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駅員さんの恋  作者: 高藤みずき
35/56

【10】「さよなら」 1



 途中の本屋さんで星の王子様を首尾よくゲットして、うっかり読みふけりそうになりながら無事に会社に戻ってくる。危うく乗り越しするとこだった。危ない。


 わたしの姿を見て、編集長がわずかに眉を上げた。


「どうだった?」


 問われてちょっと怯む。どうだったもなにも……。今日のところはひとまず挨拶といったところだ。わたしは〝何で戻ってきたー!!〟と怒鳴られたらどうしよう、と思いながらも経緯を説明する。


「書くと言って貰えるまで帰ってくるな、と言いたいところだけど。まあ初手はそんなとこだろ。感触はどうだった?」


「まだ、わかりません」


「ふん。……まあそのままやってみろ。——新人、ゲラの校正はできるか?」


「やります」


「じゃあ庄司から受け取って」


「はい!」


 ぎりぎり、及第点だったのかな。出した企画書みたいに。ちょっとホッとして、わたしは庄司くんのところにやってくる。


「お疲れ。すごいな」


「なにが? すごくないよ。会いにいっただけだよ?」


 やや庄司くんの口端が上がる。


「すごいだろ。二日目でいきなり仕事取りに行くの任されたわけだから」


「へ? 誰にでも、じゃないの?」


 あの問答無用さ加減からいって、こんなこと日常茶飯事で、余程手が足りないのだろうと思っていた。庄司くんは少し嫌そうな顔をする。


「あるわけないだろそんなこと。俺なんか最近ようやく外に出られたんだぞ。しかもまだ殆どパシリがいいとこだ」


「嘘」


 庄司くんは見た目でちょっと損してるけど優秀だ。なのに?


「たまたま、じゃない?」


「いや。そこは素直に褒められとけ。俺も負けねえし」


「……うん。ありがと。でも本当に今回のは諌山先生だったから、だと思う」


 なんだろ。失敗したら辞めさせよう、とか? でもせっかく雇った社員を今どきそんな簡単にクビになんか……するか。いや。とにかく今は悪いことは考えないっ。目の前のことを一生懸命やるだけだ。


 お前の席ここな、と庄司くんの左隣りを示されて、座った途端に電話が鳴る。マナーとして一回のコールでとるのが普通だ。そしてそれは新入社員の最初の仕事だろう。だけどタッチの差で庄司くんに負ける。


 くうっ。全敗。


 電話応対もしているくせに、わたしよりも何倍も早く山のような校正をどんどん終わらせてゆく。そんな彼を横目に見ながら、庄司くんを外に出さないのはこの天才的ともいえるデスクワーク能力の高さゆえのことなんじゃないかと、わたしはここ数時間の観察で推測した。


 そうして、夕方の人が多くなってからの電話。またしても素早くとった庄司くんは「お待ちください」といって、ちらりとわたしを見た。


「電話」


「へ? わたしに?」


「九重さん」


 九重なんて苗字の知り合いは一人しかいない。なんで会社に。わたしはありがとう、と棒読みで応えて電話をとった。


「もしもし? 咲紀ちゃん?」


 やはり電話の相手は九重先生で。うっかり声が尖る。


「……何の御用でしょう」


「うーん。相変わらず気持ちいいほど冷たいね。そろそろオレに会いたいんじゃないかと思って」


「誰がですか」


「咲紀ちゃんが」


「誰に」


「オレに」


 脱力しかけてやめる。


「勘違いだと思いますけど。申し訳ありませんが今仕事中ですから」


 切りかけたところへ〝待って待って〟と声がする。苦々しく舌打ちして再び受話器を耳に押し当てた。


「何ですか」


「……咲紀ちゃん、困ってるんじゃない? いや、正確には彼が、かな」


 頬がひくりと震えた。なんでそれを、九重先生が言う?


