【9】「忘れられないの」1
あろうことか駅員さんには何も言えないままざかざかすごい勢いで事態は進んでいる。いや、進ませたのは自分自身だけど。何度か電話はかけたけどまた通じないし、駅でも見かけないのだ。でももうここまで来たら、引き返せない。前にざかざか進むのみだ。ぐっと拳を握ってエレベーターに乗り込む。
〝書籍部〟
ドキドキしながら〝失礼します〟と指定されていたその部屋に入ると、わたしを出迎えたのは庄司くん一人だった。ごちゃっと汚い会社をイメージしてきたわたしにとって、そこはびっくりするほど広くて綺麗な空間だった。入って正面の壁の一面がガラスになっていて、部屋全体に降り注ぐ日差し。一人ひとり独立した視界を遮らない程度の低めのパーテーション内には、パソコンが一台ずつ見える。
「来たのか。川野辺」
庄司くん。庄司潮くんはどうして江ノ上の友達なんだろう、という感じの、見た目体育会系ラガーマンだ。日に焼けてがっちりしてて背が高くて、一見怖そうに見える。よく見ると彫りの深い整った顔立ちをしているのに、目がまず怖い。その鋭い三白眼のせいだろうか。背が高い分見下ろされる形になるので、まるで睨まれてる感じがする。どうしても相手に威圧感を与えてしまうのだが、それでもこれまでの付き合いで、彼がいい人なのはよく知っている。
「おはようございます。今日からよろしくお願いします」
「おう」
気だるそうに挨拶を返して、庄司くんはほんの少し口端を上げる。笑ってるつもりなんだ。これでも。知佳が庄司くん怖いから苦手って言ってたのを思い出した。
「庄司くんだけ?」
やや声を潜めて問いかける。フロアはがらんとしていて人気がない。
「まだ時間が早いからな。来る時間は人によって大体バラバラだし、今いるのはあとは前の晩からいるヤツだけだ」
徹夜ってことか。やっぱりなかなかにハードなようだ。
「庄司くんは?」
「俺は下っ端だから」
「なるほど」
つまりわたしも明日からはもっと早く出社しないといけないってことだ。
「来いよ。編集長に紹介するから」
「う、うん」
実は編集長に会うのは今日が初めてなのだ。採用のときの面接は総務の人が担当しているらしく、メガネをかけた優しそうなおじさんだった。
どきどきする。
一番奥まったところにあるパーテーションを前に、庄司くんはわたしに、待ってろ、といい置いて入ってゆく。
「編集長。新入りが来ました」
「……んー?……」
ね、寝てる!? ああ、この人が徹夜組の人なのか!
「起きて下さい。そろそろ時間です」
「……何時」
「九時です」
「もっと早く起こせ、バカ!!」
「すみません」
寝起きで声がくぐもっているせいかどんな人なのかよくわからない。しばらくすると庄司くんを伴って、長いばっさばさな髪を一つにくくって、グレーのスエットの上下で現れた、メガネの……、男? 女? 背は、170ちょっとはありそうだ。そのままのわたしの目の前に立つ。一見まったくやる気のない様子なのに、目だけがギラッとわたしを観察するのがわかった。頭の天辺から足の先まで。
「ふううーん。あんたが」
「は、はいっ。川野辺咲紀ですっ。今日からお世話になります。よろしくお願いしますっ」
「あー、いいいい。お世話、しないから」
ひらひらと手を振って、がしがしと髪をかきむしる。
「は?」
「好きな作家は?」
「え、と、」
わたしは山櫻社からもベストセラーを出している何人かの作家の名前を上げた。途端に嫌そうに眉を顰める。ええっ、失敗した!?
「そういう上っ面な答えじゃなくてさ。本当に好きなのを聞いてんの」
少し考えて、全作品を持っているけど山櫻社では本を出していない作家を何人か上げたうえ、夭逝したミステリ作家と、結婚して書くのをやめてしまったらしい女性SF作家の名前と、やはりどうしてだか書くのをやめてしまった大好きなファンタジー作家の名前をあげた。一番最後がど本命だ。
「……あ、そ」
それきりなんの興味もなくなったかのようにわたしを見ずに、奥のほうへと去ってゆく。
なに!? 今のなに!?
途方に暮れたように庄司くんを見ると、口端がやや上がっている。
「庄司くん……」
「心配すんな」
「へ?」
「川野辺気に入られたんだよ」
「は?」
なんで、今ので!? どのへんが!?
