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駅員さんの恋  作者: 高藤みずき
18/56

【5】「君は僕のもの」 1



 もう七時。さすがにタイムリミットだ。ほんの少し残念に思いながら掴まれたままだった駅員さんの手をそっと解く。黙って帰るのもなんだから、手帳を切り取って〝帰ります。お大事に。 川野辺咲紀〟と書いたメモを残す。鍵は平賀さんから合鍵を借りたので出掛けにでも返しておこう。


 マンションを出て携帯をチェックすると、どきりとした。いくつか確認していくと、あまりのことに立ち尽くす。電話の着信もメールの着信も、恐ろしい数で残されている。この番号には覚えがあった。……金田亮。なんのつもりだ? メールの内容は全部「帰ったら電話を下さい」だった。ぞっとして携帯を閉じる。寒さとは別の寒気。なんで? ずり落ちてきたショルダーバッグをかけ直し、足早に家に戻った。まるで見えない目に追われてるみたいに。


 落ち着かない気持ちのまま家に戻って、シャワーを浴びて、着替えて、いつものようにメイクをする。まったく食欲はなかったけど、何も食べないのではとても昼までもたないだろうと、途中のコンビニで買ってきたカロリーメイトを紅茶で流し込んだ。


 着信拒否にしたほうがいいだろうか、と思うが、逆に何かを煽ってしまいそうで怖い。電話とメールをしてきただけだ、という考え方だってできる。たまたま、急ぎの用か何かがあって。少しばかり病的なだけ、で。——そこまで考えて、やっぱり無理があることは自分でもわかった。


 誰かに相談する? 駅員さん、は駄目。病人だ。唯史ちゃんやいずみさんの顔が浮かぶ。これも駄目だ。彼は一応昨日から津田ちゃんの彼氏なんだから。


 ……もう少しだけ様子を見よう。


 わたしはこの時点でまだ楽観視していたのだ。愚かなことに。


     *+*


「鍵、ありがとうございました」


 余裕を持って駅に向かうと、幸い平賀さんは探すまでもなく改札のところにいて、わたしを見つけるとすぐにやってきてくれた。


「昨日はすみませんでしたね。夜勤代わったんで結局丸投げする形になっちゃって。あいつ、どうですか?」


 鍵を差し出したわたしからそれを受け取りながら心配そうに問いかけて来る。


「熱は下がったみたいです。呼吸も昨夜よりは楽そうでしたし」


「そうか。良かった。……よかったら帰りにでもまた顔を出してやってくれませんか。こんなおっさんより可愛いお嬢さんの方が元気が出ると思いますからねえ」


「ええと、可愛いはともかく、そのつもりです」


 平賀さんは顔をくしゃりとさせてありがとう、と言った。


「じゃあ、鍵はそのまま持ってていいですよ」


 さっき受け取った鍵をあっさりと再びわたしに差し出してくるのを首を振って断る。


「それは平賀さんのです。わたしがお預かりするわけにはいきません」


 第一わたしは駅員さんの彼女でもないのに。セキュリティー的に大問題だろう。


「平気だって」


 なおも押し付けようとする手をやんわりと拒絶する。


「駄目ですよ、平賀さん。わたしが悪い女だったらどうするんです?」


「いやあ、あいつの目は確かだと思ってるよ」


「……残念ですけどわたし、栗生さんの家の鍵を平賀さんから受け取る気はないんです」


 言葉の裏に潜む意味も了解したらしく、平賀さんは「なるほどね」とあっさりと引いてくれた。


「じゃあ、わたし行きますね」


 平賀さんは鍵を握りこんで好々爺みたいな笑みを浮かべて、行ってらっしゃいと言ってくれた。わたしはそれに会釈を返してホームに向かった。


 ひどくもやもやしたものを抱えたままその日は何とか業務をこなして、クリニックを出たときには既にぐったりだった。今週はあと一日、と自分に言い聞かせて携帯を見るととりあえず恐れていた履歴は増えていないようだ。ホッと息をついて、駅員さんにワンコールしてみる。すぐに出なければ切ろうと思っていたけれど、そんなわたしの気持ちを察したかのように、殆ど待つ間もなく駅員さんの声が聞こえた。


「咲紀さん?」


「はい。具合大丈夫ですか?」


「おかげさまで熱は下がりました。……すみません。すっかりご迷惑をおかけしてしまって」


「迷惑だなんて」


 はっきり言って何かしてあげたという気がしない。何も出来なかったし、朝は見捨ててさっさと帰っちゃったし。……ちょっとひどい奴かもしれない。こういうところに女子力って出るのかなあ。もちろんあのまま熱が下がっていなければさすがに違う対応をしたとは思うけど。


