【6】「限界」 1
「メリークリスマス!」
テンペストのドアを開けると、織田さんがにこやかにわたしたちを迎えてくれた。
昨日は結局津田ちゃんが泊まってくれて、早番だったわたしが出るのにあわせて朝一緒に部屋を出ることになった。心配していた津田ちゃんは晴れ晴れと笑って、今日はシングルベルの会に行ってきます、と言っていた。彼女の明るさに救われた夜だった。わたし一人じゃきっと眠れなかった。通常通りそのまま普通に仕事が出来たのは、みんなのおかげだ。
仕事のあと一度家に戻って、それっぽくオシャレしたりして、駅員さんが迎えに来てくれるのを落ち着かない気持ちで待った。昨日はあんなに怖い思いをしたのに、人の気持ちって不思議だ。早々と準備をしてしまうと、今度は何だかどきどきしてしまって、無意味に部屋の片付けなんかをしてしまった。
あー、もう。どうしよう! どういう顔をしていいかわからないーっ。
インターホンがなった時は本気で心臓が止まるかと思った。ドアをあけると、駅員さんがいつものように笑顔で。わたしも自然に笑顔になった。黒の細身のパンツに黒っぽいグレーのチェスターコート。イケメンは何でも似合う、とはいえどれも質が良さそうだ。わかってる。必要以上に服を見てしまうのは恥ずかしくて顔を直視できないからだ。
「こんばんは。咲紀さん」
「こんばんは。あの、昨日は本当にありがとうございました」
「僕も、昨日はありがとう」
「えっ……?」
ありがとうって、どれが!? 何だか二人で照れくさそうに微笑んでしまって、二の句が繋げない。
「行きましょうか」
結局駅員さんに促されて歩き出す。慌ててバッグを掴んで戸締まりする。
「テンペストで待ち合わせでもよかったのに。わざわざごめんなさい」
「いえ。僕が来たかったんです。——まだ心配だったし。それに、どちらかが先に一人であの店に行ったら、間違いなく煩いから。あいつが」
「あいつって、織田さん?」
「そう。覚悟しておいて下さいね」
そう、言われていたのだけれど。予告通りクリスマスビールフェアをやっている店内は予想以上の混み具合で。どうしようかと見回したところで織田さんがハイテンションで出迎えてくれた。
「メッリークリスマス!」
「うるさい」
「今晩は織田さん。大盛況ですね」
「おかげさまで。……ふふーん。まさか二人で来るとはねえ」
にやにやと笑いながら、織田さんは駅員さんを肘で小突いた。
「奥のカウンターに席をとってある。個室じゃなくて悪いな」
「黙って席に案内しろ」
「へいへい」
それでも目立たない落ち着く席だ。二人ともコートを預けてから、相変らずカッコいい私服姿の駅員さんを堪能する。わたしのグレーのチェックのワンピは可愛すぎたかなあ。そう思って重ね着のインナーは黒だ。
「可愛い」
不意打ちでそんなことを囁かれて、頬が赤らむ。
「浮かれて思わずキスとかすんなよ」
「……お前なあ」
おしぼりと、お通しの、なんだろ、これ。チーズ? を、持ってきた織田さんを駅員さんが睨む。ここに来るとちょっと少年っぽい駅員さんが見られるのが何だかちょっとお得な気がする。
「何にする?」
それはもちろんクリスマスビールでしょう、と思ったら渡された手書きのメニューにはまたしても見たことも聞いたこともない名前が17本くらいずらっと並んでいて、面白そうな顔をしている織田さんを上目遣いに見上げた。
「えと、オススメを」
ずっとこのお店に通えばこれ、って言えるようになるのかなあ? あ、クリスマスビールはこの時期だけか。
「わかりました。お前は?」
「な」
「生とかいうな! 今日くらい彼女に合わせてもう一種類くらいクリスマスビール飲ませてやれよ」
ええっ!?
