【9】「忘れられないの」3
まだ明るいとか、色んなことがぐるぐるしたのは終ってからだった。まだ気だるげにタオルケットにくるまったわたしを見て、シャワーを浴びて来たのか濡れ髪で上半身裸のままベッドの縁に座っていた駅員さんはくすっと笑った。どこかおかしいだろうか、とぐるんと自分を見てから首を傾げる。
「なあに?」
「いえ。なんだかいいなと思って」
「何がです?」
よくわからん、といった様子のわたしを甘い甘い瞳で布団ごと抱きしめる。
「ここに咲紀さんがいることが」
うっわ。嬉しい。嬉しいんだけど……さっきまでの余韻と相まって、居たたまれないほど恥ずかしくなる。
「わたしも……シャワー浴びてきます」
「シャツ、貸しましょうか?」
悪戯っぽい目は前回のことを暗に言っているのだろう。
「見たい、んですか?」
「どちらかといえば」
うまい相槌だ。わたしは右手を駅員さんに伸ばした。
「じゃあ、貸してください」
こっちがつられるほど嬉しそうに笑って、クローゼットから新しいシャツを取り出して差し出してくれる。それでもそれは仄かに駅員さんの匂いがした。駅員さんに背を向けたままそそくさと身につける。やっぱり大きい。駅員さん華奢に見えるのにな。シャツの中で体が泳ぐ。そんなことをぼんやり考えていたわたしの思考ごと背中から抱きしめられる。
「シャワー浴びたらすぐに帰っちゃうんですか、咲紀さん」
首筋に駅員さんの唇が触れる。吐息がくすぐったい。言ってることも相当くすぐったいけど。
「……わたしが帰ると寂しいですか?」
いつもどきどきさせられてる仕返し、とばかりに肩越しに問いかけると、すぐさま真っ直ぐな答えが帰る。
「寂しいです」
顔が赤くなる。うわ、なんだろう。この可愛い生き物は!! 持って帰りたい。んー、と考えながら胸に駅員さんの頭を抱きこむようにして、提案してみる。
「真哉さん、ご飯どうしてるんです?」
「昼間一誠が適当に持って来たり……」
「毎日?」
「まさか。週に二、三回です」
そうだよね。彼方くんもいるんだし、織田さんだってそんなにヒマじゃないだろう。いやでもマメだ。わたしより甲斐甲斐しい。女子力完全に負けてる。駅員さんから連絡したんだろうか。わたしにじゃなくて。いやいや。普通に考えてわたしに迷惑をかけたくなかったから、なんだろうけど、できれば頼って欲しかったな。——早く頼ってもらえるような存在になりたい。
「この騒ぎが収まるまで、わたしここに通いましょうか? 真哉さんが迷惑じゃなければ」
さすがに嫌がるかな、と駅員さんの顔を覗き込む前に答えが帰ってくる。
「それは咲紀さんが大変じゃないですか」
「……では、可能な限りってことで」
「そのままここに住んでくれてもかまいませんけど」
「えっ」
っと、それは、深い意味はないんだよね? プロポーズとかじゃなくて。心臓がどきどきするっ。しかもこんなに密着してたら絶対気づかれちゃうし!!
案の定駅員さんが堪えきれないといった様子で笑みを零す。
「からかったんですね」
「いや。……ごめん。今は軽々しくそういうこと言っていい状態じゃなかった。今回のことがちゃんと片付いたら……言います」
言うって何を? それは、期待してもいいこと?