「メモを見るまで自分に都合のいい夢を見てたのかと思いました」


「え?」


「ぼくはあなたに何もしませんでしたか」


 そろり、とやけに心配そうなその声に、思わず笑った。したといえばしたし、しなかったといえばしなかった。ただ手を掴まれただけだ。


「さあ、どうでしょう」


「……咲紀さん……」


 ため息交じりの困った声になんだか楽しくなってしまうけれど、相手は病人だ。


「何か必要なものがあれば持って行こうかと思ったんですけど。欲しいものはありますか」


「来て、くれるんですか?」


「真哉さんのうち何もないじゃないですか。それじゃ治るものも治りません」


「困ったな」


 え、困る?


「わたしが行くの、まずいですか? よかったらご飯作ろうかと思ってたんですけど」


 迷惑なら行く気はないのだ。そこまで図々しいことはできない。くす、といつもより甘い笑い声が聞こえた気がした。


「ありがとうございます。楽しみにしてます」


「嫌いな食べ物とかあります? といっても、今日は雑炊くらいにしておいたほうがいいと思いますけど」


「好き嫌いはないです」


 わかりましたじゃあまたあとで、と電話を切ってスーパーに向かう。駅員さん効果ってすごい。電話する前はわたしあんなにぐったりだったのにすっかり元通りのテンションだ。そういえば誰かのためにご飯を作るなんて随分久しぶりのことだった。あいつには確か殆ど作った覚えがない。夜来て朝にはもういなかったりして、あいつはわたしのことをセフレだと思ってるんじゃないだろうか——と悩んだこともあったっけ。ダメだ。考えるな。せっかく上がったテンションが台無し。


 大したものは作れないけどそれでもおいしいと言ってもらえるといいな、と必要なものを次々買い物かごに放り込んだ。 


 チャイムを鳴らすと、程無くドアが開いて駅員さんが出迎えてくれた。チノパンにシャツにセーター。ラフな格好でもカッコいい。その大きな手が伸びて、すぐにわたしの手から荷物を取り上げてしまう。


「寝てなかったんですね」


 め、と軽く睨むと、駅員さんは申し訳なさそうに肩をすくめた。


「ずっと寝てたら明日仕事に行けませんから」


 まあそれはそうか。「熱は?」と、無意識に駅員さんの額に伸ばしかけた手を、途中でマズいと押し留める。これは、いくらなんでもちょっと調子に乗りすぎだ。躊躇したわたしの手を駅員さんが素早く掴んだ。


「もう下がりましたよ」


 ほら、とわたしの指先を額に触れさせる。えーっと! ホント困る。わたしの方が体温が上がりそうだ。


「そ、うですね……」


「咲紀さんの手、冷たくて気持ちがいいです」


 天然!? 天然なんだよね!? やはり恐るべし栗生真哉! 不自然にならないように自分の手を取り返す。どうぞ、と促されて部屋に上がって、ちょっとだけどきどきした。それはきっと昨日とは入る状況が違うからだ。昨日は不可抗力で本人の同意なく上がり込んだ。でも今は……。


「じゃあ、作っちゃいますから休んでてくださいね」


 荷物を部屋の隅に置いて、手を洗う。……失敗はできない。いや、失敗するほど難しいものじゃないけど。緊張すると失敗しそうだ。


「わかりました」


 嬉しそうに笑って駅員さんは大人しくソファに座る。出汁をとったり野菜を刻みながら、音楽雑誌を見ているその横顔をちらりと盗み見た。格好良くて優しい、こんなにも素敵な人が自分に優しくしてくれる。こんなことが物語以外で起こるとは思ってなかった。今も現実味がない。手を伸ばせば届くところにいるのが信じられない。だってそうでしょう? 特に好かれることをした覚えがない。


「……どうして?」


 バカなわたしの脳と口が直結した。ふっとその声を聞き逃さなかったらしい駅員さんがわたしを見る。


「どうしてわたしに、こんなに親切にしてくれるんですか」


 まずい。口が、口が勝手に! 案の定駅員さんは意味を図りかねて困った顔をする。


「今親切にしてもらってるのは、僕の方だと思うんですが」


「それは、駅員さんが最初からわたしに親切だったから……ッ」


 駅員さんは立ち上がって、ゆっくりキッチンにいるわたしのところにやって来た。


「知りたいですか?」


 知りたい、と答えたらもう引き返せない。


「し……」


 答えようとしたわたしを邪魔するように、携帯の着メロが鳴り響いた。——わたしのだ。その音に無意識に身体が震える。


「咲紀、さん?」


 見たくない、と思いながらも煩いほどその音は響いて。わたしはそれに手を伸ばした。……金田くん、だ。どうしてわたしは電源を落としておかなかったのだろう。心から後悔する。出なきゃ。出なきゃ駅員さんが変に思う。


