【5】「君は僕のもの」 3
「咲紀」
「ん?」
「あいつ」
「あいつ?」
「津田さんの彼氏」
「ああ……」
どきん、として言葉を濁す。無意識に身構えてしまったのは見逃して欲しい。
「津田さんの彼氏って言ってたけど、あいつがホントに好きなの、咲紀じゃない?」
これが経験値の差というものなのだろうか。びっくりして咄嗟に誤摩化しようもなかった。……いや、わたしが鈍いだけなの?
「どう、して?」
「わかるよ。特に、自分と同じ子を見てればね」
唯史ちゃんの言葉はやっぱりいちいち心臓に悪い。
「って、そう切り返すってことは図星かな」
「唯史ちゃん」
「気をつけるんだよ。あいつ、ちょっと普通じゃない感じがした」
真剣味を帯びたその声にぞくり、と再び鳥肌が立つ。普通じゃないのはもうわかってる。でもだったらどうすればいいんだろう。——その時、絶妙なタイミングでインターホンが鳴らされた。ぴくり、と身体が震える。
こんな時間に、誰? まさか。
「誰か来た?」
「みたい。ごめん。電話切るね」
わたしの声、震えてない? 大丈夫?
「うん。じゃあ、また明日」
ぷつりと電話が切れて、途端に心もとなくなる。唯史ちゃんと通話を繋いだまま待っていてもらえば良かっただろうか。ごくりと息を飲んでインターホンの受話器を取り上げた。手が震える。
「はい」
「あ、夜分すみませんとなりの川島ですけどー」
少し掠れたような女性の声にわたしは心底ホッとした。川島さんは顔を合わせるとよく挨拶してくれるカッコいい感じの女の人だ。
「はい。ちょっと待って下さいね」
チェーンロックを開けて、鍵を解除する。
「あ、今晩はー」
今晩は、と挨拶して、川島さんは前下がりのボブヘアをかきあげながら少し恥ずかしそうににゅっとわたしに大量にりんごの入ったビニール袋を差し出した。
「これねー。うちの田舎からりんご大量に送ってきちゃって。こんなに食べきれないっての。嫌いじゃなかったら少しもらってくれない?」
「うわあ、こんなにいいんですか?」
「いいのいいの。ダンボールいっぱいあるんだもん。あーよかった。それじゃ、おやすみなさい」
「ありがとうございます! おやすみなさい」
彼女が部屋に入るのを見届けて、わたしも中に入ろうと背中を向けたその時だった。
「……ンぐッ!」
後ろから羽交い絞めにされるみたいに口を塞がれる。湿った冷たい手。嘘、何!? ゴトリゴトリと赤いりんごが床に、玄関に広がるように転がってゆく。
「……咲紀さん……」
玄関にうつ伏せに押し倒され、耳元で囁かれたその声は、金田くん、だった。嫌悪で、全身に鳥肌が立った。
「イヤッ!」
手足をめちゃめちゃに動かして、四つんばいのまま金田の腕から逃れる。よろよろと立ち上がり、距離をとって振り返って睨んだ。
「来ないで! なんなの? どういうつもり!?」
「イヤだなあ。そんなに興奮しないで下さい。だってあなたが悪いんじゃないですか。電話にでないから。電話、してもいい、って言ったのに」
「でん、わ……」
電話はこれからすることろだった。遅くなったのは確かだ。でもだからって直接来るなんて。
「……相談が、あるんじゃなかったの」
どうしよう。玄関は奴のうしろ。そしてここは二階だ。
「そうですよ。津田さんがクリスマスに指輪が欲しいっていうから」
「買ってあげたらいいじゃない。彼女が欲しいって言ってるんだから」
「でも花束でもいいって言ってきたんです。あなたが、言ってくれたんですよね」
かちゃり、と鍵を閉めて靴を脱いで入ってくる。わたしもそれに合わせて後退した。
「やっぱり咲紀さんは僕の思ったとおりの人だ」
どんなよ!?
「賢くて、優しくて、温かくて」
ばかな! 何にも知らないくせに、勝手に自分の理想を押し付けるな!
「津田ちゃんの方が賢くて優しくて温かいよ!」
「あいつの名前は言うなあっ!」
急に激した金田に、わたしは息ごと言葉を飲み込んだ。
「ねえ、咲紀さん」
再び猫なで声になって、金田はわたしとの距離を詰めてくる。手を伸ばせば、触れるほど近くに。
「近づかないで」
「電話の男、嘘なんでしょう? ずっと見てたけど、そんな奴あなたの周りにはいなかった」
「ずっと、って、なに」
見てた、ってなに?
