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駅員さんの恋  作者: 高藤みずき
38/56

【11】「会いたい」 1




 ドアが開いて、待ち人がやってくる。わたしは立ち上がって軽く頭を下げた。それで呼び出したのがわたしだということに気づいたんだろう。そのまま真っ直ぐに一番奥のわたしの席までやって来る。わたしなら絶対汚してしまいそうな真っ白なコートに同じく白のフレアスカートで現れた彼女は、わたしの姿を認めるとわずかに目を瞠った。


「今日はお呼びだてして申し訳ありません。来て頂いてありがとうございます。千晶さん」


「あなた……」


 翌日わたしはなんとか諌山先生からの宿題を半徹くらいで終えて(出来はともかく)、講義の前の空き時間に駅からは少し離れたカフェに千晶さんを呼び出した。勿論呼び出してくれたのは唯史ちゃんだ。


 わたしがあの日唯史ちゃんにお願いしたのは、九重先生の弱点を教えてもらうことだった。


 あの日のやり取りが不意に脳裏に蘇る。




「お願いがあるの」


「珍しいね。咲紀のお願いなんて」


 笑みを含んだその言葉が、優しく先を促す。


「九重先生の弱み、知ってる?」


「……そりゃあ、もう」


 付き合い長いからね、と言われて、だからこそ弱点を聞いたのに、そこではたと馬鹿なこと聞いちゃったな、と天を仰いだ。


「ごめん。忘れて」


 わたしの指先が唯史ちゃんの服から離れた瞬間だった。「千晶だよ」と、内緒話みたいに小さな答えが聞こえた。


「え?」


「智巳にとっては彼女が僕にとっての咲紀かな」


「ええっ?」


 そ、それって、まさか。


「智巳の弱点」


「どうして教えてくれるの」


「言ったろ? 僕は智巳の友達だけど、咲紀の味方だって」


 本当ならば絶対他言しないはずのその友達の弱点。今回だけは何か唯史ちゃんにも思うところがあったのかもしれない。思わず涙ぐむ。やだな。最近ホント涙腺が緩いぞ。


「……ありがとう。唯史ちゃん」


「どういたしまして。いつまでも咲紀にそんな顔でいてほしくないからね」


 うわ。こういうとき、そんなに優しくするの反則です!


「うん」


「智巳も千晶も、ちゃんとケリをつけるべきなんだ」


「ケリ?」


「そう。そろそろ二人とも馬鹿なことはやめて、ちゃんと前に進めるように」


 その小さな呟きに、やっぱり九重先生には何か事情があるんだ、と思った。何にもないのにこんなゲームやってたらただじゃおかないけど。ううん。でも。どんな理由があろうとも、人の気持ちを好きにする権利なんてない。悪いけどそれ相応に痛い目をみせてやる。


 ——反撃開始だ。


「えと、唯史ちゃん、千晶さんの連絡先って知ってる?」




 そんないきさつからの今日だった。正直こんなに早くセッティングしてもらえるなんて思わなかったけど、多分早ければ早い方がいい。


「先日、お会いしましたわね」


「川野辺咲紀と申します」


 お互い座りながら相手の様子を窺う。高そうなコートを脱いで千晶さんが座る仕草はさすがに優雅だけれど、その目には不審そうな色が濃い。まあ、当然か。わたしと同じ紅茶を頼んで、おもむろにわたしを見つめる。


「あなた、唯史さんとはどういうご関係なの?」


「新堂唯史は従兄です。少し前までにこにこデンタルクリニックで働いてて」


「にこにこデンタル……そう」


 気のせいか? 今何か含みが感じられた気がする。


「それでなんのご用? わたくし忙しいの。あまり時間はないのだけれど」


「あ、はい」


 何だか敬語が浮いてるなあ、と思った。この間もそれは思ったんだけど、まるで、無理にお嬢様しているみたいな。そう。ちょっと使い慣れてない感じがするんだ。矯正された感じ。


 それにしても、だ。じいっと、不躾を承知で目の前の綺麗な顔を見つめる。この間から気になってたんだけど、この顔どこかで……。


 あっ!!


