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駅員さんの恋  作者: 高藤みずき
39/56

【11】「会いたい」 2



「疲れてるみたいだね」


 久しぶりのテンペストのカウンター席。織田さんがわたしの目の前にことん、とロンググラスを置く。


「これ、何ですか?」


「シャンディ・ガフ」


「ビール、ですか?」


「ビールベースのカクテル。ジンジャーエールのビール割り」


「へえ」


 そんなのあるんだ、とわたしはそれに恐る恐る口をつける。


 気持ちジンジャーエール多目。でも思ったよりは甘くなくてさっぱりしている。使ってるのが普通の——普段わたしが飲んでいるジンジャーエールとはちょっと違うみたいだ。辛めで強酸。うん。久々のお酒としてはいいかも。そして目の前に熱々のパスタが運ばれてきた。アンチョビとバジルのパスタと、野球ボールを半分に切った大きさくらいのとうもろこしの自家製パン。


「美味しそう」


 召し上がれ、と柔らかく微笑まれ、カトラリーからフォークを取り出して巻きつける。はふはふしながら頬張ると、少し癖はあるけれど真っ先に胃が喜ぶ。


「おいしー」


「よかった」


 両手が使えないので行儀悪く直接パンに齧りつく。優しい甘みが広がった。美味しい。食べ物が美味しいってことは大丈夫、ってことだ。


「え、と。織田さん、真哉さんに最近会いました?」


「一昨日だったかな。食べ物届けたよ。ふて寝してた」


「嘘。真哉さんが?」


「そうそう。あいつ咲紀ちゃんの前ではカッコつけてるけど意外と子供なんだよ」


「え……可愛い」


「はいはい。ご馳走様」


 おっと、今わたし脳から言葉が駄々漏れだった!! 慌てて口を押さえて、お酒を流し込む。


「会いに行かないの?」


「……今はまだ」


「嫌いになった? あいつ面倒くさいしな」


「まさか!! 大好きですよ!!」


 本日二回目の無意識の大ノロケ。でも、そこはぶれない。


「わたしが、嫌われちゃうかも」


「あいつが? まさか。それはないない」


「真哉さん、何か言ってました?」


 わたしの不安そうな眼差しに、織田さんはイタズラっぽく笑ってみせる。


「あいつはオレに弱音なんか吐かないよ。吐くとすれば咲紀ちゃんにだけ」


「で、しょうか」


「オレあいつと付き合い長いけど、あーんな人目もはばからず誰かを好きなの全開にしてるの初めて見たし」


 なんだか聞いてるだけで頬が熱くなってくる。照れくさくて、嬉しくて。やだな。ますます会いたくなっちゃう。


「まだマスコミが張り付いてるから出かけられないぶん、あれは相当きてるな」


 そこに、お店のドアが開いて妙に明るい声が響いた。


「ホントだ。いたいた」


「……九重先生……」


「勝手に出歩いちゃ駄目でしょ」


「唯史ちゃんには言いましたよ」


「うん。だからここに来たわけだけど」


 そう言って、わたしの隣りに当然のように座る。一瞬にして営業モードになった織田さんがカウンターから出て来て、いらっしゃいませ、と九重先生のコートを預かり、流れるような動きでおしぼりとお通しのじゃがいもとパンチェッタのソテーを九重先生の目の前に置いた。


