【6】「限界」 3
「部屋には入れないけど」
「わかってる。お前友達だろうがなんだろうが、絶対オトコ自分の部屋に入れないもんな。真面目っつーか固いっつーか」
これは、会ったばっかりのころの飲み会の時、終電なくなったのに泊めてやらなかったことまだ恨んでるんだろうか。
「このへんファミレスとかないの?」
「あるよ。少し歩くけど」
「川野辺がいいなら」
「……いいけど。あ、でもわたしお財布持ってこなかった!」
とって来る、と駆け出そうとしたわたしを〝いいよ奢る〟と江ノ上が止めた。
「まあ、迷惑料っつーか」
別にそんなの欲しくはなかったけど、どうも口実臭かったので頷く。しばらく黙ったまま歩き出し、やがて遠くに灯りが見えてきた。
「新鮮だったんだよなー」
「なにが」
「友達でも男だから泊めないってオンナ」
「……あんたが危険だからでしょ」
「でもあの頃はまだそんなの知らなかっただろ? 荻野とかも断られたって言ってたし」
「そりゃ」
荻野くんというのは同じゼミの子で、飲み会の流れで泊めてって言われてやっぱりお断りしたことがあった。そんなことまでよく知っている。だって男の子を泊めて何か間違いがあったらイヤだ。部屋に入れた以上そのリスク覚悟でしょ? 普通。自己責任って言われても仕方ない。
「オレ今まで断られたのお前だけだし」
なにそれ自慢? だからって意地になってるんじゃないだろうな、と少し距離をとる。
「何で先輩はよかったわけ?」
深夜のファミレスは意外と混んでいて。少し待った後奥まった席に通された。ドリンクバーを注文し、江ノ上は珈琲、わたしはココアを持って来る。いきなりのその質問にしばし考えた。
「お前いいなって言ってくれたから、かな」
「それだけ!?」
信じられねえ、という顔で江ノ上はわたしを見つめた。
「悪い? もちろん、それだけじゃないけど」
ゼミ関係で知り合って、みんなで遊びに行くようになって、何度かメールとか電話のやりとりがあって、そしてある日いきなり言われたのだ。「お前っていいな」って。は? と首を傾げたわたしに「いっつも我慢ばっかしててお前マゾかよ」と続け、憤慨寸前に「そういうとこ、悪くないけどな」って囁かれた。みんなが気づいてなかったところに気づいてくれたのが嬉しかったし、嫌う理由はその時はまだ何もなくて。当時周りの友達はどんどん彼氏ができていって寂しかったのもあると思う。わたしはなんだかふわふわと舞い上がったまま、イエスといってしまったのだ。
「わたし自分のこと認めてもらえるとそれだけで嬉しくなっちゃうんだよね」
それで何度か失敗してるけど。なんとなく付き合い始めてなんとなく自然消滅が定番で。実は前彼が最長記録だ。ずっとそれは唯史ちゃんのせいだと思ってたんだけど、違ったのかもしれない。
「俺だってお前のこと認めてたけど」
「便利に使える、って?」
「だけじゃないって。……でもオレはダメなんだな」
「さすがに認めてくれれば誰でもいいわけじゃないよ」
でも面識があまりなかったときなら、江ノ上が女関係にだらしない性格だと知らなかった頃なら可能性はあっただろうか。そう考えかけて即座に首を横に振る。……いや、ない。江ノ上はない。間違って付き合ったとしても即別れる未来しか思い浮かばない。そんなことを考えつつココアを吹き冷ましながら飲んだ。
「なあ、お前先輩がどうしてアメリカ行ったか知ってるか?」
「え?」
いきなりの話題転換。……違う。多分こっちが本題だ。わたしはカップを置いて江ノ上の次の言葉を待った。
「お前のことだからどうせ聞かなかったんだろ。何しに行くのか、とか、どうして行くのか、とか、いつ帰って来るのか、とか」
「……だって、」