「す、すいません。ひょっとして千晶さん、お姉さんがいたりはしませんか?」


「……おりますけど。それが何か?」


 ビンゴだ。わたしはこの顔に覚えがある。多分リサイタルで千晶さんに会っていたからそう思っていたのだ。あの日、九重先生がこっぴどく振った例の人妻さんは、千晶さんによく似ていた。千晶さんをもう少し大人にして、落ち着いた華やか美人にするとあの人だ。


 わたしは単刀直入に斬り込んだ。


「九重先生を知ってますよね?」


 静かな戦いのような沈黙。やがて意を決したように千晶さんがその綺麗な唇を開く。


「知っているけど、なぜ?」


「お願いしたいことがあって」


「……お願い?」


「唯史ちゃんから千晶さんは九重先生にとっての弱点だって聞いたんです。……そう、なんですよね?」


「どうかしら。そんなことはないと思うけど」


「無関係、ってことはないんですよね?」


「——ええ、そうね」


 千晶さんは逡巡するようにしばらく俯いていた。何を考えているのかわからない。だけど、先日見たときの我が儘そうで傍若無人なお嬢様っぷりは嘘みたいに、今そこにいるのは迷子のように心細そうなただの普通の女の子に見えた。


「……九重智巳はわたくしの……兄です」


「え、お兄さん!?」


 たっぷりの躊躇いのあと放たれた意外な言葉にびっくりした。悪いけどどっこも似てない。勿論どっちも美形には違いないけど。ええ? じゃああのお姉さんはなんだ? 九重先生あの人と付き合ってるっていってたよね? いや。付き合ってた、か。千晶さんと兄妹ならあの人とも兄妹だよね? 姉弟? いや、どっちにしろそれって……!


「母が、九重の父と再婚して生まれたのがわたくしです。兄は九重の父の連れ子だったのですわ」


「……えーと?」


「九重の父が亡くなって、母は今の父衛藤慶太郎の後妻に入ったんです」


 はーなるほどー。と、納得しかけて。納得出来ないことに一つ気づいた。じゃあどうしてお姉さんと千晶さんが似ているの? 多分わたしは千晶さんのこと食い入るように見ていたのに違いなかった。


 千晶さんはわたしの眼差しの意味を正確に読んで〝姉をご存知なのね〟と笑った。


「いいわ。教えてあげる。わたくしの母は九重の父と結婚しているときから衛藤の愛人をしていたの。つまりわたくしは九重の父の血は引いていないのよ」


「……」


「それが知りたかったんでしょう? 唯史さんに言われたのよ。全部教えてやってくれって。冗談じゃないと思ったけど、……兄のためだというから。……ねえ、本当に、兄のためなんでしょうね?」


「はい」


「……なら、いいのだけれど」


 俯く千晶さんの顔がほんのりと赤い気がする。……あれ?


「千晶さん、ひょっとして九重先生のこと」


 好きなの? そんな問いを敏感に察して、千晶さんはやってきた紅茶を誤魔化すように口に運ぶ。


「悪い?」


 うん? でも戸籍上は義理の兄妹で……でも血は繋がってなくて……? うん。それは全然悪くない。悪くないけど……。それって兄として? 男として? 


 どうして九重先生はあんな風に捻じ曲がっている?


「千晶さん、栗生真哉さんのことはどう思ってるんですか?」


 ひょっとしたらこれが一番聞きたかったことかもしれなかった。千晶さんは少し考えてカップを置いた。


「わたくしの理想的な結婚相手だと、父は思っているわ」


 その言い回しにホッとする。


「じゃあ、あなたにはその気はないんですね?」


「いいえ?」


「え? だって、九重先生のこと……」


「好きよ。でも仕方ないじゃない。どうにもならないわ。兄は兄だし、それに兄は——わたしたちを恨んでるんだから」


 あ、言葉が砕けた。多分こっちが地なんだ。そんなことに気をとられながらも、千晶さんの物騒な言葉に一瞬思考が停止する。


「恨んでる?」


「そうよ。だって九重の父は、わたしが自分の子どもじゃないと知って自殺したんだもの」


「自、殺」


 そう、と千晶さんの口調に暗い翳りが宿る。


「もしあなたがわたしの立場だったとして、それでも好きだなんて言える?」


 それは……厳しいかもしれない。でも。そうか、とようやくなんとなく腑に落ちた気がする。九重先生がどうして女を試すのか。どうしてあれほどに何かを信じたがっているのか。


「でも、好きなんですよね」


「だから?」


「千晶さんの好きがどんな好きでも構いません。救いたいと思いませんか。九重先生を、闇の中から」


「闇?」


 あの日の九重先生の言葉が蘇る。


〝母が妹と一緒に住んでる。父親は死んだ〟


 本当に恨んでいるのなら、自分の中で妹はともかく、母親の存在消すタイプなんじゃないだろうか。九重先生。うん、それにそんなに簡単にその存在をぽろっと口には出さないはずだ。忘れられないのは確かなんだろう。でも、それは——。


「九重先生を救えるのは多分あなただけなんだと思います。千晶さん」


「……わたし、だけ?」


「そうです」


 だから、協力してくれませんか?


