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駅員さんの恋  作者: 高藤みずき
30/56

【8】「もうダメ」 3



 土曜日の朝。


 目覚めると目が開かなくて。怖々鏡をのぞくと瞼が惨憺たる有様だった。とりあえず、シャワーか。そう思ったとき電話が鳴った。着信は非通知だ。しばらく躊躇して、それでも何か無意識に感じ取ったのかもしれない。切らずに無言のまま出る。


「咲紀か?」


 この、声。


 嫌味な口調のくせに、わたしの名前だけ少し甘い。


「……アメリカじゃなかったの」


「アメリカだよ。海外からだって電話くらいかけられるだろーよ」


「そんなこと、知ってるけど」


 本当にかけてくるなんて、思ってなかったし。江ノ上はなんか言ってたけど。


「なんだよ。不景気な声だな」


「……朝、だからね」


 寝起きかよ、って吐き捨てて笑う。まるでいきなり時間が巻き戻ったみたいだった。ちょっと乱暴だけど、一応わたしを気遣ってる。だけどこんな言い方じゃこっちが余裕のない時にはただの憎まれ口だとしか思えないんだよ。……そうやって気づかないことどのくらいあったんだろう。


「何の用?」


「相変わらず冷たい女だな」


「ああ。手術するんだっけ? 怖くなっちゃった?」


 心まであの時に戻りたくなくて、わざと突き放した言い方をする。


「オレが死んだらお前泣くかと思って」


 春の雨音のような声だ。静かに落ちてくる。こんな話し方、付き合ってたときは殆ど聞いたことなかったな。


「……泣かないよ」


「いいや。お前は絶対泣くね」


 病気のことを知らないままでも、泣いただろうか。


「……かもね。少しは」


 その言葉に、ハッ、と笑う。


「少しかよ」


「人のこと、酷いフリ方しといてよくいう」


「違うだろ。振られたのはオレだ」


「そう、かな……ううん、多分、二人とも、じゃない?」


 否定しないわたしの耳に再び自嘲的に笑う吐息が聞こえてくる。不思議。もっと、辛かったりイヤだったりするのかと思ってた。元カレからの電話なんか。まあ、江ノ上から話を聞いてなかったら即座に切ってたか。


「待ってろよ。もう一回お前の前に現れて失敗したって言わせてやる」


「ごめん無理」


「即答かよ」


「今ね、大好きな人がいるの。だから」


「——なら、どうしてお前そんな泣きそうな声してんだよ」


 笑えよ、と苦い声がする。


「だって……知らなかったんだもん。本当に好きだとこんなに不安になるんだね」


「お前、オレにそういうこというか」


 あんたとの時だって最初は少しは不安だった。なんてことは言ってあげない。随分冷たくされて、迷って悩んで我慢して、気がつけばどんなことにもわりと耐性ができた。それを強くなったんだと勘違いしてた。


「調子よすぎるんだよ。……わたしずっとあなたと付き合ってるとき、片思いしてるみたいだった」


 息を呑む音を誤魔化すみたいな咳払い。


「お前、男がわかってねーな」


 相変わらずの上から目線に眉を顰めた。偉そうに。男って一括りにしたけど、一般的な彼氏像からは随分かけ離れてたくせに自覚ないのか。恋愛って物語みたいに甘くないんだなってことを随分教えられた気がする。


「わかってもらおうなんて思ってなかったでしょ」


「……まあな」


 考え方が似てて、一緒にいて楽だった。でもいつからかすれ違ってた。最初は甘えだと思っていたそれが、ただのわがままだと気づいて、何でも自分でさっさと決めてどんどん行ってしまうのをカッコよさだと思ってたけど、それはただの自分勝手にすぎなかった。だからわたしも許す努力をやめたんだ。でもそのときわたしは、努力だけじゃなくて、もっと違う大事なものも一緒にやめちゃったんだろう。


 心から相手を信じる前に、自分が傷つくのがイヤで距離を、壁をつくった。自分を守って何が悪いの、ってあの時は思ったけど。だけど、今は——。


「結構オレ、お前のこと……好きだったんだけどな」


「初めて聞いた〝好き〟って」


「伝わってなかったのかよ」


「……ううん。知ってた。けど言葉にして欲しかったかな」


「言えるかよ」


「でも……言葉にしてくれないとわかんないよ。優しさもわかりにくかったし。……わたしよく頑張ってたと思う」


 自分で言うか、と茶化すように呟く。


「でも頑張りかた、間違ってたんだね」


 少し沈黙が落ちた。「あのな」と呆れたような怒ってるような微妙な声が聞こえてくる。


「お前、次またそんなんだったらさらいに行くぞ」


「次ってなに」


「次ってのは、……次だろ」


「手術いつ」


「……明日」


「そう」


 ホントにわたしたち、励まし方が下手だ。下手に励まされると侮辱してるとか見下してんでしょ、とかあの頃本気で思ってた自分が可愛い。


 不器用、だったんだなあ。


「じゃあ、次はうんざりするほど幸せいっぱいにノロケてあげるから」


「大きく出たな」


「……ありがと」


「何の礼だよ」


 それは秘密だ。わたしまたおんなじ失敗を繰り返すところだった。大人になればなるほど、人は痛みに弱くなる。鎧を着込んで衝撃に備えて、どこかの回路を鈍くする。自分の心だけを守るために。楽な方に逃げようとする。