あいつは待つなって言った。切り捨てられたのはわたしでしょう? それをいじましくそんなことを聞くなんて、なけなしのわたしのプライドが許さなかった。
「そういうとこ川野辺って意固地だよなー。可愛くないっていうか」
「余計なお世話!」
彼氏以外に可愛いと思われる必要はない。……その彼氏に可愛くないと言われたわたしがそう言っても説得力がないけど。
「聞けばよかったんだ。で、言えば良かったんだ」
「なにを」
「一緒に行く、か待ってる。もしくは行かないで」
何を言い出した。
「は? 意味わかんない。振られたのわたしだよ?」
「振ってない」
「え」
「先輩はお前のこと、振ってない」
意味がわからなかった。答えを求めるようにココアをじっと見つめる。もちろんそこに知りたいことはない。ため息をついた。こういうもったいぶった物言いは好きじゃないのに。
「で? なんでそれを江ノ上が知ってるの?」
「先輩から直接聞いたから」
「いつ」
「アメリカに行く一週間くらい前」
先輩殆ど荷物処分してて、オレが欲しそうなヤツだけ届けに来てくれたんだ、と江ノ上は言った。
「多分それは口実で、お前のこと頼みに来たんだろうな、あれは」
「……なんて、言ったの?」
聞くなと心のどこかが叫ぶ。だって、今更聞いても仕方がない。
「〝お前が泣かないようによろしくな〟」
江ノ上の声が、あいつの声に聞こえた。ぴくり、と指先が震える。
「〝これは賭けだ。咲紀が一緒に行くっていうなら連れて行く。待ってるというなら戻ってくる。行かないでくれと言われたら行かない〟って」
「なにそれ。……わたしのこと、試したってこと?」
先に待つなと言ったのはあいつだ。そしてわたしはあいつに対して何も言わなかった。選んだのは……。
「発つ前日、電話があってさ。先輩後悔してたよ」
「……なにを」
「もっとお前を大事にしてやればよかったって」
今更言うか。待ち合わせに遅れるのなんて毎回だった。ドタキャンされたのも一度や二度じゃない。そのくせ自分が待たされるとすぐに不機嫌になって。わたしが怒るとすぐに逆ギレして、ため息と舌打ちがデフォルトだった。一緒に居ても楽しくなかった。笑えなかった。気がつけば自分を守るのに精一杯で、お互い優しくなんかできなかった。 なのに、どうして今更そんなことを言う!?
「お前に甘えすぎた、ってさ。あの人懐にいれた人間ほど扱いヒドイからな」
「今更……」
「だよな」
「……江ノ上。あの人、なにしにアメリカ行ったの?」
聞くな。
「知りたいか?」
聞くな、わたし!
「手術だよ。会社の検診で、心臓の血管に奇形が見つかって国内じゃ手術できる医者がいないんだと」
「……手術……?」
信じられない、と江ノ上を見つめる。そんなの、知らない。
「場合によっては移植が必要で、放っておけばいつ破裂するかわからない時限爆弾みたいなものらしい。成功率は五%だって言ってた」
一ヶ月に一度会えれば良いほうだった。わたしが学生のうちはあいつの部屋によく入り浸ってたけど、いざ自分が勤めたらそれどころじゃなくなった。疲れてたけど別に病人ってわけじゃなかったのにそれを言い訳にしてた。会おうと思えばいつでも会えたのに。
〝一緒に行くっていうなら連れて行く。待ってるというなら戻ってくる。行かないでくれと言われたら行かない〟
そんなこと、知らない。わたしは知らない。
「どうしてもっと早く言わなかったの」
「先輩に言うなって言われてた」
まあ、そう言うだろう。アイツは同情されるのが一番嫌いなんだから。
「それに、知らないほうが、お前オレのこと選びやすいかと思って」
「は?」
思わず言葉を失って江ノ上を見ると、どうやら冗談ではなく本気で。わたしは小さくため息をついた。
「選ばないよ」
「わかってる。正直、川野辺がこんなに早く別の奴とくっつくとは思ってなかった」
なんだそれ?