「君は僕のものなんだ。友達が僕のことを好きだからって諦めることはないんですよ」
「はあ?」
「咲紀さんは優しいから、だから身を引いたんでしょう」
「そんなことしてない。言ったでしょ。わたしには好きな人がいるの」
「信じない」
信じろ! これは正しくストーカーだ。わたしは早く誰かに相談しなかった自分を恨んだ。どうしよう。どうしたら。そうだ。携帯! さっきまで唯史ちゃんと話していたからポケットにいれたままだ。気づかれないようにわたしは後ろ手に携帯を取り出した。
「だって、じゃあわたしのことが好きならどうして津田ちゃんと付き合ったの」
「それは、咲紀さんがそうして欲しかったみたいだからです」
金田はにっこりと微笑んだ。
「あなたが望むなら指輪だって買います」
「……いらない」
「あなたはそういうと思いました。やっぱり指輪は婚約指輪のときに買うのがいいですよね」
「違う。そうじゃない」
だんだん気持ち悪くなってきた。悪い世界に迷い込んでしまったみたいだ。これ、現実だよね?
「咲紀さん……好きです」
触れようとしてきた手を反射的に振り払う。
「どうして?」
傷ついた眼差しでわたしを見るけど知るもんか! わたしは片手で携帯を操作しながらドアに走った。でも玄関の鍵を開けたところで、腕をつかまれ引き倒される。
「どこへ行くんですか? 僕がここにいるのに」
「放してッ!」
こういう奴を相手にするときは暴れない大声を出さない相手を挑発しない、が鉄則だそうだけど、こんな切羽詰った状況でもそんなルールを守れる奴がいたらお目にかかりたい! わたしの身体に馬乗りになった金田が、呼び出しの音がするわたしの携帯を取り上げて電源を落とした。
「誰を呼ぶつもりだったんですか」
「返してッ!」
「……どうしてそんなに僕を怖がるんです?」
何もしないのに、という呟きに〝嘘をつくな!〟と突っ込みたいが声が出ない。唇が、身体がぶるぶると震えていた。本当に怖いとき、人は何も出来ない……! 携帯をわたしから遠ざけたまま、金田の指がわたしの喉元に触れる。
「ねえ、咲紀さん。僕の名前を呼んでください」
荒い息が耳元にかかる。乱暴な手が、わたしの胸を揉みしだく。
「や、だ、ッ!」
「ねえ、咲紀さん」
唇が首筋を這う。
「……ひ、」
「呼べって言ってんだよおっ!」
「いや!」
金田の手が振り上げられる。わたしはぎゅっと目を瞑った。いや、ダメだ。ここで諦めるな、わたし! こんな奴にいいようにされてたまるもんか! 伸ばした手が何かに触れる。それをそのまま掴んで、金田の顔面に思い切りぶつけた。
「ぐ、」
りんごだ。ありがとう川島さん! 結構効いたのか、顔を押さえながらわたしから身を起こしたのをいいことに奴から離れてドアにすがりつくように手を伸ばす。もう少しで外、というところで逆上した金田がわたしの肩を掴んだ。
「やッ、」
叫ぼうとしたわたしの口を乱暴に手で塞ぐ。
「……ッ」
「どうしてこんなことするんですか! こんな酷いこと……僕に。大人しく言うことをきいてください。あなたを傷つけたくないんです」
そういいながら、目が、手が既に裏切っている。酷いことしてるのはどっちだ! ——涙が零れた。こんなこと、ニュースで時々見るだけで、自分には起こらないことだって心のどこかで思ってた。そんなの、何の根拠もなかったのに。イヤだ。死んでもこんな奴に触られるのなんか嫌! わたしは自分の口を塞ぐ金田の手を思い切り噛み付いて、外に飛び出した。あいつがすぐ後を追いかけてくるのがわかる。捕まったら終わりだ。泣きそうになりながら、走り方を忘れそうになりながら前に進む。何でわたしの部屋一番奥なの! どうして声が出ないの!
涙で視界が歪む。泣いてる場合じゃない。しっかりして、わたし!
その時、わたしの目の前に一番会いたかった人の姿が映った。自分の目が信じられなかった。なにこれ、幻影?
「……ッ!」
その人の腕が伸びて、金田よりも先にわたしを強く抱き寄せる。なおもわたしを捕まえようとした金田の手を振り払って、その長い足が奴の鳩尾に綺麗にヒットした。
「ぐ、え……ッ」
金田の身体が無様に後方に飛んで、苦しそうに喘ぎながら倒れこむ。
「大丈夫ですか、咲紀さん」
わたしは、泣きながらその人にすがりついた。
「……駅員さん……ッ!」
夢じゃないんだよね? これ。駅員さんはなぜか駅員さんの制服のままだ。でもどうして? ——どうしてここにいるの?