「シャワー、一緒に浴びる?」
ぼうっとしていたわたしの耳に危険な囁き。危ない。うん、って言っちゃうところだった。
「そ、それはっ」
「それは?」
「また今度!!」
慌てて部屋の隅の椅子に重ねてあった自分の服を抱き込んで、そそくさとバスルームに向かう。駅員さんの楽しそうな笑い声が聞こえた。またからかわれたんだとちょっとムッとしたけれど、それでも駅員さんが笑えるならいいか、と思う。
バスルームのドアを開けかけたその時、インターフォンが鳴った。何だかどきりとして立ち止まる。そんなわたしの背中を優しく押すように、駅員さんの言葉が聞こえてきた。
「シャワー、浴びてていいですよ」
「でも」
来客だったら。しかも身内とかだったら。ちょっと、立場が……。いや、もうこの時点でないか。平日昼間にこの格好……。言い訳のしようがない。
「心配しなくても誰もバスルームには近づけませんから」
いつの間にやらブラックジーンズにオフホワイトのニットに着替えて来た駅員さんが、わたしに近づいてこめかみに柔らかく唇を押し当てる。そういうことを心配してるんじゃないってことはわかってるくせに、あえてハズしたことを言う。
「わかりました」
誰が来たにせよ、この格好でいるのはまずい。わたしは慌ててバスルームに飛び込んだ。さっとシャワーを浴びて、簡単に身支度を整える。鏡でチェックしてから、そっと怖々ドアを開けると聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「……真哉……」
藤間樹だった。
久しぶりに聞く彼の声は当然のことながら力なく、沈んでいる。
「怒ってる?」
「自分が何をしたかくらいはわかってるだろう?」
それに応える駅員さんの声も当然のことながら珍しく不機嫌さを滲ませていて。リビングは緊迫感に包まれていた。そっと覗き込むと、テーブルを挟んで向かい合い、ソファに座っている二人の姿があった。もちろんお茶なんかは出ていない。
「……わかってる……」
「そしてもう今となっては、取り返しがつかないことも」
顔色を失った樹くんは肩を落としてうなだれたままだ。わたしはこの間みたいな状況になるのを避けるために、このまま帰ることを決めた。それでもとりあえず二人にハーブティー——アップルカモミールだ——を淹れて、黙ってテーブルに置き、そして荷物を取り上げた。
「真哉さん、わたし帰ります。明日また来ますね。遅くなるかもしれないけど」
後ろ髪を引かれないわけじゃなかったけれど、わたしには課せられた宿題もある。プライドにかけても出来なかったなんて言いたくないし、あの編集長は間違っても間に合わなかったなんてこと認めないだろう。終わらなかったら多分クビだ。クビじゃなかったとしても異動とか、もっと大変な目に遭う気がする。でもそうなったときは自業自得。自分の努力が足りなかったんだ。そんな風に終らせたくない。
駅員さんは色々察した様子で立ち上がり、わたしに近づいた。
「今日はありがとう」
「ううん」
今日だって、別に何もしてない。というか、わたしがもらったみたいなものだ。そう考えて少し頬が赤らむ。駅員さんを補充できた感じ。玄関先までやってきたところで、靴を履いて振り返ったわたしの髪を駅員さんがひと房摘んだ。
「気をつけて。送れなくてすみません」
「それは、大丈夫……」
そう言って髪に触れる唇に、どきどきする。
「え、と……髪、離してくれないと帰れません、けど」
でもきっとこの手が離れたら寂しいんだろうな、と思う。
「帰したくないです。……ホントはね」
一瞬その長い指にわたしの髪が絡んで、ほどけたと思った瞬間頬に唇が触れた。まるで、いつかの夜と同じような熱をこめて。知らず、唇が触れた頬を指で辿っていた。
そこへ。
「何で帰るんだよッ!!」
駅員さんの後方で、仁王立ちでわたしを睨む樹くん。ジーンズに厚手のゆるっとしたパーカーはオシャレ感まったくなしのどこにでもいる少年風で、胸元には伊達メガネっぽいのも下がってる。あれは一応変装なのかな、と関係ないことを考えながら彼を見つめた。
えーと? どうしてわたしが怒られなきゃいけないんだ?
「オレに何か文句言わないのかよっ! 携帯壊したのも俺のせいなんだぞ!」
言葉よりも先にため息が漏れた。……まったく、このお子様は。
「どうしてわたしが怒らなきゃいけないの?」
「だって、お前……」
「〝認めない〟んじゃなかったの? わたしのこと」
ぐっ、とダイレクトに痛いところを突かれたらしい樹くんは悔しそうに結んだ口を歪める。
「怒るのも、文句を言うのも真哉さんのすることだわ。今日はそれをしてもらいに来たんでしょ?」
とてもそうとは思えない態度でも。……ここに来るにはさぞかし勇気がいっただろう。
「二対一はフェアじゃないし。ゆっくり叱られて?」
ただ、と付け加える。
「誰にも誰かの人生を思い通りにする権利なんてないから」
もし駅員さんが今回で駅員さんを辞めなきゃいけないことになったら、わたしは次にこの子と冷静に話せるんだろうか。