「出ないんですか?」


 鳴り続ける携帯を持って、強張ったまま途方に暮れているわたしに、駅員さんが問いかける。


「……その、」


 一度切れた電話が再び鳴り出す。自分でもびっくりするほど身体がびくりと反応した。


「ひょっとして、出たくない?」


 反射的に駅員さんを見つめてしまう。


「……ぼくが出ても平気ですか?」


「駄目ッ」


 こんなことに巻き込んじゃ駄目だ。よりにもよって、駅員さんを。


「出ちゃ駄目です。大丈夫ですから」


 自分で解決しなきゃ。って考えてぎくりとした。以前あいつによく言われた言葉が脳裏をよぎる。


〝お前なんでいっつもオレに頼んねーの? 大丈夫大丈夫って、そういうとこ、ほんっと可愛くねえよ〟


 煩い! だってありがとう、って言葉一つで何でもやってもらうような人間にはなりたくなかった。依存したくなかった。自分にも他人にも厳しいあいつの隣りで、しっかりしないといつか見限られるんじゃないかって怖かった。頑張りたかった。守られるより戦いたかった。認められたかった。対等でいたかった。でも皮肉にもそれが最終的には致命的になったんだろう。一人で立てない女って嫌いって最初に言ったのはあいつだったのに。実は甘えて欲しかったって知っててもあいつに甘えられたかどうかはわからないけど。もちろん一般的に彼女に頼られたいとか可愛さを求めることを否定なんかしない。お互い納得ずくならきっとそれは幸せな恋だ。わたしにはハードルが高くても。


 ——駅員さんも、そう思うんだろうか? 頼る子の方が可愛いって。


「電話の相手に誤解されたくないですか?」


「ちがっ……違います!」


「なら、ぼくを巻き込みたくないんですね」


「駅員さ……」


「真哉」


 そう言ってあっさりとそれ以上の言葉を封じて、駅員さんはわたしの手から携帯を取り上げて画面をタッチした。


「もしもし」


「……え?」


 金田くんの、困惑するような声が聞こえた。


「……これは川野辺咲紀さんの電話じゃ……」


「ええ、そうです。彼女は今手が離せないので、ぼくでよければ伝言を聞いておきますが」


 わたしを安心させるように、駅員さんの手が、膝で硬く握り締められたわたしの手を優しく包む。


「あなた、は?」


「ぼくですか? ぼくは……、こうして電話に出ることを許されてる者です」


 えーと、嘘じゃないけど。何だか頬が熱くなる。こんな誰かに守られるなんて体験、これまでなかったから。


「そんな……」


「それで、あなたは?」


「し、失礼しますッ」


 電話が切れて、駅員さんは苦笑いしながらわたしに携帯を返してくれた。


「だから、どうして……」


「え?」


「どうしてそんなにわたしに優しくしてくれるんですかッ」


 してもらうより、してあげるほうが多かったから。だから戸惑う。こんなにも容易く手を差し伸べられることに。


 ずっと一人で頑張ってきた。どこに行ってもたいてい真面目でしっかり者で頼られて、我慢も平気なふりもいつの間にか当たり前のポジションで。だから甘えかたが全然わからなかった。唯史ちゃんだけだった。唯史ちゃんだけが無条件にわたしを甘やかしてくれて……、でもその手はわたしのだけじゃないって気づいて……。


 ああ、そうか。わたし……甘えさせてくれる唯史ちゃんが好きだったのか。だから、〝男の人〟の唯史ちゃんに困惑してびっくりして、怯えたのかもしれない……。こんなに子どもだったんだ、わたし。本当の恋もわからなかった。ただ手を離したくなかっただけ。急に視界が晴れたような気がした。考えすぎて視野が狭くなってしまうのはわたしの悪いクセだ。


 気づいてみれば二人への想いはまるでベクトルが違う。わたしが違うことに気づいてなかったから唯史ちゃんはあんなことを言ったんだろう。


「ひょっとして咲紀さんって、鈍いって言われる?」


 いきなりそんなことを言われて、首を左右に振る。


「ほんとに? ……もう、わかってると思ってたけど」


「え?」


「あなたが、好きなんです」


「な、んで?」


 それは、と少しだけ言いにくそうにして、駅員さんはくしゃりと笑った。


「前にも言ったと思うけど、一目惚れ、ですね」


「ひとめ、ぼれ?」


「……初めて会ったとき、もの凄くいい笑顔で〝ありがとうございます。行ってきます〟って言ってくれたでしょう」


 あれ凄く嬉しかった、って囁くように言われた。


「そんなの、誰だって……」


 言うでしょう!? この駅員さんに言われたら!