「駅で最近あの男をよく見かけました。あなたと同じ電車を利用してて……咲紀さんを見ていることはすぐにわかった」
何しろ同じところを見てるんですから、と唯史ちゃんと同じようなことを言って、小さく笑う。でもすぐにその表情を引き締めた。
「それが今日はこんな時間にやってきて、真っ直ぐあなたの家の方へ向かったからちょっと変だと思ったんです。……様子もおかしかったし」
「それで、来てくれたんですか? わざわざ?」
「はい。……どうしても気になって」
「仕事中、なのに?」
駅員さんは答えずに、少し震える身体でわたしを強く抱きしめる。早く鳴り響く心臓の音はどちらのものだろうか。
「遅くなって、すみません」
声にならずにただ首を横に振り続ける。その時車のブレーキ音が響いて、慌ただしくやってくる足音が聞こえた。
「咲紀ッ!」
「咲紀ちゃんッ」
「咲紀さんッ!」
唯史ちゃん、九重先生。そして、
「津田、ちゃん……」
津田ちゃんは真っ赤な顔をして、泣きそうな顔でわたしに近づいた。
「津田ちゃん、これは……」
隠しようがない。わたしの服は奴に散々引っ張られたせいで伸びきった挙句、襟元のボタンが飛んでいる。津田ちゃんは険しい顔でなぜかわたしを通り過ぎるとそのまま金田くんの前に立って、数日前お給料の殆どをつぎ込んでゲットしたのだと喜んでいた自慢のバッグを振り上げ、うずくまったままの金田くんに何度も何度も力一杯それを叩きつけた。——泣き怒りながらだ。相当痛がっているから多分本気で殴ってるんだろう。
やがて気がすんだのかわたしに近づいてくる。
「津田ちゃん……」
「……大丈夫ですか? 咲紀さん」
「う、ん」
「よかったあ……っ」
津田ちゃんは泣き笑いみたいな顔で、わたしをぎゅっと抱きしめた。
「ごめん、ね。津田ちゃん」
謝ったわたしに、津田ちゃんはきょとんとした顔をして、何言ってるんですか、と笑った。
「謝る必要なんかないですよ。咲紀さんの方が大切に決まってます」
「……ありが、と。津田ちゃん……ッ」
津田ちゃんを抱きしめ返しながら、わたしは今度里美さんに津田ちゃんは恋に溺れない凄くいい子だって訂正しようと思った。
「津田ちゃん、どうして?」
「実はー、やっぱり金田くんのことやめようと思って咲紀さんに相談しに来る途中だったんです。咲紀さんの家がわからなかったし携帯が繋がらなかったんでクリニックで聞こうかなーって。そしたら新堂センセイたちにばったり会って」
「咲紀の電話をもらったとき智巳もいたんだ。なんだか嫌な予感がして」
九重先生は触れるのも汚らわしいという顔で、金田くんを引き起こした。
「これどうする? 咲紀ちゃん?」
どうしよう。逡巡したわたしの背中を、大丈夫だよというように抱きながら、駅員さんが言った。
「よろしければ、僕の知り合いに弁護士がいます。こういうことには慣れてる奴ですから、任せてもらえませんか。決して咲紀さんにイヤな思いはさせません」
津田ちゃんが、うっとりと駅員さんを見つめる。唯史ちゃんと九重先生も、一瞬お互いの視線を合わせて頷いた。
「お任せします」
やっと安心して、腰に力が入らなくなる。座り込む寸前、駅員さんがわたしの身体を抱きとめてくれた。
「大丈夫ですか、咲紀さん」
そのぬくもりに、再び涙が零れた。最悪な日だ。それでも、何か大切なものをプレゼントされた、そんな気がした。
駅員さんはわたしをいったん津田ちゃんに預け、うな垂れたままの金田くんに近づいた。
「……もう二度と彼女に近づくな」
初めて聞く、駅員さんの怒りを含んだ声。その声に、金田くんはゆるゆると顔を上げた。それは多分、駅員さんの声に聞き覚えがあったからだろう。
「電話、の」
「そう。二度目は許さない」
ああ、とかうう、とか返事なのかなんなのかわからないような声を上げて、金田くんは再びがくりと視線を床に落とした。駅員さんはそれを冷ややかに一瞥して携帯を取りだし、……わたしを見た。え? なに? でもそれはホンの一瞬のことで、やがてその知り合いだという弁護士さんらしき人に電話をかけて、またわたしのところにやってくる。
「ありがとうございました」
ありがとう以外なんて言ったらいいのかわからない。
「でももう、お仕事に戻ってください。わたしもう大丈夫ですから」
「でも」