「俺は〝趣味悪すぎ〟って言われた」
まあ、庄司くんはいつもどこから見つけてくるんだろうそんな本、というのを読んでる人だった。最初に話しかけたきっかけもそれだった気がする。確か。
「今ので〝いらないから帰れ〟って言われたヤツが何人もいるらしい」
「嘘」
「ホント。まあ、クビってわけじゃなくて別な部署に異動だったけどな」
怖ッ。じゃあ今のが最終試験というか、本当の採用試験だったってわけ!?
「……言ってよ」
恨めしく見上げるわたしに、庄司くんは困ったような顔をした。
「無理。未だにあの人にとって基準がなんなのかわかんねえし。それに、自分の読書傾向なんて誤魔化せるもんじゃないだろ」
そうだけど。むしろ誤摩化したら異動まっしぐらな気がする。
「庄司! アレどうなってる!?」
奥から編集長の声が飛ぶ。
「三十分前にはまだ。今確認します」
そういうと、庄司くんは立ちあがってるパソコンの前に座って画面を開き始める。まだ面食らったままのわたしもそれに近づいた。文字の羅列した画面を単調にスクロール。なんの仕事だ?
「川野辺」
顔を画面に向けたまま、部屋を出て右に給湯室があるから苦めのコーヒー淹れてくれ、というから、その通りにする。こういうの、カップが決まってたりしないのかな、と思ったら使い捨てらしい。洗う手間を省くためだろうか。少しホッとして、やがて三つ持って戻る。
「はい庄司くん」
「悪い」
「もう一つは編集長さんの机に置いたらいい?」
「ああ、それは……」
庄司くんが答えかけたとき、目の前のトレイからひょい、とコップが一つ奪われた。
「……え?」
「うん。まあまあね」
そういいながらコーヒーを飲みつつ庄司くんの傍らに立ってパソコンを覗き込む。
誰!?
美女だった。なんだろう。いかにもテレビに取り上げられそうなやり手の美人社長、という感じの。目に鮮やかなカナリアイエローの身体にぴったりしたスーツがよく似合っているのは、出るところは出て、くびれてるところはしっかりくびれているからだ。
「出ましたね」
「……案外遅かったな」
なんだろう?
そっと覗くと、その画面にアップされていたのは、なんと駅員さんだった。
「え、これって」
美人の厳しい視線が途端にびしっと突き刺さる。
「なに? 知り合い?」
「あ、……いえ」
何だか隠してた方がいいような気配を察して、首を振る。あっそ、とつまらなそうに言って、意外にも親切に説明してくれる。
「彼は去年の第九のコンサートにいきなり現れたヴァイオリニストで、今一番注目を集めているといっても過言じゃないの。なんてったって、このカオだしね。コンサートを主催した企業にプロフィール聞いてもノーコメントの一点張り」
……そんなに注目を集めてたのか。
「しかも先日CMが公開されて、それが彼と、若手人気ヴァイオリニスト藤間樹とのツーショットだったもんだからますますクローズアップされちゃって。どこのマスコミもいま躍起になって彼の正体を暴こうとしてるってわけ」
前に駅員さんが言ってたやつだ。やっぱりツーショットだったのか、じゃなくて!! 知らなかった。まさか駅員さんのことが今そんな大事になっているなんて思ってなくて、わたしは思わず息を飲んだ。
「それで庄司にこの間からネットめぐりさせて、信憑性の高い情報を探させてたってわけ」
「それ、で?」
びっくりでしょうね、と誰に言うともなく、なぜか嫌そうに口にする。
「音楽とはまるで畑違いの**駅の駅員だっていうんだから。……以前から似てるイケメンがいるって話はあったんだけど、問い合わせは全てシャットアウト。最近は本人の姿もないって話だったしね。だからこそ、余計に信憑性が増したんだけど」
だから、だったのか。わたしは駅員さんにずっと会えないでいた。ずっと探していたけれど。
「今後のこと含めて一応知り合いの音楽関係者にもあたって、連絡を取ろうとしてるんだけどそれもちょっとね……」
……わたし、バカなんじゃないの。指先が震えた。気づかれないように手を握りこむ。駅員さんと連絡が取れないのは、また樹くん絡みだと思い込んでた。そんな大変な状態にあるなんて考えてもみないで……自分のことばっかり考えてた。
「えっと、でもこの情報、何か本に関係あるんです、か?」
「行くわよ、新入り」
急に現実に引き戻されて慌てる。問いかけはもちろんスルーだ。
「え? ど、どこへ?」
「行くといったら来る!! ぐずぐずしない!!」
「えーと、その前に、紹介、とか」
ないんですか!!
