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駅員さんの恋  作者: 高藤みずき
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【9】「忘れられないの」2



「おば?」


 びっくりしたまま駅員さんを見上げると、ため息混じりに頷いてみせる。


「えええええっ!!」


「あー、うっさいうっさい!!」


 びっくりするわたしを黙らせると、今度は不思議そうに駅員さんが問いかけてくる。


「でも、どうして佐和さんと咲紀さんが一緒に?」


 実にもっともな問いだ。全く何も説明できてなくて、いきなりわたしが親戚の人と連れ立って現れたらびっくりするだろう。ちょっと気まずい。どうしたものかと言葉を探している間に、呆れた様子の編集長が声を上げた。


「あんた、自分の彼女の就職先も知らないの? このおじょーさんは今日からうちの新入社員なのよ」


「……ほんとに?」


 居心地の悪い沈黙と視線とを感じたあと、はい、と頷く。っていうか、どうして編集長はわたしが彼女だって知ってるの? とかいう疑問が浮かんだけれど、でも、とにかく。


「相談できなくて、ごめんなさい」


「それは……」


 仕方がありません、と小さな呟き。そう。わたしたちはまるっきり連絡が取れなかったんだから。


「真哉さん、携帯、は?」


「……壊れてしまって」


 何があったんだろう、と色々考えてしまうけど今はそんな場合でもないだろう。今のわたしは編集長のお供だ。それに今はもう一つ気になることがある。ちらりと編集長を見ると、苛立たしげに煙草を揺らしていた。


「あんたにしては不注意だこと」


「あの、編集長、わたしのこと知ってたんですか?」


 わたしの視線を受けて、編集長は煙草の灰を落としながら頷いた。


「名前だけはね」


「じゃあ、わたしの採用って」


 それを言った瞬間、目の前が真っ白になった。編集長が不機嫌そうにわたしに煙を吹きかけたのだ、と気がついたのは視界がクリアになってからだ。


「世の中そんなに甘くないし、うちの会社なめないでね。縁故だけで能力ないのをとるほど優しくないわよ。そもそも最初の採用決めるのわたしじゃないし」


 甥の彼女だからって優しくすると思ったら大間違いよ、と告げる。最初からそんなこと期待してない。


「それに、あれ? って思ったのはあんたの履歴書見てからよ。もうその時には採用決まってたわ」


「履歴、書?」


「最寄り駅ここだったでしょ。**駅に住んでる川野辺咲紀って子がそう何人もいるとは思えないし。偶然って怖いわよね」


 わかったような、わかんないような。でもとりあえず転職に駅員さんは関係なかったことにホッとする。そうは言っても元々は庄司くんに声をかけてもらっての入社だから、わたしはこれから死に物狂いで自分の能力を示して行かなければならないだろう。試験を受けて入るよりシビアだ。