「え、いや、そんな。好きなの頼んでくださいっ。気にせずに!」
絶対織田さんはわたしにかこつけて駅員さんに生以外のビールを飲ませたいだけに違いないのだ。そんなのは申し訳なさ過ぎる。本当に気にしないでください、と駅員さんを見ると、諦めたようにため息をついた。
「……じゃあ、任せる」
「オッケー」
うきうきと店の奥に去ってゆく織田さんを見送って、ちらりと複雑そうな顔をしている駅員さんに「無理しなくてよかったのに」と小声で囁く。駅員さんはちょっと申し訳なさそうにいえ、と苦笑した。
「ここで生ビールを頼むのは単にあいつへの嫌がらせだから」
「嫌がらせ、って」
なんで? ビアバーで生ビール、別に正しいよね?
「あいつお客さんには求められないと薀蓄を語らないんだけど、僕にはうんざりするくらい語るんです」
だからいつも生ビール、という駅員さんに思わず笑った。
「お邪魔だったかなあ?」
お待たせ、とわたしの前にグラスをおいて、焦げ茶色の発泡酒が注がれる。そして、隣りにことんと雪景色のラベルの可愛い瓶を並べた。
「可愛い」
「グーデンカロルス・クリスマス。ヘットアンケル醸造所のダークビールです。濃厚な甘味と苦味のバランスに特徴があって、アルコール度数は10%以上と高めだけど、お酒強いでしょ?」
お見通し、とばかりにウインクする織田さんに苦笑を返す。
「いやー、普通です」
「真哉にはこれ」といって、駅員さんの前にグラスと、椅子の上で大胆に足を広げたサンタの衣装を着た女性のラベル。
「メール・ノエル。別名セクシーサンタビール。飲みやすいし、アルコール度数も低いからホントはこっちの方が彼女向きなんだけどね」
「……こういうセレクトするからお前はいつもいい人どまりなんだ」
駅員さんが顔を顰める。織田さんは「お前だけなんか幸せそうなのムカつくし」と豪快に笑ってから、あとでオードブルを持ってくる、といって去っていった。
「ホント仲いいですね」
「そう見えますか」
「見えます。……たしか織田さんと同い年なんですよね? 幾つなんですか?」
サンタビールを手酌しようとした駅員さんから瓶を取り上げて注ぐ。こっちは見慣れた色だ。
「二十九です」
言ってませんでしたか、とグラスを取り上げる。初めて聞きました、とわたしもグラスを持ち上げて、メリークリスマス、とグラスを触れ合わせた。
「あ、美味しい」
濃厚で複雑。ビターチョコレート、と言えなくもない。
「こっちも飲んでみますか?」
「……はい」
一瞬だけ躊躇って、駅員さんのグラスに口をつける。ええい、キスもしたのに間接キスにどきどきするな!