「もっと優しくして欲しいって思ってたけど、いざ優しいとなんだか気持ち悪いんだね。憎まれ口叩いてないと調子狂うんだけど」


「へいへい」


 お互いの強がりは、わかってる。


「……電話、ありがと」


「ドーイタシマシテ」


 高いぞ、と付け加えたのは、江ノ上から何か聞いたんだろうか。でもそれは知らなくてもいいことだ。これは多分あの日のお別れのやり直しだろう。じゃあまたね、とあっさりと電話を終える。


 元気、出さなきゃ。ぱん、と両手で自分の頬に気合を入れて立ち上がる。


 迷うな進め。


 やらなかった後悔より、やってから後悔したほうがずっといい。


 なんとなく、自分のやることが見えた気がした。


     *+*


 そういえば駅員さんに転職の話言いそびれちゃったな……と思ったけれど、とりあえずそれは頭の隅に追いやって、自分のやりたいことを優先することにした。何も話してくれない駅員さんへの意趣返しとかではない。それはない。すぐさま庄司くんに連絡をとり……そして数日後、トントン拍子に話が進んでわたしはめでたく山櫻社から採用の電話を受け取ったのだった。


「よしっ」


 電話を切って小さく呟きガッツポーズ。——結局わたしは、全部欲張ることにしたのだ。仕事も、恋も。やりたいことをやる前から諦めるなんてバカみたいだ。壁にぶつかったら、そのつど越えるか壊すか迂回路を見つければいい。どんな結末になっても。


 唯史ちゃんには、そして入ったばかりのクリニックのメンバーには心の底から申し訳ないと思ったけれど、でもあそこに必要なのはちゃんと歯科助手がやりたい人だと思うから。わたしみたいにやりたいことに未練たっぷりの中途半端な人間じゃなくて。


「ごめんなさい! 申し訳ありませんが今週一杯で辞めさせて下さいっ」


 お昼休みに電話を受け取ったわたしは、すぐさま控え室の唯史ちゃんのところへやって来て深々と頭を下げた。


「……どうしたの?」


 突然飛び込んで来たたわたしに、唯史ちゃんは一瞬面食らったような顔をして、それからふっと息をついて、のんびりと問いかけてくる。


「わたし、ずっと出版社に勤めたかったの。それでね、今度ずっと勤めたかった会社に採用してもらえることになったの。……だから、自分勝手だってわかってる。常識で考えても退職願いは最低ひと月前に出さなきゃいけないってわかってる。でも、」


「うん。いいよ」


「いい、よ……って、え!?」


 びっくりして顔を上げると、優しい唯史ちゃんの微笑み。


「最初からそういうことで預かってたから」


「え!? 預かってたって、」


「美紀子さんに頼まれてね」


 美紀子、というのはわたしの母の名前だ。話が見えずに立ち尽くす。どういうこと?


「咲紀が大変なとき誰かを頼らないのは、みんなよく知ってたからね」


 会社が潰れても、わたしは実家を頼らなかった。自分で何とかしようと思ってた。でもそれは……本当にやりたいことのあるわたしには難しくて。もう少しで何でもいいから、というところまで来てしまっていた。それが、わかっていたから、だからあの日、唯史ちゃんが困ってるから手伝って、って連絡して来たのか。わたしを一時的にエスケープさせるために。


 わたしは話を聞きながらバカみたいにぽかんと口を開けて唯史ちゃんを見つめた。


「じゃ、あ、最初から?」


 わたしの問いに、頷いて、でも、と続ける。


「咲紀がそのつもりなら勿論ずっとうちで働いてもらうつもりだったよ。思ってたよりも有能だったし」


「思ってたより、って失礼」


 意地悪な言い方はわざとだろう。だからわたしもわざとぷん、と頬を膨らませて見せると、唯史ちゃんはおどけたように破顔した。


「ごめん。……でも駅員さんと付き合い始めたから、ひょっとしてずっとうちに勤めてくれるのかな、とも思ってたんだけど」


 鋭い。ひょっとしてわたし、最初っから唯史ちゃんとお母さんの手のひらの上?