「何になさいますか」


「じゃあ、ギネスのスタウト」


「かしこまりました」


 何も言わないからこそ織田さんが今どう思っているのか気になる。ここには来て欲しくなかったな。このお店は大事な場所だから。


「いいお店だね」


「ええ。……それで? 何かご用ですか?」


 そこへビールがやってきて、九重先生はわたしのグラスにそれを触れさせて勝手に乾杯するとぐっと飲んだ。


「ん。うまい。……まだみたいだからせっつきに」


 やっぱりか。わたしは目の前のグラスのふちを指でそっと撫でた。


「オレにする?」


 九重先生の手がわたしの手に伸びる。あと少しで触れる、というその時、その手が止まった。携帯の音。九重先生のものだ。


「ちょっとごめん」


 ジャケットの内ポケットから携帯を取り出して、外へ出てゆく。


「あれ、誰?」


 すかさず織田さんがやって来て、囁く。


「……真哉さんを助けてくれる歯医者あくまです」


「え?」


 その歯医者さんが、やや青ざめた様子で戻ってくる。


「どうしたんですか?」


「ごめん。ちょっと野暮用ができて。帰らなきゃならなくなった」


「そう、ですか。気をつけて」


 九重先生はわたしの分も会計を済ませて去っていった。それを見送って、ぐーっとグラスを飲み干した。


「咲紀ちゃん、何か嬉しいことでもあったの?」


「え?」


「カオ、笑ってる」


「ホントですか?」


 ぺたり、と自分の頬に触れて、小さく頷く。また諌山先生に企んでる顔してるっていわれちゃいそうだな。


「……うん。多分もうすぐ、あるんです」



    *+*



「おはようございますー」


「川野辺!! もう大丈夫なのか?」


 お言葉に甘えて一週間休ませてもらったあとの久々の会社は(諌山先生のところには毎日通っていたけれど)何となくよそよそしい感じがした。でも本気で心配そうに出迎えてくれた庄司くんにそれもすぐに払拭される。


「うん。ありがと。迷惑かけてすみませんでした」


 と言って深々と頭を下げた。入社早々一週間も休むなんて迷惑にもほどがある。嫌味の一つも言う権利あると思うのに、庄司くんはまるでなんでもなかったみたいにわたしの肩をぽん、と叩いた。


「ま、あんまり無理すんな」


「庄司くん……」


「心配しなくてもこき使ってやるよ。あ、そうだ。川野辺来たら編集長が起こせって言ってたぞ」


「ホント? わかった。行ってみる」


 ああ。ホント庄司くんってイイヤツ。席に荷物を置いて、編集長のスペースを覗き込むと、ソファに布団に包まった物体が目に入った。


「へんしゅーちょー?」


 恐る恐る声をかけるが身じろぎ一つしない。起こせっていうんだから、起こしたほうがいいんだよね? そっと近づいて、最初は軽く、どんどん激しく揺さぶる。これでも無反応なのか!


「おはよーございますー」


 呼びかけながら寝起きどっきりか、と苦笑した。さて、これでも起きないとなるとどうするかと思ったところへ携帯が鳴り響く。一瞬自分のかと思ったら編集長のだった。何の変哲もない呼び出し音が編集長らしい。


「……もしもし」


 のろのろとしどけなく上がった腕が携帯を手探りしてようやく見つけ出す。


「んー? は? なにそれ」


 一瞬にして芋虫状態だった編集長が、がばっと起き上がり、殺気だった眼差しを空中に向ける。


「冗談じゃないわ。認めないわよそんなの」


 この喋りかたは編集長モードではない。


「とにかくストップさせて。これから……ああ、今日はダメだわ。明日行きます。朝一で」


 怒りに任せて電話を切る。な、なになに?


「お、おはよーございます」


 なんだかぴりぴりと編集長を取り巻く空気から激しく火花が散っている気がして、そろーりと挨拶する。


「……新人」


 今初めてわたしの存在に気がついた、という視線を向けて、編集長は一瞬何とも表現しがたい顔をした。今は会いたくなかった、みたいな。


 ええっ。わたし何かしましたか!!