「わたしが誰かと付き合うのに、江ノ上の許可が必要なの?」
駄目だ。キレそうだ。なにがって、あいつと江ノ上の身勝手さに。そして、わたしの冷たさに。どうしてあの時聞かなかったんだろう。何しに行くの? って。
「……そうじゃないけどさ」
でも、聞いてもそれでもわたしはついて行く、とは言わなかったかもしれない。だって、アイツが「待たなくていいから」って言ったとき、わたしはホッとしたんだから。気がついたらとっくに終っていた恋だった。わたしの中では、だ。あいつだってそうだったんじゃないの?
「もう手術は終わったの?」
「いや。年明けになるって言ってた」
「ふうん」
これ、と江ノ上がわたしに二つ折りにしたメモを差し出す。
「なに?」
「先輩の連絡先」
反射的に手を止める。それを受け取る資格は今のわたしにはない。
「いらない」
「一言でも何か言ってやれよ。先輩お前のこと今も」
「だったら! どうして自分でそう言わないの。なんで試したりしたの? ……もう遅いよ。もう終わってるんだから」
大変なんだろうとは思う。可哀想だとは思う。気の毒だとは思う。だけどそばに行って何かしてあげようとは、もう思えない。思わない。思っちゃいけない。あいつだってそんなこと望んでいないだろう。それにもう一度やり直したとしても、きっとまた同じことになる。それはあいつだってわかってるはずだ。
あの日あいつは賭けをして……負けたのは果たしてどっちなんだろう。
「先輩から連絡が来ても、お前電話切らないか?」
「来ないと思うけど……まあ、ムカつくこと言われなければね」
「じゃあお前の連絡先聞かれたら教えてもいいか」
「聞かないと思う」
今更、話すことは何もない。言い訳もしない。わたしはあの日、もう選んでしまったんだから。
「わかった。でも聞かれたら言うからな」
お互いに探るような沈黙。さすがにこれ以上の空気に耐えられなくなって席を立つ。
「ご馳走様」
「川野辺」
「ん?」
「お前、先輩のこと好きじゃなかったのか?」
「……嫌いじゃなかったよ」
そか、と江ノ上はにやっと笑ってみせた。そういえばこいつ、今日は一度も煙草を吸わなかった。少しは気を使ってくれていたのか。わたしはちょっとだけ手を振って、店を後にした。
帰り道、ポケットの中で携帯が震えた。びくりとしてそれを取り出す。表示は駅員さんで。わたしはそれをしばらく見つめたあと、そのまま握りしめた。駄目だ。今は駄目。なにを口走るかわからない。寒さに両手をポケットに突っ込んで、携帯の震えが止まるのを待つ。無性に駅員さんの声が聞きたかった。でも今聞いたら会いたいと言ってしまいそうだった。無様に、甘えてしまいそうな気がする。こんな例えを考えるのもいやだけど、もしもアメリカに行く、と言ったのが駅員さんだったならわたしは何て答えるだろう。
ぎゅ、と唇を噛む。
駄目だ。答えを出すには、駅員さんと出会ってからの日数が絶対的に少なすぎる。あの日、あの時の自分の選択を間違っていたとは思わない。なのに。どこかで何かを後悔してる。ねえ。なんであいつは駄目だったの? 気持ちが冷めたと思っていたのはわたしだけだったの? 振ったのは、わたしだったの? これ幸いだと思って? それがわかったからあいつは〝待たなくていい〟と言ったのか。振ったあいつと振られたわたし、どっちが辛かったのかな。思考がぐるぐる回って吐き気がする。駄目だ。これ以上考えちゃ駄目。考えても仕方がない。なのに。まるで悪い夢を見ているようだ。やたらと優しかった、好きだった頃のあいつの思い出ばっかり思い出す。どこで気持ちは変化したのかな。感傷に浸りかける自分に舌打ちする。
今更。
家に帰るまでだ。——そう心に決める。そしたらシャワーを浴びてさっぱりして、駅員さんにおやすみのメールを入れよう。だから。家に帰るまでのほんの少しの間だけ、あいつのことを考える。好きだった気持ちも、確かに嘘じゃなかったんだから。死なないで。そう思うくらいは、許されるかな?