「意外と、返事ってないものなんですよ。……あの頃少し色々あって、だから余計に嬉しかった」


 そうなの? あの日、駅員さんの挨拶に救われたのはわたしの方だったのに。


「あの笑顔が忘れられなくて、それ以来、咲紀さんの姿を探すのが習慣になりました」


 ちょっとこれは……ストーカー、ですかね、と自嘲的に呟く。


「そんなことないですっ。わたしだって……」


 探してた。駅員さんを。姿を見つけただけで嬉しかった。……って、あれ? これってやっぱりわたし。はたと気づいてさっきとは別の意味で途方に暮れたようなわたしを、駅員さんはしょうがないなあ、って感じに見つめて、そっとわたしを抱き寄せた。優しいのに力強いその腕の中でひたすら困惑する。心臓が煩いほど音を立てる。


「貴女に好意を持ってる男の一人暮らしの家に簡単に入ってはダメですよ」


「……駅員さんのことは、信頼してるから……」


 他の人なら行かない。唯史ちゃんなら多分行く。従兄だから。もう……最初から答えなんか出てた。


「嬉しいけど、嬉しくない言葉ですね」


「あ、の、」


「はい」


「ひょっとしてわたしも、なんでしょうか、一目惚れ」


 ぷっ、とこらえ切れなかった様子で吹き出して、駅員さんはわたしの背中をぽんぽん、と優しく叩いた。


「それは咲紀さんにしかわかりません」


「……ですよね」


 馬鹿なこと言った。わたし。


「でも、もしそうなら嬉しいです」


 そういってわたしを見つめる目は本当に甘くて。喜んでくれるのならこの場で〝うん〟と言ってしまいたかった。でも瞬間、わたしの脳裏に唯史ちゃんの笑顔がちらつく。駅員さんに返事をする前にちゃんと返事をしなきゃ。やっぱり今駅員さんに先に返事をするのは二股みたいで気分が悪い。我ながら融通がきかないって、わかってるけど。


 ……ちゃんとわかったから。唯史ちゃんへの自分の気持ちが。そして、駅員さんへの気持ちが。


「咲紀さん?」


「あのっ」


 駅員さんの服を掴んだまま、見上げる。


「必ず、ちゃんと返事しますから、ちょっとだけ時間を下さい」


「何だか、怖いですね」


「そんなことありません。駅員さんはもっと自信を持ってください」


 反射的に言い返したわたしに、首を傾げる。


「でも、それは返事じゃないんですね?」


 え? あ! そうか。含みのある笑みを浮かべて駅員さんはわたしを見る。馬鹿だ、わたし。もう殆ど好きって言ったのと同じことじゃないかーっ! なんだか直視できなくなって俯いた。そして追い討ちのように。


「その時は、ちゃんと名前で呼んで下さい」


 ……わたしまた、駅員さんってよんでた……よね。


「……はい」


 どうしても駅員さんは思い出すとき駅員さんのイメージが強くて……。慣れない、というよりはわたしにしては最大級の親しみを込めて駅員さん、なのだけれど。確かに個人を示す名称じゃないよね。例えて言うならわたしなら歯科助手さん、ってことになってしまうのだろうか。それはちょっと、いやだいぶ寂しい。 真哉さんって名前も好きなのだ。本当に。その爽やかな音は駅員さんに合っていると思う。


 それにしてもそろそろ離してもらわないと本格的に心臓がどうにかなりそうだ。見上げると駅員さんがわたしを見てにこにこしていて、それが本当に嬉しそうだったから、……どうしていいかわからなくなる。


「あの……?」


「咲紀さんの声、好きなんです。耳に馴染むというか、安心する」


「……昨日もそんなこと言ってましたよ?」


「ほんとに? ……自分に先を越されたのか」


 困った顔をする駅員さんに苦笑する。なんだ。じゃあ昨日のことホントに覚えてないんだ。残念なような、そうでもないような。とりあえずちょっとだけ自分から前に進むことにする。


「ええと、わたしの声でよければ、いつでも」




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