「おはようございますっ。お休みを頂き申し訳ありませんでしたっ」


 先手必勝、とばかりにまたしても謝る。そうして、ほんの少しの沈黙の後頭から降って来た声はもういつもの編集長のものだった。


 ニヤリと不敵な。


「出勤してきたってことは、今この瞬間から容赦なく使われるということだ。覚悟してきたか?」


「はいっ!!」


「お茶」


「はいっ」


 キッチンに走りこむと、既に庄司くんが濃いお茶を用意していてわたしに持っていくよう差し出した。なんという気の利く男だ。


「ありがと」


 零さないように片手でトレイを持って、なんとか辿り着く。編集長は、ぐしゃぐしゃのままの頭を掻きながらパソコンに向かっていた。


「お茶です」


「ん」


 片手でそれを受け取り、ずずっと啜る。


「真哉と会った?」


 下がろうとしたわたしにだけ聞こえる音量で、叔母モードの声がかけられる。わたしは足を止めて小さく首を振った。


「……いえ」


「そう。じゃあ、知らないのね」


 探るような、気の毒そうな、そんな眼差し。わたしはイヤな予感にごくりと息を飲み込んだ。


「何を、ですか」


「真哉と衛藤千晶さんの結婚が決まったそうよ」


 ああ。思った以上にこれは……くる。わたしはカラカラになった喉から搾り出すように言葉を口にした。震えるな。わたしの手。——声。


「そう……、ですか」


 今の声、わたしの? 何の感情も無い、乾いた声。編集長はそんなわたしに少しだけ目線を上げて、すぐに落とした。


「戻っていい」


「はい」


 一礼して自分の席に戻ろうとしたそのとき、先刻までの空気を払拭して、〝編集長〟が引き止める。


「例の件。なんとかなりそうか?」


 諌山先生のことだろう。……この間までのわたしだったなら〝わかりません〟って応えてたと思う。


 でも今は。


「なんとかしたいと思ってます」


「わかった」


 もう用は無い、とパソコンに視線を移した姿が告げていた。わたしはのろのろと自分の席に戻り、FAXの文書類をチェックして、それぞれ担当の机に置く。緊急そうなものは編集長に渡すことになっていたけれど、ざっと見たところそういうものはなさそうだった。


「大丈夫か?」


 向かいから庄司くんが気遣わしげに声をかけてくれる。


「うん。……大丈夫……」


 じゃない。何が大丈夫だ。全然大丈夫なんかじゃないくせに。本当は大丈夫なんかじゃない。今すぐ駆けていって駅員さんにしがみつきたい。


 でもここは職場だ。わたしは仕事をするためにここにいる。切り替えろ。


「早退してもいいんだぞ?」


「ううん。平気。今急ぎの仕事ある?」


 できれば片手でできそうなやつ、というのは言わなくてもすぐに承知してくれたようだった。さすができる男。


「……うちの小説大賞の下読みがあるけど……」


「やるやるっ。面白そう」


「結構大変だぞ」


 うんざり、という顔をして、庄司くんは足元のダンボールを一つわたしのところに運んでくれる。


「読んだ後大雑把にABC評価して分けてって」


 欄外に自分の名前と評価書き込んでけって見本の用紙を見せてくれる。


「え? わたしが? いいの?」


「川野辺なら大丈夫だろ。これはまだマシだぞ。この数になる前にさらに下読みに出してるからな。ここにあるのは一応〝読める〟作品だ」


「え? ってことは〝読めない〟のも来るの?」


「年齢制限してないからな。文章破綻はあたりまえだし、作文ならまだしも、未完でくるのもザラだ」


「未完んー?」


 いいのか? それ。ぼーぜん、としたわたしに、庄司くんがこくりと頷く。


「最後に〝つづく〟と書いてある。まあ、よっぽど面白けりゃアプローチしてもいいんだが、たいていは駄作だな」


「……厳しい」


「当たり前だろ。万が一にも才能がないヤツを選ぶわけにはいかない。それはお互いに不幸だからな」


 それは、そうだ。選べばその人は作家になる。作家になる以上ずっといい作品を書き続けなければならなくなる。その力がなければ消えてゆく。選ばれた事実に縋ったまま。


 それはとても不幸なことだ。


「俺たちがAに選んだ作品を編集長たちが読んで更に絞って、最終選考まで残したものを審査員が読む」


「それって責任重大じゃない」


「まあな。迷ったら保留にしろ。俺も読む」


「わたし、全部審査員が選んでるんだと思ってた」


「バカ。審査員の顔ぶれ見てみろ。そんな暇あると思うか? 応募作品は何千ってくるんだぞ」


「だよねえ」


 山櫻社の小説大賞審査員にノミネートされているのは、確かに5人とも名のある作家さんたちだ。新作を出せは10位内に入るのは間違いなくて。人のものを読んでるよりまず書いてくれ、と思われる人ばかりだ。