 わたしは、千晶さんが頷くことを確信して、その答えを待った。


 やがてぽつりと小さな呟き。


「……いいわ」


 わたしは心の中でぐっと拳を握った。


      *+*


「なに、その企んでるみたいな顔」


 千晶さんと会った後、珍しくわたしを出迎えた諌山先生がいきなりそんなことを言う。わたしは、むう、と口を尖らせた。


「毎日毎日人の顔観察するのやめてもらえませんか、諌山先生」


「だったらいつも勉強する顔で来たら?」


 それってどんな顔……。身体を開けてわたしが通れる幅を作って部屋に招き入れてくれる。いつもなら未来さんが出迎えてくれるのに珍しい。


「あの、未来さんは?」


「今日はお休み。だから自分で飲み物淹れて」


「はい」


 何度か片付けを手伝っているからキッチンに何があるかはわかってる。


「先生は? 何か飲みますか?」


「じゃあ僕の一番飲みたいものを」


 これも授業の一環だろうか、と星の王子様を頭の中で思い巡らせる。


「……井戸水なんてないですよ」


 王子様が見つけた、飲みたかったもの。当たり前だよ、と先生は呟く。


「今どき飲料水にできる井戸水なんてこのへんにはないよ」


 ふーん、と先生を一瞥して、ミルクとお砂糖たっぷりのピーチティーを淹れた。わたしのはストレート。


「どうしてこれ?」


「お疲れのようでしたし、コーヒーはもう充分足りているようでしたし?」


 ローテーブルにも本棚にも缶コーヒーが置いてある。何個か置いてある先生用のマグカップに入っていたのはコーヒーだった。インスタントコーヒーが一番簡単だからかな、と推察する。いつも未来さんはコーヒー以外を淹れてるし。


「おいしいですか?」


 優雅にカップを口に運ぶ先生を見て問いかける。諌山先生は一口飲んでかすかに眉を上げた。


「まあまあ」


「えーっ、結構美味しいと思うんですけど」


「まあまあっていうのも僕としては随分おまけした評価だと思うけどね。そもそもこれ、カップとポットを温めてない」


「え、あ」


「お湯は沸かしたてじゃないし、しかも水は水道水」


 細かい。そう思ったけど顔には出さない。


「言ってくださいよ……」


「基本人に淹れてもらったものに文句をいう気はないから」


 言ったじゃないですか! という言葉は飲み込む。おいしいですか? と聞いたのはわたしだ。聞かなければ我慢して飲んでくれたんだろう。……その優しさ、わかりづらいです。


「次は気をつけます」


「で? 何を企んでるの」


 だから人聞きが悪いっての、と思ったところで電話が鳴る。諌山先生はいたって面倒くさそうに電話をとった。


「はい諌山です。……え? いますけど、あなたは」


 諌山先生の視線を感じて首を傾げる。なんだろ。わたし? 会社かな。


「川野辺さん電話。栗生さんって人から」


 びくっと全身が震えた。駅員さん!? 駅員さんがどうして!?


 考えられるのは編集長だ。わたしの携帯は取り上げられてしまっているし、あの日以来駅員さんに連絡していない。何とかして連絡とろうとしてくれるのは当たり前かもしれない。怪我の様子とか、逆の立場なら気になる。どうしよう。声は聞きたい。死ぬほど聞きたい。でもここで電話に出れば、そしてそれが九重先生に知られれば自動的にゲームオーバー。わたしの計画は全部無駄に終わる。


 大丈夫、知られるはずないって。——心のどこかが囁く。


 でも。


「出ないの?」


 諌山先生に受話器を差し出され、ふるふるっと首を左右に振る。


 出られない。


「待ってて下さいって伝えてください」


「自分でいいなよ」


「絶対に諦めないで下さい。わたし絶対に行きますから」


 すうっと息を飲み込んで、大きな声で言い放つ。


「囚われの王子様を助けに」


 聞こえた、かな。これは、話したことにはならないよね。独り言。そう! 独り言だ。たまたま誰か聞いていたとしてもそれは不可抗力だろう。諌山先生はあからさまに嫌そうな顔をしたまま、再び受話器を耳に当てた。