そう思った罰が当たったのかなんなのか、その日を境にわたしは駅員さんにぱったり会えなくなってしまった。メールの返事も来ないし、電話もない。勿論駅で偶然会うことすら。どうして? 何かあったの? わたし嫌われた?
イヤな考えばかり頭の中を駆け巡る。でもあの日送ったメールにすぐに電話があって、いつものように優しくおやすみって言ってくれた。心当たりはない。
何度かテンペストにも行ってみたけれど、それも無駄足だった。無駄足、って言ったら織田さんに失礼だけど。ビールだって料理だっていつもどおり美味しかった。だけど織田さんも駅員さんのことは何も知らなくて。何度かマンションにも行こうかと思ったけど、それじゃまるっきりストーカーだ。そう思うと近づくことすらできなかった。
そうこうしている間に、今日はもう大晦日。
にこにこクリニックの営業は二十六日まで。二十七日からはもう長い連休に入っていて、わたしはなんだか迷子になった気持ちだった。一月四日までなどという医療系にしては異例の長期休暇なのはきっと九重先生の意向なのだろう。それが今はちょっぴり恨めしい。仕事をしていたほうが、余計なことを考えなくてもすむのに。 本当なら実家に帰ろうと思っていたけれど、こんな気持ちのまま帰れない。
大掃除もした。年賀状も出した。はああーっ、と深々とため息をついて、何の気なしにテレビをつける、と。聞き覚えのある音が、耳に飛び込んできた。
「ええっ!?」
第九の特集?
それは今回ソールドアウトになったというステージで。天上の音楽と呼ぶに相応しい美しい音色。ヴァイオリンのデュオ。一人は見覚えのある見た目だけは美しい生意気な天使、藤間樹。そしてその隣りで樹くんを凌駕するほどの圧倒的な輝きを放っていたのは。
……駅員さん、だった。
えええッ!? わたしは思わずテレビにかぶりついた。駅員さんだ。間違いなく。
カッコいい。じゃなくて! どうして!? ヴァイオリニストになるのはやめたんじゃ。イヤ。別にそれはいいんだけど。駅員さんがやりたいことをやるのはいい。駅員さんの人生なんだから。でも一言もないというのはちょっと、ううんだいぶ寂しいかもしれない。そう思うのは贅沢なんだろうか。
唐突に映像が終わって、女性アナウンサーが頬を染めながら〝素敵でしたねえ〟と言っているのが聞こえた。それが演奏じゃなくて、本人たちのことを言っているのは明白だ。
えーと。どうしよう。
そこにタイミングよく携帯がなって、ひょっとして駅員さん!? と期待して見ると、表示は津田ちゃんだった。
「もしもし?」
「咲紀さんっ! 今っ、テレビでこの間の駅員さんそっくりな人がッ!」
ああ、どうしよう。
「へ、へえ」
「えーっ、咲紀さん観てなかったんですかあっ!?」
「……うん。ごめん」
「ホントにそっくりだったんですよう。でも駅員さんがヴァイオリニストなんてそんなことあるはずないですよねえ。うん。やっぱりなんていうかー、あっちの方がこう、芸能人ーッて感じでした」
ごめん、津田ちゃん。それ多分本人なんだよ。でも迂闊にはそんなことは言えず、口を噤む。
「そ、っか。観たかったな」
「じゃあ今度またやってたらすぐ連絡しますね」
「ん。ありがと」
はーい。じゃあよいお年をー、と津田ちゃんの余韻を残して電話が切れる。切れた電話を見つめて、考える。よいお年を、か。駅員さんに電話してもいいかなあ。でもまた繋がらなかったら凹むかも。けど、このままもやもやしたまま年明けなんてイヤだ。待って。わたしいつもこんなにうじうじしてた? 連絡が来ないのはきっと連絡のできない状況だからだ。わたしが知ってる駅員さんならそう。信じよう。呼び出しかけた指を止めて、充電器にセットする。
「コーヒーでも淹れようっと」