「これも美味しい」
スパイシーで飲みやすい。確かにごくごくいってしまいそうだけど、これだって度数は8%を越えている。あなどれない。わたしのビールも一口飲んで、お互い顔を見合わせた。
「わたしたち、知らないことばっかりですね。考えてみれば」
まだ会って数日で、しかもこの駅員さんときたら会えば会うほど謎が深まってゆくような気がするのだ。
「じゃあ、これから知っていきましょう。とりあえず、テンペストのあとはうちに来ませんか?」
綺麗な顔が至近距離まで近づいて、どきんとする。一瞬返事が遅れた。ええと、それってつまりそういう意味? 駅員さんは楽しそうにわたしを見ている。くそう。
「行きます」
負けるもんか、的に必要以上に力が入ってしまったわたしに、駅員さんはくすくすと笑った。
「そんなに緊張しなくても、咲紀さんが嫌がることはしません」
「駅員さんがそんなことするなんて、思ってません」
グラスを持つ手も綺麗で、ごくりとビールを嚥下する喉もとすら色っぽい。ばかばか。わたし何考えてるのっ! 駅員さんは肩をすくめてわたしをちらりと見た。
「次、駅員さんって言ったら保証できませんけどね」
危うくグラスを倒しそうになってあわあわしてしまった。
「そこまでだ!」
へ? 何者かがわたしたちの間に割り込んだ。そう。まさにテンペストのように。
「真哉に触るな!」
わたしと駅員さんの間に割って入ったのは、金髪と見まごうほどの茶髪。華奢な長身。色が白くて目鼻のはっきりした、天使のような顔立ち。ブラックジーンズにダッフルコート。マフラーで顔が半分くらい隠れてるけど……。見たことあるな。そして気づいた。
「あ」
これはいつぞやの、ヴァイオリニストだ。
「イツキ」
駅員さんが、目を見開いてソリストを見ている。イツキとよばれたヴァイオリニストはわたしを睨みつけたままだ。……えーと、わたしこの人に何かしましたか。元々やられっぱなしは性に合わないので、立ち上がってにっこりと笑ってみせた。
「何か?」
イツキくんは、片手でぐっとマフラーを引き下げて叫んだ。
「お前は真哉の何だ!」
なにって……。えーと、ちょっとそれはまだ自分では言いにくいかも。緩みそうになった口元を引き締める。
「それ、あなたに関係ある?」
見たところ、この子わたしより年下だ。つい舐められるもんかと虚勢を張ってしまうのはわたしの悪い癖だ。
「ある! 真哉はオレのだ!」
ピシ、と店内中が固まった気がした。はあ? ——真哉はオレの? オレの!? ……そ、それはひょっとして、いまやわりとフツーに認知度の上がっている……いわゆる、BでLな人……? え、駅員さんが!? どう考えていいのかわからなくて、一瞬目が泳ぐ。
「まてイツキ」
苦々しい顔をした駅員さんが、背後からイツキくんの口を片手で塞ぐ。
「その誤解を招くような発言はよせ。誰がお前のだ」
むー、むー、っとイツキくんがもがく。
「彼女は僕の大事な人だよ。……だから傷つけるのは許さない」
ぴたりと動きを止めて、信じられない、という顔で口を塞がれたまま駅員さんを見やる。店内にざわめきが戻ってくる。クリスマス仕様のオードブルを持ってきた織田さんがひゅう、と口笛を吹いた。
「真哉ってば大胆」
オードブルはターキー、キッシュ、マッシュポテトにマリネ。それにハーブのサラダが添えてある。
「織田さん、この人……」
何だか駅員さんから聞くのがイヤで、織田さんに聞いてしまう。そんなわたしに気にした様子もなく織田さんはすぐに答えてくれた。
「藤間樹。ヨーロッパで最近評価されてるヴァイオリニスト。あれ? この間リサイタル行ったんじゃなかったっけ?」
行ったんですけど、パンフレットとかはなかったんですー。名前を聞かなかったわたしもわたしだけど。なので曖昧に笑って誤魔化す。
「同級生、じゃないですよね」
とても二十代後半の肌じゃない。それでも同い年ならびっくりだけど。織田さんはえーっと、とたっぷり考えたあと曖昧な言葉を返した。
「確か、十七」
やっぱりか! 相変らずむーむー言ってる樹くんに、駅員さんがため息をつく。
「黙るなら離してやるけど」