「もしもし? 聞こえました? はあ? お断りします」


 ガチャリ。


 ええっ!? 今先生あっさり無情に電話を切ったけど!! 駅員さんが何か言ったんだよね? おろおろと手を彷徨わせる。


「い、諌山先生、今栗生さん何て言ったんですか?」


「気になるなら自分で電話して聞いたら?」


「そ、それはできないんですってば!!」


「じゃあ諦めるんだね。電話に出なかったのは君だ」


 ひ、酷すぎる。そりゃあそうだけど。悪いのはわたしだけど! じとっと上目遣いに諌山先生を見上げると、そ知らぬ顔で本を開いたところだった。繊細な指。第一ボタンまでしっかり留められたシャツの襟元から覗く細い首。フランス文学なんか専攻してるくせに、恋愛に淡白そうなそれってどうよ!!


 いや。偏見だけど。


「あ、ひょっとして伝言聞く前に切っちゃったとか」


 あの流れならそれもありうる。それでも充分酷いけど、それでもこれ以上先生に食い下がらないですむわけだ。しかし先生は本から視線を上げずに〝いや〟と呟く。


「言ってた」


「なんて!?」


 必死なわたしに、諌山先生はしばらく黙ったあとふい、と顔を背けた。


「言いたくない」


「なんでですかあっ」


「あんな伝言人から聞いたって意味がないから」


「そんなのっ、わたしが判断することじゃ」


 なおも食い下がるわたしに、〝それは違う〟と紅茶を飲み干して、おかわり、と空のカップを差し出す。


「同じのでいいんですか?」


「紅茶ならなんでもいいけど」


 つまり、暗に違うのがいいと言っているわけですね!! わたしはわかりました、とカップを持ってキッチンに向かう。


「わたし一応けが人なんですけど」


「僕が怪我させたわけじゃない」


「そうですけど」


「大丈夫だから座ってて、とか言って欲しい? そういうタイプにはみえないけど」


 そりゃあそうだ。間違っても先生にお茶を淹れさせるなんて真似はさせられない。今度は冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して、それを沸かす。同じ失敗はくり返さない。ちゃんと今度はポットもカップも温める! さっきの茶葉を捨てて洗い、次は何を淹れようかと紅茶専用の棚を見る。買っているのかもらっているのか、紅茶が主食なんだろうかってくらいめいっぱい紅茶の缶が並んでる。


 紅茶の葉だって劣化するのは早い。これ全部消費しきれるんだろうか。確か未来さん手前が古い茶葉だって言ってた。フォートナムメイスンに日東紅茶。フォションにマリアージュフレール。ウエッジウッドまである。他にも初めて見る缶がずらりと並んでいた。紅茶の缶って可愛いなあ。さっきのはうちの近所にもあるルピシアだった。次は何がいいだろうか。フォションの缶を開けると、爽やかで品のいいりんごの香りがした。桃のあとりんご、ってイヤかなあ。


「先生って優しそうに見えて意外と意地悪ですよね」


「優しくした覚えもなければ、優しそうに見せた覚えもないけど。勝手にそんなことを言われるのは迷惑」


 まあ、そうだ。わたしから見た一方的な印象だし。


 でも、先生の作品は。悲しいほどの優しさに満ちていると思う。あんな作品、優しくなきゃ書けないと思うんだけど。文章には人柄がにじみ出るって言うし。


「性格が悪くないと小説なんか書けないよ」


 わたしの考えてることなんかお見通しとばかりの言葉が投げられる。


「それって偏見じゃないですか?」


「君は悪人だけが殺人を犯してると思ってる?」


 また一気に飛ぶなあ。


「書きたいことを詰め込むだけならそれは日記だ。作品にはなりえない」


「そうでしょうか。書きたいことを書いてそれが共感してもらえればそれはもう作品じゃないですか?」


「じゃあ君は、共感してもらえなければ作品ではないと思うの?」


「そんなことは言ってません。日記だって充分作品になりうるという話です。たとえばアンネの日記みたいに」


 あれは別に読み手を意識したものではない。でも、充分に読み手の心を震わせるものをもった作品だ。


「そんな風に後世まで残る作品なんて、殆どない。小説なんて単に読み捨ての娯楽にすぎないよ」


「そんなことありませんっ!!」


 わたしの中の何かに火がつく。思わず台所から紅茶の缶を手にしたまま飛び出して、本をかき分けながらソファに気だるそうに座っていた諌山先生の横に仁王立ちする。もともとわたしは討論ふっかけられたら受けて立つタイプだ。特に本が絡むと一気にヒートアップしてしまう。さすがの江ノ上もわたしには本絡みの話はしなくなったくらいだ。