「真哉。それであんたどういうつもりなの? わたしに言ったわよね。音楽家にはならない。駅員になるんだって。……あの言葉、今になって撤回するつもりなの?」


 じっと編集長に見据えられ、駅員さんは〝いえ〟と首を振った。


「じゃあ、駅員を辞める気はないのね?」


 確認の問いに、今度ははっきりと顔を上げる。


「はい」


「副業は認められていないんでしょう? この間のコンサートとCMはどうやって認めさせたの?」


「それは、急遽うちの会社にスポンサーで入ってもらって、広報活動という形で」


「……あんたの会社には随分頭の柔らかい人がいるみたいね」


「はい。感謝してます」


 結構。そういって編集長は何の前触れもなく立ち上がった。


「新入り」


「は、はいっ」


「今日は直帰を認める。ただし明日の昼までにうちの書籍の良い点と改善点についてのレポートと、それに基づいた企画書を最低五本以上提出すること」


「へ?」


「聞こえなかったの」


「はいっ。かしこまりました」


 つまり婉曲すると、今日は会社に戻らず駅員さんのそばにいてもいいということだ。確かに駅員さんの顔色は悪い。


「今日のあなた、社員としては全然駄目だったけど、叔母としては感謝するわ。ありがとう」


 ……それは、駅員さんのことを黙っていたことですか。わかり難いです編集長。やっぱり、ちょっと試されてたのかもしれない。今日。


「編集長」


「でも、仕事は容赦しないわよ。企画書一本でも少なかったら、真哉との付き合いは認めませんからね」


「えええっ!?」


 そ、そんなっ。公私混同するつもりか、この人!! わたしの異議あり、な視線をあっさり流して再びサングラスをかける。そして、ねえ、とわたしに呼びかけた。


「真哉のどこが好きなの? 顔? 悪いこといわないからそれだけならやめておきなさい。結構……ううん、かなりめんどくさい子よ、この子」


「佐和さん!」


「え、と」


 ちらりと駅員さんを見て、それから編集長を見る。うーん。どこも似てないな。この二人。


「真哉さんと知り合って、駅で会うたびに、わたし元気になれたんです。どんなに疲れてても、落ち込んでても」


「なにそれ。駅員として優秀ってこと?」


「じゃ、なくて……。いえ。そうなのかもしれませんけど、わたしがそうなれるのは真哉さんだけなんです。他の人じゃ、駄目なんです」


 そしてできればわたしも駅員さんにとってそんな存在になれたらいいと思う。まだまだと遠そうな予感しかしないけど。


「多分、ヴァイオリニストの真哉さんだったら、こんな風に思わなかった気がします」


「ふうん。物好きね。あえて苦労を選ばなくてもよさそうなものだけど……ま、頑張って」


 じゃあね、とひらりと手を振って部屋を出てゆく。見送りをする間もなくばたん、とドアの閉まる音を聞いて駅員さんもわたしもほっと息をついた。嵐のような人だ。


「何だか、すごい人ですね。編集長」


「うん。昔からあの人には頭が上がらない」


 そういって、駅員さんは疲れたようにソファに座り込んだ。


「何か飲みます? わたし淹れますけど」


「……じゃあ、咲紀さんの飲みたいもので」


 疲れてるみたいだ。少し考えて、紅茶の缶が置いてあるところを覗く。冷蔵庫にあった牛乳を取り出して小さな片手鍋を引っ張り出すと、甘めのロイヤルミルクティーを淹れた。よく買うお店のオランジェショコラはわたしが好きだって言ってた紅茶で。ひょっとしてわざわざ買いに行ってくれたんだろうかって思った。この間までなかったし。だとしたら嬉しい、な。気持ちを落ち着けるべくゆっくり丁寧に淹れた。


 名前の通り、オレンジとショコラの優しい香りがする。駅員さんのにはお砂糖を少し追加する。意外と甘党だ。トレイに乗せて駅員さんの向かい……さっきまで編集長が座っていた場所に座る。


 駅員さんはソファの背もたれに完全に背中を預けて片手で顔を覆っていた。大丈夫かな。


「はい。どうぞ」


「ありがとうございます」


 緩慢な仕草で受け取ったカップを口に運び、頬を緩める。


「美味しい?」


「はい。不思議ですね。自分でいれたものよりもずっと美味しい」


「なら、よかった」


 しばらく無言のまま、二人で紅茶を飲んだ。それはなんともいえず雄弁で、濃密な沈黙だった。


「「あの」」


 言葉が重なって、お互い見つめあう。


「咲紀さんから、先にどうぞ」


「え? えーと、うん。それじゃ……。どうして編集長わたしの名前知ってたのかなって」


「それは」


 駅員さんはちょっとだけ口ごもって、わたしから少し視線をそらした。


「樹のリサイタルのチケットは本当は叔母にせがまれたんです。それが前日になって行けなくなったというので、じゃあ僕が別の人と行くかもしれないのでかまわないと言ったら」