「はあ? 本気で言ってんの? ソレ。さっき会ったでしょうよ」
美人がきりきりと眉を吊り上げる。美人が怒ると迫力だ。わたしは思わず竦み上がった。
そこへそっと庄司くんがわたしを手招きする。
「編集長だ」
「えええっ!? 編集長ッ!?」
さっきの!? ホームレス手前な不審者が!? 嘘、でしょう。さっきまでと全然違うし!! この数分で整形したんだろうか、と思わず疑うほどの別人ぶりだ。
編集長は色っぽい唇をにや、と歪めて、わたしに顔を近づけた。
「いーい? 新入り。この世界はハッタリ勝負なの。使えるものは何でも使うのよ」
それが自分でもね、と呟くと、大きめのショルダーバッグを取り上げて、ヒールの音も高らかに歩き出す。
「え、え、?」
「早く行け、川野辺」
「う、うん。行ってきます!!」
とにかく筆記用具は持ってきた。ひょっとして、と思って自前のデジタル一眼レフも用意してきた。わたしはその自分のバッグを掴んで、急いで編集長のあとを追ったのだった。
*+*
移動中も仕事なんだな、と編集長を見て思った。電車の中で、大量の原稿に目を落とすその美しい横顔にため息を押し殺す。
「なに。わたしの顔に何かついてる?」
手元から一度も視線は外さずに問いかけてくる。わたしは口ごもった。
「いえ、その、ホントにさっきと別人なので」
すると編集長は、まだ言ってるの、みたいな呆れた視線をわたしに向ける。
「どこに向かってるか、わかる?」
「……あの駅員さんのところですか」
わたしがさっき会社へ向かった道を戻っているのだから。それとさっきの情報をあわせて考えれば答えは一つだろう。
「うん。頭は動いてるみたいね」
「でも書籍部になんの関係があるんですか?」
「……小さい会社は一つのことをやってればいい、というわけじゃないのよ。まあ、でも、……多分にこれはプライベートもあるけど」
個人的に駅員さんに興味がある、ということだろうか。何だか胸の中がざわつく。編集長、幾つなんだろう。二十代後半? 三十代? でもこの落ち着きはそれ以上にも見える。落ち着きというか、迫力というか。
「どうして、わたしを連れて行くんです?」
なぜか編集長はそこでほとほと呆れた、という顔をして再び視線を原稿に戻してしまった。
ど、どうしてッ!?
謎が謎のまま、電車が駅に到着する。よく見慣れたわたしのアパートのある駅に。そして降りるなりびっくりして立ち尽くしてしまった。なぜなら平日の昼間であるにもかかわらず、駅が人でごった返していたからだった。なに? なにこれなんで?
「……さすがに早い」
編集長の言葉が微かに聞こえてくる。ええっ、じゃあこれ全部駅員さん目当てなの!? 確かに女性ばかりだ。えーと、みんな仕事とか、学校は?
優雅に人波をものともせずに先に歩いてゆく編集長を、やっとの思いで追いかける。
「遅い」
「す、すみませんっ」
やっと改札までたどり着くと、そこでは平賀さんをはじめとする駅員さんたちが、詰め寄る女性たちを相手にまさににてんてこ舞いの状態だった。ようするに、駅員さんを出せと騒いでいるらしい。そのまま駅員室に向かうのかと思いきや、編集長はそのまま改札を抜けてさっさと歩いてゆく。わたしも慌ててその後を追うけれど、待って。これって。……この道って。
どきどきするわたしの気持ちをよそに、見えてきたのはもちろん駅員さんのマンションで。どうして知ってるんだろうとびくびくしているわたしをいきなり振り返った。
「いい? マスコミとは目を合わさないように。……行くわよ」
編集長はいきなりサングラスをかけて歩き出す。背中が早く来ないと置いていくと雄弁に物語っており、わたしはそれに素直についてゆくしかなかった。入り口にはそれっぽい人たちが数人たむろっていて、入り口に近づく人にすかさず取材攻撃を仕掛けているようだった。近づくわたしたちにも気づいて、すぐさまラフな格好をした目つきの鋭い男性が近づいてくる。
「ちょっとすみません」
手には名刺。そして、ICレコーダー。が。編集長のサングラス越しの眼差しを受けて怯む。
「邪魔よ」
相手が編集長に気圧されて、口が利けなくなっている間に、わたしたちは邪魔されることなくマンションに入ってゆく。そして。わたしの目の前で、編集長の指はなんの迷いも無く駅員さんの部屋の番号をプッシュした。えええっ、どういうこと?