「そんな顔、しない」


 唯史ちゃんの手が不意にわたしの左頬に触れて、ぴくん、と反応する。一瞬身を引きかけて、やめた。


「咲紀は迷いなくやりたいことをやるのが合ってるよ」


 やっぱり見抜かれてたんだ。わたしが迷ってるの。申し訳なくて、情けなくて、そしてその優しさが嬉しくて俯いた。


「ここの仕事も嫌いじゃなかったよ。みんないい人で大好き」


「知ってるよ。みんな褒めてた。咲紀のこと」


 優しい言葉が、包み込むように降ってくる。


「ごめん、ね」


「謝らなくていいんだ。ちゃんと咲紀が来る前に事情をみんなには説明してあるから」


 だから笑って出て行っていいんだよ、と唯史ちゃんは言った。え? って、わたしは反射的に顔を上げた。


「わたしが、来る、まえって……」


 言いながらわたしは瞬間思い出していた。最初の日、わたしを見てみんなが開口一番「噂の!!」と言ったことを。唯史ちゃんはみんなにいったい何を言ったんだろう、と思いはしたけど忙しさのせいで忘れていた。


「ぼくの大好きな、すごく可愛いいい子なんだよって話もしたけどね」


 そんなことを臆面もなく言い放つ。通りでみんなわたしと唯史ちゃんをくっつけたがったはずだ。


「……恥ずかしい」


「ホントのことだし」


 唯史ちゃんの左手が伸びて、両手で頬を包まれる。


「あの言葉は、撤回しないから」


「あの、言葉って」


「もしも、もう駄目だと思ったら僕のところにおいで。待ってるから」


 あの時聞いた言葉を、もう一度くれた。泣きそうになった顔を笑顔に無理やり歪ませて、わたしはわたしの頬に触れている唯史ちゃんの両手首を掴んだ。みんなわたしを甘やかし過ぎじゃない? だからこそ、わたしはちゃんとしないと。恥ずかしくないように。


「そうならないように、祈ってて」


「……当分は無理かな」


 お互いくすりと笑いあう。


「あれ、お邪魔?」


 ノックもなしに九重先生の声がして、びっくりしたけど唯史ちゃんの手は微動だにしなかった。


「ああ邪魔だね。……オレと友達でいたかったら咲紀には絶対に変な手を出すなよ、智巳」


「それ、前にも聞いたけど」


 唯史ちゃんはわたしの頬から手を離して、いつもより少し厳しい眼差しを九重先生に向けた。


「三度言わせるな、と言ってるんだ」


 九重先生は肩をすくめて、ちらりとわたしを見る。


「……うーん、でももし咲紀ちゃんがオレを選んだ場合は構わないんでしょ?」


「そんなことありえませんっ!」


「この間はあんなに簡単に揺れたのに?」


 馬鹿にするみたいに、笑う。やっぱりこの人意地悪だっ。


「揺れたんじゃなくて、ちょっとびっくりしただけですっ」


「ふーん。……なあ唯史、わかったけど、とりあえずあと少しだけ大目に見てよ」


「智巳」


 その時、九重先生が何かを唯史ちゃんに呟いた。一瞬、唯史ちゃんの顔が強張る。……なに?


「咲紀」


「?」


「迷惑だと思ったらすぐにぼくに言って」


 ええっ!! 九重先生のそれ、認めるつもりなのっ!? あまりのことに口も利けずに九重先生を見ると、してやったりな顔をしてにやにやしている。


「もうっ、既にッ、明らかにっ、迷惑なんですけどッ!!」


 助けて唯史ちゃん、と向けた視線の先にはすまなさそうな顔をする唯史ちゃん。一体なにを言われたの……何か弱みでも握られてるんですか。


「でもわたし、今週中でここ辞めますから!!」


「なにかそれ、関係ある?」


 堪えない人だ……。まあいいや。わたし、それどころじゃないし。


「期日は守ってくださいね」


「もちろん。必ずその前に咲紀ちゃんはオレを選ぶと思うけど」


「思いません!!」


 とりあえずいずみさんたちに挨拶しなきゃ、とぷりぷりしたままわたしは〝失礼しましたッ〟と、先生たちの控え室をあとにしたのだった。


 クリニック最終日までみんなわたしと変わらずに接してくれた。身勝手なわたしの背中を、優しく押してくれるかのように。


 仕事が終わって、みんなに挨拶しなきゃ、と思ったときにはもう泣きそうだった。そんなわたしを最初に抱きしめてくれたのはいずみさんだった。いずみさんは「咲紀ちゃんのおがげで本当に助かったわ」と言ってくれた。小夜さんは「また会いましょうね」と言ってくれた。敦子さんは「あんたの根性は保障する」。藤島君は「残念です」で、里美さんは顔を涙でぐしゃぐしゃにしながらわたしを抱きしめて「イヤな会社だったら速攻辞めて帰って来るんだよ」と言ってくれた。


「咲紀さん」


「津田ちゃん」


 津田ちゃんは、にっこり笑った。


「また泊まりにいってもいいですか?」


「……もちろん!」


 辞めるからって終わりだと思わなくてもいいってことだよね。素直に嬉しかった。ほんの少ししかいなかったわたしに、みんなすごく優しい。後ろ髪はすごくすごく引かれたけど、これは前に進むための痛みだ。



 そしてわたしはその翌週、山櫻社にやって来たのだった。




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