「誰と行くの、って聞かれたんですね」


「はい」


 編集長のことだ。名前を聞き出すまで食い下がったに違いない。目に浮かぶようだ。誤摩化しきれなかった駅員さんも。


「だから、誘ってくれたんですね」


「咲紀さんを誘おうと思ったのが先です。叔母に言ったから引っ込みがつかなかったわけじゃありません」


「……うん」


 嬉しい。……編集長に感謝だ。それがなかったら今わたしと駅員さん一緒にいなかったかもしれないんだから。


「こんなことって、あるんですね」


 事実は小説よりも奇なり、だ。わたしの再就職先に駅員さんの叔母さんがいるなんて。


 あ、そうだ。


「勝手に転職決めてごめんなさい。相談したかったんですけど、そもそも受かるかどうかわからなかったし、急な話だったし、電話もしたんですけど」


 何より、諦めたくなかった。


「それは、いいんですよ。咲紀さんは咲紀さんのやりたい方へ自由に進めばいい」


「……え」


 それは。その言葉は。どういう意味にとっていいのかわからなくて、つい黙りこんだまま自分の膝を見つめた。


「咲紀、さん?」


「……それは、どういう意味ですか?」


 多分、わたしの変化に気づいた駅員さんが、不思議そうに首をかしげる。


「そのままの意味ですけど」


 普段なら、わたしだって違う答えが出せたのかもしれない。でもずっと駅員さん不足が続いてて、この間もあんな電話をしたあとでは、普通に受け止めるなんて無理で。なんだか突き放されたみたいに感じてしまった。


「わたしのことなんか、どうでもいいってこと、ですか?」


「え?」


「嫌になったならそう言って下さい。今なら、まだ辛いけど諦められる、かもしれない、から……」


「咲紀さん、何を?」


「信じたいの。真哉さんのこと信じたいんだけど、わたし何にも知らないんだもん」


 泣く一歩手前だった。わたし子どもみたいだ。別に酔ってもいないのにこんな、八つ当たりみたいに。


 止まれ、わたしの口!!


「何が知りたいんですか?」


「全部、知りたいよ。わがままだってわかってるけど、こんなもやもやしてるのやなんだもんっ」


 冷めてしまった紅茶を一気に飲み干して、わたしは唇を噛んだ。ああ、なんでこんなこと言っちゃったんだろう。駅員さんに謝らなきゃいけないのわたしの方だったはずなのに。ツマンナイ意地で、ほんの一言で、駄目になった恋愛だって知ってる筈なのに、ホント情けない。落ち着け! 落ち着けわたし!


「こんなこと、言うつもりなかったのに。……ごめんなさい」


 駅員さんは黙ったまま立ち上がり、わたしのところまで歩いてくるとためらいがちにわたしの身体を抱きしめた。


「不安にさせて、すみません」


 そのぬくもりに涙腺が緩みかける。それでも泣くのを我慢して駅員さんを見上げると、そのまま唇が重なった。でもそれは一瞬で離れて、わたしはむう、と頬を膨らませた。


「誤魔化そうとしてます?」


「違います」


 あんまり可愛いことを言うから、とさっきよりも深いキスをされる。


「ッ、ふ、……」


 飢えを補うような口づけだった。口内を余すことなく暴かれるような、そのままソファに押し倒されるような格好になる。


「か、可愛いって、どこが……!」


 目を細めてわたしを見て「全部ですよ」と言いながらわたしを抱き込む。


「……全部、話します」


 話してくれると言われたのに、そうなると無理矢理差し出させたような気がして今度は罪悪感みたいなものにかられて思わず引いてしまいそうになるのが人のおかしなところだ。


「あ、の、無理に、とは」


「そういうわけじゃありません。ただ優先順位の問題だったんですが、……咲紀さん以上に優先されるものなんてありませんから」


 嬉しい。嬉しいけど!! この体勢はとても話を聞くそれではないのではっ。駅員さんの吐息が耳にかかって、くすぐったさに身を捩る。それを追うように駅員さんの唇が頬から顎のラインを辿った。


「……ンッ……」


「そんな声を出されたら、話じゃなくて違うことをしたくなるけど」


 はむ、と唇を挟むようなキス。


 誰が出させていると!!