「時々拾いもんもある。勉強にはなるから」


「わかった」


 本が好きな人間にはもってこいの仕事だ。しかもわたしは結構読むの早い。それに読んでいる間は何も考えないですむ。悩まないですむ。


「あ」


 なぜだかふと、唐突に思い出す。


「どうした?」


「ねえっ。伊吹って覚えてる? あの子、創想出版入ったんじゃなかったっけ?」


「伊吹……? 名前までは知らないけど誰か入ってたよな。でも確か配属されたのは文藝じゃなくて雑誌とか聞いた気がするぞ?」


「このさい部署が違ったっていいよ。噂くらい聞けるでしょ」


「守秘義務、あると思うけどな」


「そこを何気なくさりげなく聞くんじゃない」


 確か伊吹は真面目だけど流されやすくて押しに弱い素直ないい子だったから、ちらっと何か聞くことは可能かもしれない。それなしでも久々に会いたいし。あ、でもしまった。携帯は九重先生のとこだった。誰かに聞くか。


「便利は不便、不便は便利、か」


「なんだそれ」


 不意にわたしが呪文みたいに呟いたものだから、庄司くんが怪訝そうな眼差しを向ける。


「知らない? シェイクスピア。……なんかさー。しみじみ便利は人間を劣化させるよなーって。昔電話番号なんて必要なの全部覚えてたのに」


「老化か?」


「失礼な!! わたしがそうなら庄司くんだってそうでしょ」


 同級生なんだから。


「いいからとりあえず、仕事しろ」


「はーい」


 わたしは心の中の何かに無理矢理蓋をしながら、ダンボールを片手で開けて、一番上にあった作品を取り上げた。


 仕事ははかどった。バカみたいにはかどった。それだけ今のわたしにとって忘れたいことが多いのかっていう証明みたいに思えて、やり切れなさに自嘲的な笑みを浮かべる。〝適当なところで帰れよ〟と庄司くんが帰っていったのはもう一時間以上前のこと。読み終えた作品に、んー、と悩んで〝C〟判定をつけて処理済の箱に入れて立ち上がった。もう、帰ろう。終電にはまだ間に合う。


 会社にはまだ残っている人が何人もいて、この建物の中だけはあまり今が深夜だってことを感じさせない。


「お先に失礼致します」


 声がけして荷物を持って会社を出る。そしてそこに九重先生の姿を見つけて、立ち尽くした。この間からストーカーみたいだな、この人。全然そういう熱量がないから違うってわかってるけど。


「九重、先生」


 掠れたような声を出したわたしに、仕事帰りだろうにいつもながらオンオフのはっきりした素敵プライベートスタイルで、わたしに向かって微笑む。


「お疲れ様。咲紀ちゃん」


 でも、微笑の形だけだ。目は笑ってない。


「お疲れ様、です」


 そして、愛車の助手席のドアを開けて促す。


「乗って?」


 有無を言わせぬその口調に、足が後ずさる。


「……あの、わたしは電車で」


「いいけど。これ乗らないと問答無用でゲームオーバーにするよ。いい?」


 思わず唇を噛んだ。九重先生の目にいつもの余裕がない。ちりちりと嫌な予感がしたけれど、ここで断るのは難しい。ため息をついて、観念したように車に乗り込む。脳内では危険信号点滅中だ。


「で。千晶に何を言ったの? 咲紀ちゃん」


 車が発進してすぐ、いつもの口調を装いながらもまったく違う温度で言葉の刃が放られる。内心ひやりとしたものの、そ知らぬ顔で応えた。


「何の話ですか?」


「とぼけても駄目。今回の話、咲紀ちゃんが絡んでるんだよね? でなきゃおかしい」


「だから、何の話だか全然わからないんですけど」


 いきなりキュ、と車が停止する。目の前を見ると信号が赤だった。


「……そ」


 どうでもいいことみたいに投げやりな呟きがため息と一緒に聞こえた。


「ならいますぐ賭けを果たしてもらおうかな」


「え?」


「この間負けを認めたよね? だから今日咲紀ちゃんを抱く」



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