好きな音楽でも聴いて、買っただけでまだ読んでない本を読んで年越しっていうのも悪くない。そして、元旦にも駅員さんから連絡がなかったら、お休みいっぱい実家に戻ってだらだらしよう。
多分ずっと携帯は手放せないと思うけど。
*+*
どこからか、かすかに鐘の音が聞こえる。気がつけばもう少しで今年も終わりだ。薄くかけてあった音楽を止めて、ベランダに出る。息が白い。ロングカーディガンの左右を合わせて、はあーっと息を吐いた。
「さむ」
怒涛のような一年だった。大学卒業して、会社に入って、仕事の愚痴を言う暇もなく会社が潰れて。彼氏と……別れて、歯科助手をやることになって、駅員さんと出会って。ちょっといきなり時間が一気に進みすぎちゃったのだ。普通なら一年くらいかけてあるような出来事がひと月に凝縮されてた気がする。——もう少しくらいゆっくりでもいいよね。
夜空を見上げて月を探す。曇っているのかその輝きが見つからない。
「や、だ」
ぽろっと涙が零れる。 嘘でしょう。月が見つからないくらいで泣くなんて。
そんな自分にびっくりしてるときにインターホンが鳴ってさらにびっくりする。慌ててごしごしっと涙を拭って、ちょっとだけ鏡でチェックする。よし。大丈夫。誰だろうこんな時間に、とインターホンの受話器を取り上げる。
「はい」
モニターに、映し出されていたのは。
「……栗生です」
ぽとり、とインターホンの受話器が落ちて慌てて拾い上げる。確かに映像に映っているのは駅員さんだ。わたしは玄関に飛びついて、どうしてだか急いでるときだけなかなか開かないチェーンロックを苦労して解除する。そして、鍵を開けて、ノブに手をかけ一瞬だけ呼吸を整えた。ああ、服! 来るってわかってたらもう少し何とかしておくんだったのに、と思っても後の祭りだ。
それよりも。早く。早く会いたい。
物凄いリアルな夢オチだったらどうしよう、とドアを開けるまで気が気じゃなかった。でもそこにいたのはホンモノの。駅員さん、と思う前に抱きしめられる。冷え冷えだ。少しだけ汗をかいているのは早くわたしに会いたいと思ってくれていたのだと少しくらいうぬぼれても許されるだろうか。
「真哉さん」
「……すみません。連絡できなくて」
不思議。抱えてた不安も全部、駅員さんの声で、ぬくもりで、すうっと消えてゆく。
「いいんです。忙しかったんでしょう?」
ふーっとため息をついて、駅員さんはわたしを抱きしめたまま凭れかかる。
「だ、大丈夫ですか?」
「……実は、年末に」
「ストップ」
片手で駅員さんの口を押さえて、びっくりしたところへにこりと笑う。
「まずは上がって下さい」
せっかく会えたのに玄関はないだろう。
「それとも、顔見ただけで帰っちゃうんですか?」
冷たい両手を暖めるように触れて、駅員さんの顔を覗き込む。
「まさか」
くすっと笑って、駅員さんはわたしを子供を抱き上げるように縦抱きにして部屋に運ぶ。なんてことを!
「ちょ、わたし重いですってば! 駄目ですッ。降ろしてくださいーっ!」
はいはい、と降ろしてくれたものの、駅員さんの腕はわたしを抱きしめたままだ。
「真哉さん?」
「限界」
「え?」
「咲紀さん不足です」
ぎゅうっと抱きしめて、補充させて下さいという囁きに、わたしもどきどきしながら返した。
「……わたしも。……真哉さん不足」
ほんとに? と笑いを含んだからかうような声が耳元に落ちてくる。ふと気がつくと、もう既に年が明けていて。少しだけ駅員さんから身を離す。
「明けましておめでとうございます」
あらたまったわたしに、駅員さんも時計の表示に視線を走らせた。
「本当だ。明けましておめでとうございます」
くすっと二人で顔を見合わせる。
「「今年もよろしくお願いします」」
何かを乞い願うように、ゆっくりと唇が重なった。