 耳まで赤く染めて、駅員さんを睨む。駅員さんはくす、と笑みを零してわたしの喉元に唇を這わせた。そしてからかうように囁く。


「それ、睨んでるつもりなら逆効果ですよ」


「ひゃ、……、だ、駄目ッ」


 悪戯に蠢く指を必死に掴んで抵抗する。掴まれた手を目線まで持ち上げて、流されそうなわたしを承知した上での揺さぶりの一声。


「イヤ?」


 ホント、天然だから悪質。


「……先に、話」


 じゃないとこのまま流されてしまう。絶対に。うん……むしろ積極的に。わたしを翻弄するのが気の毒になったのか、最初からそんな気はなかったみたいに涼しい顔で駅員さんはあっさりと頷いた。


「そうですね。先に、話をしましょうか」


 やけに〝先に〟を強調されて、熱くなった頬に自分の手を押し当てる。さっき覗かせた〝男〟のカオなんか嘘みたいに、紳士的な様子で先に身体を起こした駅員さんの隣りに、服の乱れを直しながら改めて座りなおした。


「何から聞きたいですか?」


 そりゃあ勿論、一つだけだ。


「……千晶さんとのこと」


 でしょうね、と長い足を組んで、指で額を押さえた。


「この前の電話で言えなかったのは、樹に誰にも口外しないよう約束させられていたからです」


「え、と、じゃあ」


 喋っちゃ駄目なのでは。


「でも今回僕が**駅の駅員であることをリークしたのは樹だから」


「ええっ、なんでそんなこと」


「……駅はどうでした?」


 苦笑交じりの駅員さんの顔を見て、ああ、と思う。これは全部作戦なんだ。藤間樹の。


 今話題の謎の美形ヴァイオリニストが実は一介の駅員さんだってことが知れれば、人々はそこに殺到する。そうなれば駅員さんの立場がなくなって、最悪は失職して……ヴァイオリニストに戻るしかなくなる。多分、そう思ったんだろう。あのお子様は。


「……酷い」


「駅員を続けるのを認めさせる代替案として出されたのが、千晶さんの父である衛藤慶太郎氏に、もう一度樹の後援者になってもらうことだったんです」


「……もう一度?」


「リサイタルのあとのパーティーで、樹は衛藤氏を怒らせてしまって」


 さもありなん。多分駅員さんがアンコール中に帰っちゃったからご機嫌斜めだったんだろう。ほんっと、子供だ。


「でもそれ一回で?」


「あいつが素直に謝れる性格だと思いますか?」


 思えない。多分悪化させることはできても修復は無理だろう。


「つまり、真哉さんがとりなしに行ったところ、聞いてあげてもいいけどそのかわりうちの娘と付き合えって言われちゃったわけですか」


「お付き合いは勿論断りました」


 否定はしないんだ。自分の察しのよさをちょっとだけ呪う。ため息を隠さずに続けた。


「……何度かオジョーサマのわがままに付き合ってやれ、と?」


「まあ、そんなところです」


 あれだけの美人だ。何度か会わせれば簡単におとせると思ったのかもしれない。


「ちょ、……っとは、揺れました?」


 そろりと聞いたその問いに、駅員さんはいきなりわたしを引き寄せて膝の上に横抱きに乗せた。


「え、ええっ!?」


 重い!! わたし重いからッ!!


 そして、ブラウスから覗く胸元に、容赦なく痛みを伴う口付け。そのまま上目遣いにわたしを見つめる。


「態度でわかってもらったほうがいい?」


「いえっ、じゅ、充分ですっ」


 そう? とぎゅうっとわたしを抱きしめながら、独り言なのか、それともわたしに言ったのかわからないような言葉を口にする。



 でもあのお嬢様には、他に気になる人がいるみたいですよ。



 それって、どういうこと? だけど。それについて考えるよりも先に、駅員さんによって……何もわからなくさせられるほうが先だった。





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