「九重先生には関係ないと思いますけど」


 うん関係ないけど、と羽よりも軽い言葉とともに、「でもね」と続く。


「なんとかしてあげられると思うよ?」


「……え?」


「このままじゃ多分彼はクビだよね。その首を繋いであげるし、駅の人々も散らしてあげられると思うけど、どう?」


 思わず受話器を握りしめた。よく考えろ、わたし。これが現実的な話? そうだよ。一介の歯医者さんにそんなことできるもんか。これは揺さぶりだ。タチの悪い揺さぶり。


「ああ。オレ、ただの歯医者さんじゃないからね?」


 わたしの疑問なんかお見通しって感じでそんなことを言う。


「仮にそれが本当だとしても、〝タダ〟じゃないんですよね?」


 不穏な雰囲気を察したのか、庄司くんがこっちに注意を払ってくれているのがわかる。


「さすが咲紀ちゃん、察しがいいね」


 いや。この場合馬鹿でもわかるだろう。ずっとこのタイミングを待っていたんだろうから。


「勿論君がオレの手をとること。それが条件」


「……寝言は寝て言ってくださいね」


「断っちゃっていいの? 後悔するかもよ?」


「九重先生を選ぶ以上の後悔なんてあるんですか?」


「あるでしょ。そりゃあ。……答えは保留にしておいてあげるから。いつでもおいで」


 唯史ちゃんと同じ言葉を口にしながら、その内容は随分と違うものだ。わたしが切る前に含んだ笑みを残して電話が切れた。どうしてわざわざ会社に電話して来たんだろう……と考えてそういえば携帯の電話もメールも無視していたことを思い出す。


 しばらくそれを見つめて……受話器を戻した。


「川野辺、大丈夫か?」


「え? あ、うん。大丈夫。ありがとう」


 九重先生を頼る可能性など皆無だとわかっているのに、この胸のもやもやはいったいなんだろう。悪魔の囁きみたいに、その日いつまでも九重先生の声が不吉に響いていた。


      *+*


 もやもやを抱えながらも次の日早速個人授業をして頂きに大学へやってきたわたし。当然会社の業務を終えてから編集長に許可を取ってやってきたのだ。夕焼けの色に満ちてゆく研究室はなんだか文学的だった。


 しかし始まってすぐに「なんなのかな」とぱたりと本を閉じて、諌山先生はわたしを見つめた。メガネの奥のその瞳は色素が薄い不思議な色をしている。


「え?」


「昨日より暗いよね。明らかに。それともそれが地なの」


「暗い、ですか?」


 思わず顔に手をやった。普通にしてるつもりだったのに! 駄目だ。こんなんじゃ。仕事にプライベート持ち込むなんて最低。昨日帰宅前に駅員さんに都合が悪くなったから今日はごめん、といわれたのがショックだったのだろうか。……勿論それだけじゃなくて電話の向こうに女の人の声がしたからだけど。多分あの声は千晶さん。だから事情はわかってる。わかってるけどとても冷静でなんていられない。駅員さんを信じてるとか信じてないとかそういう問題じゃなくて、ただ不愉快。


 それでも、仕事には絶対持ち込まないようにしようって思ってたのに。


 今日の授業部分、王子様に大切にされているバラがまるで今の千晶さんみたいだ、と思ってしまったからだろうか。諌山先生聡すぎます。


「すみません」


「別に謝って欲しいわけじゃないよ。愉快でもないけど」


 そこでタイミングよく未来さんがロイヤルミルクティーを持ってきてくれる。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


 諌山先生もわたしの向かい側のソファに腰を下ろしてカップを取り上げた。


「星の王子様で好きなシーンは?」


 またいきなりだ。この先生のペースがいまいちわからない。それでもわたしは素直に考えて答えた。


「やっぱりありきたりですけど、キツネの」


 地球にやってきた王子様は、あちこちを彷徨う。そんなときキツネと出会うのだ。遊ぼう、と誘う王子様にキツネは言う。遊ばない、と。なぜ? と問いかけると懐いていないからだ、と答えるキツネ。


「キツネが王子様に言うじゃないですか。今はまだキツネにとって王子様がその他大勢の男の子の一人であるように、王子さまにとってもそのキツネは他のたくさんのキツネの中の一匹に過ぎなくて。だから別にお互いがいなくても平気でだけど、でももし絆を結んだら、互いになくてはならない存在になるって」


 そして王子様と絆を結んだキツネは、あまりにも有名なあの秘密を王子様に教えてあげるのだ。


〝ものごとは心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない〟


「どうして?」


「……多分、わたしも誰かのただひとりだけの人になりたいからじゃないでしょうか」


「それ、言ってて恥ずかしくない?」


「先生が言えって言ったんじゃないですか!!」


 諌山先生は自分の顔を片手で覆うみたいにメガネを上げて、ため息をついた。


「今日は帰れば? やりたくないときにやる勉強ほど身にならないものはないよ」


「そんな。やる気はあります!!」


「じゃあ、今の優先順位が違うんだね。とりあえず今日の君に教えることは何もない」


 帰りなさい、と雄弁に語る瞳に促されて「わかりました」と立ち上がる。


「すみません。ありがとうございました」


 諌山先生は無言のままだ。既にわたしに背を向けて本を読んでいる。


「また明日ね。咲紀さん」


 未来さんに優しくそう言われ、くじけそうだった気持ちが持ち直す。そうだ。今日が駄目ならまた明日だ。


「はいっ」


 とりあえず直帰を許されたわたしは、久しぶりに〝テンペスト〟にでも行こうとのろのろと自分の駅に下り立った。ゆっくりゆっくり一番後ろから、あ、今日はギャラリー少ない? とか思って階段を上っていくと、やはりそんなことはなかった。改札前にはまたしても女の子たちがひしめいていて、ため息を押し殺す。