「はい」
インターホン越しに聞こえたのは確かに駅員さんの声で。
「わたしよ」
返事はなかったけれど、すぐに中へ入るドアが開いた。ちょっと待って。編集長、駅員さんと知り合いってこと!? じゃあ知ってるのに調べてたの? なにが起こっているのかわからない。〝わたし〟の一言でわかってしまうその関係って、どんな?
「あ、あの編集長……」
疑問を解消しようと声をかけたわたしを、目線だけで黙れと命じる。まだ、マスコミの耳がある、ということか。わたしは素直に口を噤んだ。
そして、わたしたちは無言のまま駅員さんの部屋のドアの前に立った。インターホンを鳴らして少し待つ。やがてがちゃり、と扉が開いて、駅員さんが顔を出した。
「佐和さん……、え!? 咲紀さん!?」
気まずい。じろり、とやっぱり知っていたのかという編集長の視線が突き刺さる。
「いいから早く入れて。どこから見られてるかわからないし」
駅員さんは編集長に黙って頷き、どうぞ、とわたしたちに入るよう促した。久しぶりに会う、駅員さんだ。しみじみしたい気持ちは山々だったけれど、わたしの頭の中は疑問でいっぱいだった。編集長といったいどういう関係ですか。そしてわたしはどうしてここへ連れてこられたの?
勝手知ったる人の家、という感じでずかずかと編集長はリビングに進み、どかりとソファに座る。綺麗な足を綺麗に組んで、駅員さんをまっすぐ強い瞳で見つめていた。それを受けて駅員さんが、困ったような顔で立っている。……わたしもだ。
駅員さんが気まずそうなままキッチンに向かいかける。
「あの……何か飲みますか」
「いいわ」
とりあえず座りなさい、と命じられ、駅員さんは言われるまま編集長の向かい側に腰を下ろした。何の前置きもなく編集長が口を開く。
「駅の騒ぎを知ってる?」
「……はい」
「でしょうね」
頷いて、編集長はテーブルの上にあったスコアを取り上げると、くるっと丸めたそれで思い切り駅員さんの頬を打った。一瞬の出来事だった。ビシッ、と痛そうな音が響く。
ええっ!?
「……ッ」
弾みでどこかが切れたらしい。駅員さんはわずかに顔を痛そうに顰めて、そしてなぜか申し訳なさそうな顔をする。
「あんた前にわたしに何て言った!?」
「……すみません」
「すみませんじゃない!」
再び叩こうと振り上げたところへ、わたしは考えるよりも先に、二人の間に割って入ってそれを掴んだ。
「どきなさい。新入り」
「咲紀さん」
「どきません!! 経緯はわかりませんけど、一方的に叩くって、あんまりだと思います」
一瞬激しくにらみ合う。
「新入り」
「川野辺です」
「彼のこと知ってたのに言わなかったの、どうして?」
「……それは……ッ」
言えるわけないじゃない。プライベートなことだし、編集長がどうして駅員さんについて調べているかもあの時点ではわからなかった。言い噤んだわたしに、編集長は鼻で笑う。
「そんな甘いことじゃとても編集はつとまらないわよ。使えるコネはなんでも使う。これは常識」
「じゃあどうして編集長は使わなかったんです? 真哉さんのこと知ってたのに」
「当たり前でしょ」
編集長は苛々とバッグの中からタバコを取り出し、駅員さんに火、と言いながら銜える。駅員さんは絶妙なタイミングでライターと灰皿を持ってきて、編集長の前に置いた。
「つけてくれないの」
「ご自分でどうぞ」
相変わらずつまんない子、と呟いて火をつけ、ふー、と煙を吐き出した。ぱっと見マダムとツバメ風だ。……いやいやいや、散れ妄想! こういう時は聞くしかない。
「あの、駅員さんと編集長って……」
「ああ、名前はまだだったわね。わたしは秋吉佐和。ご承知の通り、山櫻社書籍部の編集長。……それから、この子の恋人って言ったら信じる?」
「……信じません!」
きっぱり言い切ったわたしに、面白そうにくっと喉の奥で笑う。そして実にあっさりと疑問の答えを口にしたのだった。
「叔母よ」