「……許せなかったんだ」
「え?」
「樹?」
「真哉が、ヴァイオリニストじゃない、別な人生を選ぶなんて。あんな風に神様に愛された音を持ってるくせに……」
子供らしい、そして音楽家らしいそのわがままはわからなくもなかったけれど。でも。
「〝僕の〟人生だよ。樹」
うなだれたままの樹くんの体が、電流でも流れたみたいに震えた。充分反省はしている。あとは謝るきっかけだけだろう。
「真哉さん」
そっと、その腕に触れて、困ったような笑みを浮かべる駅員さんに微笑みで返す。
「存分に」
相手に同じだけの好意をもっていなければ、叱るなんて疲れる行為とてもごめんだろうけど。そこのところに気づいてくれるといいな。
「そうします」
じゃあまた、と部屋を出てまっすぐエレベーターに乗り込む。——でも本当にどうするんだろう。横の壁に肩を凭れかけながらため息をつく。樹くんの考えなしに投げた火種はガソリンに引火した挙句、そばにあった大きな建物を舐めるようにして燃え広がっている勢いだ。もはや樹くん一人がどうこう、という問題ではない。
外に出ると心なしかマスコミの数が増えているような気がした。
ぶるり、と冷たい風に身を震わせる。
駅員さんが好きな道を歩けるといい。……ただそれだけを思った。
*+*
家に帰るなり修羅場に突入したわたしは、樹くんが駅員さんにどれだけ叱られたのかは知る由もなかったけれど、多分駅員さんのことだからさほどきついことは言えなかったんじゃないかな、と思った。本人もさすがに反省してたみたいだし。それにわたしがこれ以上口出しすることじゃない。
そして翌日。本当にぎりぎりのぎりぎりまで粘って、わたしはレポートと企画書を六本提出した。六本、っていうのは最低五本と言われたことに対する意地みたいなもので。案の定それを見た編集長は、ぼろぼろモードのまま厳しい瞳で「六本、ね」と意味ありげに呟いた。そのままレポートをざっと目を通して、それから企画書を見始める。
うっわー、どきどきする。学生に戻ったみたいだ。
「ふうん」
がしがしっ、と髪をかきむしって、綺麗なペパーミントグリーンの親指の爪を噛む。
「これ、あたってみて」
そう言って差し出したのはわたしが最後に付け加えた六本目の企画書だった。
諌山望海。——名前以外は性別も年齢も公表していない謎の恋愛ファンタジー作家。既刊はまだ三冊ながらもその内容・文章とも秀逸で人気も高い。その三冊目がでてそろそろ三年になる。どこかで連載をしている様子もないし、新刊が出るという情報もない。編集長に好きな作家で名を挙げた一人だ。
新しい本が読みたいな、と思ったのは単純にわたしのファン心理。だからまさかそれが通るなんて思ってなくて、思わず聞き返してしまった。
「……え?」
「だから、口説いて来て」
「えええっ」
「……なに、その返事」
「す、すみません。でも諌山先生は創想文藝の秘蔵の覆面作家さんですよ? どうやってコンタクト……」
「そんな無理難題な企画を立ててきたのは誰」
「……わたし、です」
編集長はわたしがいたたまれないほどの視線を向けたあと、ぽいと名刺を投げて寄越した。
「月稜大学……?」
講師・諌山希。諌山望海と一字違いだ。……まさか。
「え、と、この人が?」
「そ。諌山望海先生」
「まあ、そろそろいい頃なんじゃないかと思うんだけど」
「いい頃?」
というか。
「編集長、連絡先わかってたのにどうして」
うちから本出てないんです? という言葉をすんでで飲み込む。とてもこの編集長が交渉に失敗するなんて思えない。多分ワケありだ。
「たしかその名刺をもらったのは諌山先生が新人賞をとったパーティーだったんだけど」
「えっ、出席してたんですか?」
「出席してただけ。挨拶はナシ。紹介もナシ」
「え、なんでそれで諌山先生だってわかったんです?」
「勘、かな」
なんという野生の勘。編集長はくるりと椅子を回してわたしに背を向けて、再び爪を噛む。
「コンタクト、持たなかったんですか?」
「声はかけた」
だからその名刺があるんでしょ、とつまらなそうに言葉を放る。
「でもね。自分のパーティーであんな顔してる作家に仕事を頼むのは嫌だった」
「あんな、顔?」
「つまんなそうな顔。嫌々書いてやってるって顔」
自分の新人賞のパーティーで? あんなに優しくて綺麗な作品を書くのに。
「わたしはね、心の底から物語を書きたい、と思ってる作家としか仕事はしたくない」
それは、そうだ。そして、うちで書きたい、と思わせるのは編集者の手腕な訳で。
「今なら、変化してると思うんですか?」
「先生の作品、どう思う?」
「……話も文章も綺麗で優しくて温かいです。でもそれだけじゃなくてどこか忘れられない傷を孕んでいるような……」
硝子のような作品だ。そしていつもそこには救いのような光が降り注いでいる。
「本当に書くのが嫌いな人なら書けない本だと思います」
言い切ると、編集長は初めてにやりと笑った。多分それは同意で。