 もう少しで階段を上がりきるところで立ち往生。ファン心理、わたしだってわからなくはないけど、気になる人に迷惑をかけたくない、とかそういう気持ちはないんだろうか。……あったらここにはいないか。さて。ここから改札までどうやって行こう。真剣に悩み始めたその時、わたしのゴールであるところの改札の方から、まるで小さな波がやってくるようにざわめきが起こった。


 なに?


 小さな波動は瞬く間に大きな渦になって。駅員さんが来ているのだ、ということに気づいたときにはもう、あたりはちょっとしたパニック状態になっていた。絶叫。歓喜の悲鳴。そんなものが何かを引き起こす引き金になってしまうなんて、今まで思ってもみなかった。


「きゃ、」


「やだ、ちょっと」


「押さないでよ!!」


 そんな声が遠くから、やがてすぐ近くまでやってくる。


 なに?


 そう思ったときにはもう目の前にいた女の子たちがよろめいて、わたしに倒れかかってきた。落ちる!! 斜め前から落ちてきた子をとっさに抱きとめるようにして階段の上に押し上げた瞬間、その反動でわたしの身体が浮いていた。


「!」


 悲鳴をあげる間もなく落ちていた。後頭部からはやばいという意識が働いたのか、無理矢理身体を捻る。あちこちをぶつけながら転がり落ちる。手すりを掴もうとしたけど、何度も手が滑った。もうどこが痛いのかもわからない。それよりも〝うわあ恥ずかしい〟という気持ちが頭の中を占めていたのが不思議だった。


 死んじゃうのかな。


 なんだかやけに冷静で、スローモーションのようにゆっくり落ちて行く自分の姿を感じて、そんなことを思った。なら、もう一度駅員さんに会いたいな。会いたい。


〝咲紀さん!!〟


 わたしを呼ぶ駅員さんの声が聞こえたような気がしたのは、そう思ったからだったのだろうか。




 ふっと意識が——まるで水の底から引き上げられる深海魚みたいだ——戻ったとき、わたしの顔を心配そうに覗き込んでいたのは唯史ちゃんだった。


 無機質な見覚えのない白い天井。消毒くさい固いベッド。


 ここは、どこ? わたし、なんで寝てるの? どうして唯史ちゃんが?


「気がついた? 咲紀」


「……た、だし、ちゃ」


 口を開きかけて、ずきりと顔が痛む。唇? 頬? 切れてるのかな。顔が全体的に腫れぼったい感じがする。右手でそっと触れると、大きなガーゼがあてられていた。その手にも腕にも包帯が巻かれているのを見て、愕然とする。


「喋らなくていい。ここは病院だから。……何があったか覚えてる?」


 ぼんやりと唯史ちゃんの言葉を反芻して、そうだ、駅で落ちたんだっけと思い出して小さく頷く。瞬間、身体全身がばらばらになるんじゃ、という痛みに襲われた。


 どこが、じゃない。全部だ。


「駅員、さんは?」


 ゆっくりと部屋の中を見回すけれど、駅員さんの姿は見当たらない。見回すといってもここは個室だ。最初からここにわたしと唯史ちゃんしかいないことはわかっていた。わたしの問いかけに、唯史ちゃんはわたしよりも痛い顔をした。


「落ちたの、今日、だよね?」


「うん。もう夜だけどね」


 今は十時過ぎ、と教えてくれる。つまりもうあれから三時間以上経ってるってことだ。


「駅員さん、は、わたし、が、今ここにいること、知って、る?」


「知ってるも何も。僕に連絡をくれたのは彼だよ」


 じゃあやっぱりあの声は駅員さんだったのだ。でも今ここに駅員さんがいないのって、変じゃない? いや、被害者がわたしだからってことじゃなくて、他の誰だったとしても目が覚めるまでいるだろう。普段の駅員さんなら。つまりいられない何かがあった……?