一瞬色々考えたらしい樹くんはこくりと頷く。ようやく自由の身になって、一応黙りはしたものの相変らず目はわたしを睨んだままで。まさか睨み返すわけにもいかなくて、わたしは立ち飲みは行儀悪いかな、と思いながらも黙ってビールを飲んだ。
「樹、どうしてここに?」
「真哉に会いに来たに決まってるだろ」
「一人で?」
「そ。ねー、一誠、オレの席は!?」
「あるわけないだろーが。今日が何だと思ってんだ?」
クリスマスイブだぞ、となぜか胸を張って答える織田さんに、樹くんは舌打ちした。
「じゃあどうしろっていうんだよ」
「働け」
「ああ!?」
「未成年だろ。叩き出されないだけありがたいと思え」
織田さんは無造作に樹くんのマフラーを掴んで店の奥に引っ込んでいった。……えーと、聞いていいのかな。そんなわたしの様子を察したのか、先に駅員さんが口を開く。
「樹は昔留学中にお世話になった方の息子さんで、どうしてだか妙に懐かれてしまって」
なるほど。大好きなお兄ちゃんをとられちゃった弟って感じなのかな。少し、度が過ぎる気もするけど。あの様子では、今夜駅員さんのうちに行くのは無理そうだ。——ホッとしたような、がっかりしたような。どうぞ、と駅員さんが椅子を引いて座らせてくれる。隣りに座った駅員さんは少し疲れた様子だった。まあ、気持ちはわかる。
「まったく」
隣りで物憂げで艶っぽい息が聞こえた。
「我慢させられるのも、悪くはないですけど」
ね、と首をかしげるようにしてわたしの顔を覗き込んでくる駅員さんに動揺を隠せない。そ、そんな返事に困ること聞かないで下さいーっ! しかしそこへ、またしても邪魔をするようにヴァイオリンの旋律が割って入った。……アヴェ・マリア。さっきのラフな服装からウエイターの格好に着替えさせられた樹くんが、実に簡単そうにさらっとうっとりするほど深い音色を奏でている。あんなにキツイ性格なのに。才能には関係ないんだなあ。
「CDなんかよりよっぽどいいだろ」
戻ってきた織田さんがこっそりと囁く。ええっと、その発言はあまりに失礼なのでは。一応相手はプロなのだし。
「ギャランティー発生したらどうするんだ」
「そこはギブ&テイクだからダイジョーブ」
なにを引き換えにしたのやら。
「それに、お前が悪いんだぞ」
織田さんが怖い顔で睨みながら駅員さんに顔を寄せる。
「なにが」
「あいつのリサイタルに迂闊に彼女を連れてくからだ。こうなるってわかってただろ? 自業自得」
そういえば、前にもそんなこと言ってた? どうしてだろう。わたしはきょとんとしたまま駅員さんと織田さんを見比べた。
「どういうことですか?」
織田さんが気の毒そうなのとニヤニヤを足して二で割ったみたいに笑う。
「覚悟しておいたほうがいいよ」
「え?」
「真哉が今まで彼女と長続きしなかったのは、みんなあいつのせいだから。まあだからリサイタル行かなくても遅かれ早かれあいつは来ただろうけど」
「一誠!」
「なんだよホントのことだろー」
織田さんに突っ込まれて、駅員さんが口を噤む。まあ、さっきの様子じゃそれもありか。いつの間にかアヴェ・マリアからクリスマスソングメドレーに変わっている。注文を受けて織田さんが去っていった後、わたしはこっそり駅員さんの耳元に囁いた。
「わたし、頑張ります」
「咲紀さん」
「本人同士以外の問題で、真哉さんのこと諦めたくないですから」
やっと始まった恋なのだ。始まってすぐに終わらせるもんか。頑張りたい。駅員さんはいつもの笑みを浮かべて、するりとわたしの手を絡めとると、実に自然に口付けた。
ひいっ!
「だから、不意打ちでそういうの駄目ですってば」
どきどきを誤魔化せずに、少しだけ咎めるように駅員さんを見る。店内が暗くてよかった。絶対わたし顔赤いし!
「咲紀さんがもうイヤだと言っても、僕も諦めませんから」
どうしよう。嬉しい。
「そこっ! くっつきすぎなんだよ!」
樹くんのブーイングに、駅員さんは構わずわたしの肩を抱いた。
「邪魔すると、家に帰すよ。樹」
その最終警告に、世にも恨めしそうな顔をして、樹くんはぐっと口を噤んで、その憤りをヴァイオリンに集中させたのだった。