「どうやら最近創想文藝はへまをやって、先生との関係を切られたようだし、タイミング的にも悪くない」
「もし、先生が変わってなかったら?」
「そのくらい自分で考えな」
うまく約束をとりつけたら契約はこっちでやる、と言って、編集長は犬でも追い払うみたいにわたしを追いやる。
「へ、編集長っ。わたし、一人でですかっ?」
昨日入ったばかりなんですけどー、とか。いえる雰囲気では勿論なくて。こっそりとため息をつく。
「仕事は体で覚える。総務で自分の名刺、もらってから行け」
「あ、はい」
こんなアバウトでいいの……? でも、なんだか心のどこかではわくわくしてるのも事実。会えるんだ。ずっとずっと好きだった作家さんに。いやいや、こんなファン気分で行っちゃダメでしょ。お仕事。これは仕事だ。それでもわたしはこみ上げて来てしまう喜びを噛みしめて、行ってきます、と飛び出した。
さて。勢いで飛び出してきたはいいものの会える保証はない。とりあえず大学に行ってみよう、と電車に乗り込む。どうしよう。アポイントなしで行っても多分会ってはもらえない。基本今は大学も関係者以外立ち入り禁止だし。学校の前で電話する? でもその場で断られたら? 電話なんて切られたら終わり。何かいい手はないものか。
ぐるぐる考えてみたものの、とてもこれだという案は出ず、とうとう駅についてしまう。大学へは歩いて十八分。さて、と思ったところへ携帯が鳴る。表示された名前を見て、あっ、と声を上げそうになった。
「もしもし江ノ上ッ!?」
思わず声のテンションも上がる。話しながら大学の方へ向かって歩き始めた。
「……なんだよ、その食いつきっぷりは……」
「いっやー、あんたの電話がこんなに嬉しかったことってないわー」
「お前、何気に失礼なこと言ってるのわかってるか? っつーか、この間どうしたんだよ」
「この間?」
まったく記憶にございません、的に返すと、江ノ上のふっかーいため息が聞こえてきた。
「そういうヤツだよな。……この間俺が心配してずっと電話待ってたなんてことはまったく考えなかったんだろ」
この、間?
「……あっ!!」
九重先生のことか。そうかうっかりすっかり忘れてた!
「ごっめーんッ。大丈夫! あのあとすぐにバイト先の女の子と合流したし、従兄も一緒だったから」
色々はしょってはいるけど、まあ概ね間違ってない。
「あ、そ」
「ごめんね。心配かけて。……あいつからも、電話来た。あ、それからっ、山櫻社も受かった!! ありがとう!!」
「まとめて報告かよ」
「……ごめん。こっちも一気に色々あって」
いーけど、って声が煙草を吸ってるらしい吐息とともに聞こえてくる。
「山櫻社のことは庄司から聞いた。良かったな。今、仕事中か?」
「そう。それで、ね? 江ノ上に頼みがあるんだけど」
このところ色々してもらってる感はあるけど、思い返してみればわたしの貸しの方がずっと多い。返してもらえる時に返してもらわないと。
「……なんだよ」
「月稜大学に知り合いいない? できれば柔軟な仏文学専攻の子がいいんだけど」
「なんだそれ?」
「いいから、いるの? いないの? どっち?」
時間は一分一秒無駄には出来ない。江ノ上が駄目なら他をあたるまでだ。
「いない、こともない」
「教えてッ!!」
ああっ、ホント電話と友達ってありがたいっ。
「わかった。入社祝いに教えてやる」
「安ッ」
「教えて欲しくないのかよ?」
「ああん! そんな! 嘘嘘。充分っ。恩に着るっ」
電話の向こうがしばし沈黙する。
「江ノ上?」
「お前、そんな声昼間から出してんじゃねーよ」
「はあ!? 頭腐ってんじゃないのっ。くだらないこと言ってないでさっさとその子を学校の門の所まで呼び出して」
「何させるつもりだよ」
「別に? 突然フランス文学に目覚めたから、先生を紹介してもらおうと思って」
深い事情が言えないことは察したらしく、嫌そうに江ノ上は適当な相槌をうった。
「門のところで待ってろ。つかまらなかったらまた連絡する」
「ありがとう!」
切りかけた指を止める、追加の言葉。
「この貸しは返してもらえるんだろうな」
はあ?
「ばっかじゃないの。胸に手をあててよく考えてみて? わたしの貸しのが江ノ上よりもはるかに多いでしょ」
代返もしたし、レポートもノートも見せた。そしてそれをこっそり第三者に売ったことも知っている。バイトの代打も引き受けたし、反対に割りのいいバイトも紹介したことあるし、合コン手配にいたっては数えきれない。しかもこれらはほんの序の口だ。
「俺の貸しのがデカイ気がするんだけど」
「気のせい。だって量より質で返してもらわないと一生返しきれないでしょ?」
さっくり返してやがて門が見えてくる。門の向こうは大きな木の並木道で、いい感じに古い。わたしも少し前までは大学生だったのにな。不思議。卒業してしまうと門から先は途端に異界に変わる。わたし自身は何も変わっていないのに。まあ勿論ここはわたしの母校じゃないけど。
「じゃ、よろしくね」