 嫌な予感がした。痛みなんか構わずに体を起こそうとする。


「咲紀!! 駄目だっ。手首にはヒビが……ッ!!」


 唯史ちゃんの言葉がいい終わらぬうちに、稲妻みたいにはしった激痛に、わたしは声も出せずに手首を押さえてベッドにUターンした。


「く、ぅ……ッ」


 それでも利き手の右ではなく、左だったのが不幸中の幸いか、と頭の片隅ではちょっぴり冷静にそんなことを考える。思ったよりも重症だ、とため息をついた。それすら痛い。


「今看護婦さん呼ぶから」


 ナースコールに手を伸ばしかけたその時、遠慮がちに扉がノックされた。


「はい?」


 応えた唯史ちゃんの声に反応して、扉が開く。隙のないよそ行きモードで申し訳ない様子で入ってきたのは編集長だった。


「へん、しゅ、ちょ」


 わたしの途切れ途切れの呼びかけを正確に読んで、唯史ちゃんが立ち上がる。


「咲紀の会社の方ですか。わざわざ申し訳ありません。でも、誰から連絡を?」


 唯史ちゃんは、編集長に椅子を勧めながら首をかしげた。編集長は椅子には座らず、わたしと唯史ちゃんを交互に見つめて深々と頭を下げた。


「このたびは甥のせいで川野辺さんに怪我をさせてしまいまして本当に申し訳ありませんでした」


 編集長の言葉を受けて、唯史ちゃんの眉が訝しげに顰められる。


「……甥?」


「わたくし、栗生真哉の叔母で秋吉佐和と申します。そして川野辺さんの上司でもあります」


「……僕は咲紀の従兄で新堂唯史といいます」


「川野辺さんのご家族の方は」


「事情が事情でしたので、僕の一存で咲紀の家には知らせずとりあえず意識が戻るのを待ちました」


 それで唯史ちゃんしかいなかったんだ。それでもわたしは家に連絡が行っていないことにホッとした。多分家にこのことが知れたら家に連れ戻されるかもしれないし、それに、駅員さんとの交際にもいい顔をしないだろう。唯史ちゃんの配慮に感謝した。


「怪我の具合はいかがですか?」


 編集長モードではなく叔母モードで、わたしを見ながら唯史ちゃんに問いかける。


「左手首にヒビ。顔と全身に打撲と擦過傷があります。全治三ヶ月、と言われましたが」


 全治三か月、という言葉に編集長よりもわたしがびっくりする。結構な重傷だ。どうりであちこちが痛い。


「医療費はもちろん全てこちらで持たせて頂きます」


「栗生さんはどうして来ないんです?」


 唯史ちゃんにしては厳しい口調。編集長は気まずそうな色を瞳に浮かべた。


「真哉は今回のことで自宅謹慎になっています。会社で処分を検討中で、おそらく明日にも解雇されることになるでしょう。本人は来たがったのですが、マスコミが動いていて却ってこちらのご迷惑になるだろうとわたくしが止めました」


「解雇!?」


 思わず叫ぶとぴり、と口端のキズが開く。しかしそんなことに構ってなんかいられなかった。


「わたしのせいだ。わたしが落ちたりしなければ」


「川野辺さんは被害者でしょう。それにこう言ってはなんだけど、多分落ちたのがあなたじゃなければもっと面倒なことになったはずよ」


「……」


 多分そうだ。わたしは駅員さんを訴えたりしないし、責任を取れとも言わない。でも充分、駅員さんは今、辛い想いをしているはずだ。自分を責めているだろう。


「真哉さんは、駅員を辞めたくないんですよね?」


 わたしの問いかけに編集長は少し考えて、口を開いた。


「今までにわたしが聞いたあの子のわがままはただ一つ。駅員になりたい。それだけよ」


 なら。辞めさせない。わたしのことで、駅員さんの夢を諦めさせない。わたしは右手をぐっと握りこんだ。できることは一つだけだ。


「唯史ちゃん」


「ん?」


「お願いがあるの」


 言ってしまえば、もう引き返せないってわかってるけど。


「今すぐ、九重先生を呼んでくれる?」


「……咲紀?」


「お願い」


 何かを決意した様子のわたしに、唯史ちゃんは何か言いたげだったけれど、結局は何も聞かずに〝わかった〟と頷いてくれた。恐らくは九重先生に電話するために唯史ちゃんが病室を出てゆく。それを見送って、再びベッドに身体を沈める。


 ごめんね。駅員さん。天井を睨むように見つめたわたしの目から、涙が零れ落ちた。


「痛むの?」


 編集長の気遣う声に、返事も出来ずに更に涙が溢れ出す。


 痛い。何よりも、心が。涙が、止まらなかった。




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