「そりゃあそんな人もいるかもしれませんっ。でも本好きの殆どは本がなきゃ駄目なんですっ。本がご飯みたいに。先生だって本を読み始めると寝食忘れるタイプでしょうっ。わたしもです!!」


 この手が自由ならぐっと握り拳だ。


「僕の場合は殆ど仕事なんだけど……まあいいや。続けて」


「読み手にこの本が後世に残るか残らないかなんて関係ありません。自分にとってどうか、だけです。中には自分の人生左右する本だってあります」


「……それは危険だね」


「いいじゃないですかっ。影響を与える人が生身の人か紙越しかの差だけですよ!!」


「読者は作者を知らないのに?」


「関係ないです」


 響くのは言葉だ。紡いだのは勿論作者だが、この際作者の人間性は読者には関係ない。


「著作権は勿論作者のものですが、本自体は世に出た以上読み手のものです。煮て焼いて食おうが自由なんです」


「……本を?」


「先生が心底悪魔な人間でもいいんです。その作品が好きなんですからそれはそれ」


「……悪魔」


「そうです! 先生が本当に意地悪な人でも無表情な人非人でも!」


 頭の片隅で、あれ? わたしひょっとして今先生に凄いひどいこと言ってるかな、と思いつつもとりあえずスルー。


「そういうもの?」


「そりゃあそうですよ!! 先生だってないですか? 読みながら気持ちがせいてページを捲る手ももどかしいほどの作品。そしてあと少しで終わってしまうと思うと切ないような早く終わりが知りたいようなそんな宝物みたいな本」


「——あったかな」


「本好きなら一冊はあるはずです」


 今の間はある証拠だ。諌山先生は眼鏡に触れながら眉を顰めた。


「論点、ずれてない?」


「ずれてません。そういった本は作者がそうしようと思って書いたわけではないと思うんです。勿論そうなればいいな、という思いはあったかもしれませんけど。……諌山望海の本はわたしにとってそういう本です」


 初めて諌山先生はハッとしたような顔をわたしに向けて、再び一頁も読み進んでいない本に視線が落ちた。


「先生の本には何か〝祈り〟のようなものを感じました」


「祈り?」


「はい。誰かの幸せを祈るような。だからかな。読み終わった後、なんだか心が温かくなるんです」


「……気のせいだよ」


「いいんですっ。先生だって言ったじゃないですか。〝その本から何が得られるかなんてことは、読んだ人にしかわからない〟って」


 ため息のような吐息が、先生の方から聞こえた気がした。


「間違いなく先生の本はわたしにとって後世にまで残したい本です。だってわたしの人生変えちゃったし」


「え?」


「わたし先生の本に出会ったとき、大失恋したんですよ。一生ものの恋だと思ってたんですけどね。でも、その人にとって運命の人はわたしじゃなかったんです。……子どもなりに真剣で。その時は本気で死んじゃってもいいって思ったんですけど」


「幾つのとき?」


「十六歳。だから……六年前ですね」


「六年前」


「そう。わたし先生の本全部初版で持ってますよ」


 それはそれは、となんの感慨もなく呟いて、諌山先生は「お茶は?」と無表情に問いかけてくる。


「あ、すぐ持ってきます」


「それ淹れるならストレートで。蒸らす時間は少し少なめにしてくれる」


「わかりました」


 フレーバーティーは普通何分目安、なんだっけ? あ、確か葉っぱにもよるんだった。これは細かいセイロンだから、一分とか、一分ちょっと。つまりそれより少なめを希望ってことか。


 今度は言いつけどおりに沸かしたてのお湯と、ポットとカップを温めておく。一分弱ならスピード勝負だ。何だか紅茶淹れてるんじゃなくてラーメンでも作ってる気分になる。わたし絶対お嬢様にはなれなさそうだ。優雅とは程遠い感じで教えられた手順どおりに淹れてゆく。


 先生からはそのまま何の言葉もない。わたし、何か失言しただろうか。無理矢理先生に書かせようとかそういう気はなかったんだけど。結果そう聞こえてしまったのだとしたら不本意だ。


