手で足りるのが不思議だ。長く持たないのも。もてるだろうに。優しすぎるから、かな。彼女なら自分にだけ優しくしてって思っちゃうかもしれない。わたしもこの優しさが自分だけに向けられているものだと勘違いしてた時期もあった。免疫のない子供には毒でしかない。わたしは確かに唯史ちゃんの特別だったけど、妹としての特別だってことに長らく気づいてなかったんだ。今では黒歴史。


「今度一緒にメシ食いに行こう」


「唯史ちゃんの奢りで?」


「当たり前」


「うん。待ってるね」


 わたしが彼氏と別れたの、誰にも言ってないから知ってるはずないのにやっぱり優しい。罪な人だ。ぽっかり開いたところに沁みる。


「じゃあ、今日は帰ります。お疲れ様でした。お先に失礼します」


「うん。気をつけて」


 出かかったとき、危うく九重先生にぶつかりそうになる。


「っと。あれ? 咲紀ちゃんもうあがっちゃうの?」


「はい。お先に失礼します」


「そっかー。もうそんな時間か。ご苦労様」


 唯史ちゃんと同じようにわたしの頭を撫でて、入れ替わりに部屋に入っていく。やっぱり謎な人だ。そんなことをちらりと思いながら、医院をあとにした。


 疲れた。


 まだそんなに遅い時間じゃないけど、さすがに今日はこれから帰ってご飯作るの面倒だなあ。そんなことを思いながら重たい身体を引きずってようやく自分の駅に降り立つ。


 ああ、そういえば朝爽やかな駅員さんがいたっけ。駅員さんって何時間勤務? さすがにもう上がっちゃったかな。なんてぼんやりと考えて改札を抜ける。買い物をするなら左。外食するなら右。悩むわたしの目の前に、ふとほんのりライトアップされたセピア色のちょっと見にはわからない看板が目に入る。あー、これは夕暮れて来ないと気づかない感じ。


 ビアバー? ビールがメインなら食べるものも置いてあるかな。お酒は好きだし、お一人様もむしろ好き。頑張ったわたしに祝杯、というのは悪くないかも。そう思ったときにはもう、古びた感がイイ感じのその扉を開けていた。





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