「駄目です。わたしのせいで、真哉さんが叱られたりするの、絶対イヤ」
これは本心だ。勿論ずっと一緒にいてほしい気持もあるけど、今はもうみんながいるし。仕事を抜け出して助けに来てくれただけで充分だ。
「……わかりました」
頷くと、駅員さんは唯史ちゃんに何か言いに行って……多分弁護士さんのことだろう……九重先生も交えて何か話し合ってる。
「咲紀さん」
津田ちゃんが、にやにやしながらそっとわたしに小声で囁く。
「ん?」
「あのカッコいい駅員さん、咲紀さんの彼氏ですか?」
「え、と、違う、けど、……好きな人」
照れながら小さく呟いたわたしに、津田ちゃんはぱあっと眼を輝かせた。
「いいなあっ! すっごい、お似合いですよねーっ。絶対両想いですよーッ! 羨ましいーっ。あんな風にわたしも守られてみたーい」
いや、いやいや今日みたいなこと二度とごめんだから。でも。あの腕に守られて一瞬で安心したのは確かだ。好きなんだなあって確信したのも。
「咲紀」
そこへ唯史ちゃんがやってきて、わたしを覗き込む。
「智巳と一緒にあいつ駅前の交番に連れてくから」
「弁護士さんは?」
「そこで待ち合わせた」
「ごめんね。唯史ちゃん。迷惑かけて」
「なんで謝るの。当たり前だよ」
こっちでは咲紀の保護者は僕だからね、と柔らかに笑う。
「ありがとう」
唯史ちゃんはいつも本当に優しい。でも今はそれが少しだけ申し訳ない。
「わたし行かなくて平気?」
「とりあえずね。それに、あいつと一緒に行くのイヤだろう?」
「……ん」
唯史ちゃんの手の平が、わたしの頭を撫でる。その向こうで九重先生が金田くんを引っ張り上げるのが見えたけど、正直もう見るのもイヤだ。江ノ上にも報告しなきゃいけないんだろうけど、今はとてもそんな気にはなれなかった。
「悪いんだけど津田さん。咲紀と一緒にいてくれるかな」
唯史ちゃんの言葉に、津田ちゃんははあいと手を上げる。
「勿論そのつもりですよーっ。なんなら泊まりでも大丈夫ですッ」
心強いその言葉に、わたしはぎゅうっと津田ちゃんに抱きついた。
「ありがと津田ちゃん」
金田くんから遠ざけるようにして、唯史ちゃんはわたしと津田ちゃんを部屋に入れてくれた。物珍しげに津田ちゃんは部屋を見回して、それからわたしと一緒に散らかった部屋を片付けてくれた。やがて、玄関をノックする音と、駅員さんのわたしの名前を呼ぶ声。わたしは津田ちゃんに断ってからそっとドアを開いて廊下に出た。
いつもの優しい笑顔で、駅員さんはわたしを見つめる。
「じゃあ、仕事に戻ります」
「……」
言葉が出ない。声って怖くても出なかったけど、嬉しくても出ないんだ。
「咲紀さん。電話してくれたんですね」
駅員さんは手に持っていた携帯をくるりと返してわたしからの着信を見せた。さっき物言いたげにしたのはこれに気づいたからだったんだ。
「本当に間に合ってよかった」
あの時、指が勝手に駅員さんの番号を選んでいた。あの状況なら唯史ちゃんに助けを求めた方が確実だったのに。それなのに。
「咲紀さん? 大丈夫ですか?」
わたしは黙ったまま腕を伸ばし、そのまま駅員さんの胸に抱きついた。
「咲紀、さん?」
「……好き。……大好き」
一日早いとか、恥ずかしいとか、そういうのは全部頭の中から飛んでいた。やがて、ためらいがちに駅員さんの腕がわたしを抱きしめる。
「本当に?」
「ん」
はー、っと頭の上からため息が聞こえて、なんでここでため息!? と顔を上げたところで唇が重なった。
「ふ、……ッ、ん、」
ぞくりと甘く痺れるようなキスを落とされ、その唇が離れた後も、びっくりしてそのまま駅員さんを見つめる。
「……どうして今日これから仕事なのかな」
抱きしめられたまま、身動きも出来ない。
「え、と」
それはつまり……。
「せっかく咲紀さんに好きだっていってもらえたのに」
嬉しそうに困った笑顔で。つられてなんだかどきどきする。
「明日。会えるの楽しみにしています」
「……わたしも」
もう一度啄ばむようなキスをして、駅員さんは仕事に戻っていった。
うわ、ちょっと。両想いってこんなにどきどきするんだっけ? にやけそうになる顔のまま部屋に戻ると、好奇心で目をキラキラさせた津田ちゃんがわたしを待ちうけていて。今日はなんだか眠れそうにないと、色々な意味で思った。