 カップに紅茶を注ぐと鮮やかなくらいのりんごの香りが立ち上る。それをトレイに乗せて片手で持ってゆく。ますます筋肉痛が酷くなりそうだ。


「どうぞ」


 無言のままそれを受け取り、口にする。うん、と小さく頷いたところをみると今度はまあまあ合格点だったらしい。


「君が読んだのは、『幻影』?」


 幻影というのは勿論『幻影図書館』だ。六年前に先生の本といえばそれしかありえない。


「そうです」


「あれが君の人生を変えたの?」


「はい」


「どうして?」


「えーと、主人公がどこに何の本があって、全部の内容を知っている館長さんに言うじゃないですか。『すごいですね。ここにある本の中身全部覚えてるんですか』って」


 一瞬先生が軽くむせて、ちょっとだけ睨むようにわたしを見る。


「まさか全部覚えてるわけじゃないよね」


「まさか。だと良かったんですけど、残念ながら好きなシーンだけです」


「残念ながら、ってなに」


 それでも買った当時は毎日読んで、ぼろぼろになってしまったためにもう一冊買ったくらいだ。今でも年に一度は読み返している。


「で、館長さんが言うんですよね。『僕はただ完成されたものを読むだけ。本当にすごいのは、まだ輝いてもいないたくさんの中から本物を見つけ出して世に送り出す編集者の方じゃないかな』って。だからわたし編集者になりたいって思ったんです。一生の仕事にしようって」


 恋を忘れて、だ。子どもだったと今ならわかるけど、必要なきっかけだった。あの時のわたしが前へ進むための。


「きみ、単純……」


「どーせ単純ですっ。作家になりたいなあって思った時期もあったんですけど、どうも一から創作するってことに決定的に欠けてて。でも昔からいい本を見分ける目には自信があったんですよ」


 普段図書館オンリーで、あまり本を買わないわたしが厳選に厳選を重ねて初版から持っている本の作家さんたちは、今や全員名だたる人ばかりだ。勿論すごいのは作者本人と、そういう人を見つけて世に送り出した編集者さんなわけだけど。


「祈りはもう必要なくなったんだ」


「え?」


「川野辺さん、さっき言ったでしょう? 確かにあの本は祈りのために書いた本だ。でも今は必要はなくなった。だからもう書かない」


「そんなのもったいないですっ!!」


「はあ?」


「世界の損失ですっ。宝の持ち腐れですっ。怠慢ですっ。先生は書けるのに。すごいの書ける人なのに。どうして書かないんですかっ」


 暑苦しいほどのわたしの憤りに、諌山先生は小さく息をついた。


「それは僕の勝手だと思うけど」


「駄目ですっ!! 先生は書かなきゃいけないんですっ。星の王子様みたいに、ずっと先まで残る本が書ける人なんだから」


「見え透いたお世辞なんていらない」


「お世辞なんかじゃないですっわたしそんなに器用じゃありませんし」


 もどかしい。どうやったら伝わる? どうやったらもう一度この人に書いてもらえるんだろう。あの、美しいこの人だけの世界を。


「作家は〝絆を結んだものには永遠に責任を持つべき〟です!!」


 ずるいけどって思いながら、星の王子様の力を借りる。諌山先生は肩をすくめて口端でちらりと笑う。


「そんなに読み込んでいるならもう僕から学ぶことは何もないんじゃないの」


「いいえ。だってわたしは星の王子様を通して〝諌山望海〟という人が知りたいんですから、まだ全然です」


「動機が不純」


「仕方ないです」


 先生の顔を覗き込んで、不敵に笑うつもりが、ついにへらと笑ってしまう。


「どうして」


「だってわたし、先生の熱烈なファンですから」


「しつこいね」


「それだけが持ち味ですから」


 諌山先生はいかにもなるほどねって顔でわたしを見て、ぱたりと本を閉じた。


「じゃあ僕も賭けにのろう」


「……は?」


「君のオトモダチが賭けに負けるほうに賭ける。勝ったらなんでも一つ川野辺さんの言うことをきくよ」


 この場合のオトモダチというのはつまりわたしのことだ。


「わたしが、負けたら?」


「負けるつもりなの」


「いいえ!!」


「……なら、負けたときは僕の下僕ということで」


 げ、下僕って!? 作家先生の考えることはいまいちわからない。


 でも。ひょっとするとこれは先生流の励ましなのかもしれない。


「ありがとうございますっ」


「なに。下僕になりたいってこと?」


「まさか。……やる気、でました」


「頑張るのは友達でしょ?」


「でしたね」


 本気? フリ? わざとなら本当はすごく優しい人なんだ。


 読みたい。今の諌山先生の描く世界を。わたしは今ようやく本気でそう思ったのかもしれなかった。



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