【4】「誘ってる?」 4
帰宅してすぐに、携帯が鳴った。いつもなら相手を確認してからしか出ないのに、唯史ちゃんだと思ったせいでバッグから取り出した携帯にそのままうっかり出てしまう。
「もしもし?」
「……もしもし……?」
男の人だ。想定外の声に一瞬ぎょっとする。でも待って。この声、確か。
「急にお電話差し上げてすみません。先日お会いした金田ですが……」
びっくりした。嫌な方に。
「あの、わかりますか?」
気弱そうな声に、うん、と呟く。頷きながらも何でどうして彼から電話が来る——? と混乱する。津田ちゃんから聞いた? まさか。そんなはずない。
「わかるよ。昨日会ったばっかりだもん。……ね、でも、この番号誰から?」
気をつけたつもりだったけど、わたしの言葉が微妙に低くなる。
「あ、すみません。先輩からです」
江ノ上ーっ! あいつと友達もやめたくなるのはこういうときだ。昔わたしの知らない、江ノ上の友達とかいう男に勝手に番号流されてヒドイ目にあったことがある。以来わたしの許可なしに教えるな、と言っておいたのに……、あいつの脳みそはザルか! どうしてくれよう。
「怒ってますか?」
勝手に聞いたことをすまないとは思っているらしく、申しわけなさそうな声が響く。
「……怒ってはいないけど……。わたしに何か用?」
怒ってはいないけど、不愉快ではあった。頭のどこかでかすかに危険信号が鳴る。なんとなく、ひやりとするような。大体こんなことを感じるときはろくなことがない。
「津田さんの、ことなんですけど」
「うん」
「今日までに結構電話とかメールがあって」
おお。頑張ってるな津田ちゃん。
「どういうことなのかな、って」
はあ? ナンだそれ? どういうことかなって、その質問がどういうことだ!
「……普通女の子が男の子に連絡をとるってことは、仲良くなりたいからだと思うけど」
普通人にそんなこと聞いてくるか? コドモじゃあるまいし。面倒な予感に、わたしはそっとため息を押し殺す。
「やっぱり、そうですよね」
読めない。読めないぞ。それは嬉しいの? 迷惑なの?
「実はぼく、最初から川野辺さんのことをいいなって思ってて」
えーのーがーみーっ! 瞬間彼に対して心のシャッターが完全に閉じた。
「先輩と、付き合ってるんですか?」
「はあ? 江ノ上と? まさか」
「じゃあ」
何が〝じゃあ〟なのかと突っ込みたい。この間金田くんは津田ちゃんと楽しそうに話していて、わたしには無関心だった。いや、関心を向けられても困るけどそんなそぶりもきっかけもなかったはずだ。
「悪いけど、わたし好きな人がいるから」
イヤなパターンだ。泥沼はごめんだ。脳裏に嬉しそうな津田ちゃんの顔がちらつく。
「金田くん、昨日津田ちゃんと楽しそうだったじゃない」
どこから見ても第一印象良い同士って感じの。第三者から見ても、ああうまくいくのかなーって思ったくらいだ。
「そりゃあ、悪い気はしなかったですし」
「なら彼女を見てあげて」
「……帰り番号聞いてくれたとき、川野辺さんが知りたいと思ってくれたんだと思ってぼく一瞬喜んだんです」
だけど、と小さな呟き。聞きたかったのは津田ちゃんだった。そこで一瞬でも期待させたなら申し訳なかったけど、すぐに津田ちゃんにバトンタッチしたんだから脈なしだってそこで普通は気づくだろう。
「……それで?」
「ぼくに可能性は全然ないですか?」
今度は我慢せずに思い切りため息をついた。
「ないです」
「……ない、んですか」
「うん」
そもそもこのシチュで告ってくること自体わたしの中では〝ない〟話だ。ごめん。津田ちゃん。絶対に違うもっといい男を紹介するから! 交通事故みたいなこの状況にわたしの心も既に重傷だった。だから神様、今がわたしの人生で最初で最後のモテ期なのだとしてもこんな大盤振る舞いはいりません!
「でも川野辺さん彼氏、いないんですよね」
責めるような、ぺたりとはりつくようなその声に、鳥肌が立った。
「だから? いないけど、金田くんを選ぶことはないよ絶対」
「……出会い方が違ったら……?」
「それでもないです」
悪いけど切るね、と通話を無理矢理終える。気持ち悪い、が怒りに変わったころ、江ノ上の電話番号を呼び出した。さほど待つことなく相手が出る。
「どうした?」
「どういうつもり」
「なんだよやぶからぼうに」
「金田くんから電話きた」
「ああ、だって昨日の彼女のことでききたいことがあるっていうから」
「……だからって教えないでよ! 前にも言ったよね? とりあえず聞いておく、とかワンクッションあってしかるべきじゃないの?」
「悪い悪い。で? あいつ何の用だったんだ」
絶対思ってない。悪いなんてこれっぽっちも思ってない。今度番号変えたら江ノ上には教えないようにしようと固く決意する。
「告られた」
一瞬息をのんだような間があって「やっぱりかー」と、暢気な声が返って来る。
「で?」
「断ったに決まってる」
だよなあー、と煙草を吸う音に紛れて声が聞こえてくる。
「なあ、やっぱオレと付き合うか?」
「断ったし、必要ない。それにまた同じこと言わせる気?」
はいはい、という適当な相槌と、煙を吐き出したのかため息なのかわからない吐息。
「金輪際あんたの頼みなんかきかないからね」
「なんでそんな怒ってんだよ。お前がモテるって話だろ? 悪くないじゃん」
「あんたのそのデリカシーのないとこ、ホント嫌い」
怒りがおさまらないまま電話を切る。友達が好意を持った人に告白されて喜ぶ人間がどこにいるんだ。
気に入って買ってきたはずの布も、なんだか急に色あせて見えた。せっかく楽しかったのに。重たいイヤなモノを無理矢理持たされたみたいな気分に、わたしはベッドに突っ伏した。
*+*
週も半ばになってクリスマスは来週、というこの日。業務終了間際、津田ちゃんが逃がさないとばかりにわたしの腕にがしっとしがみついた。
「咲紀さんっ! お願いがあるんですーっ」
「な、に?」
結局あの日のことは津田ちゃんには言わなかった。自分だったら聞きたいか? いや、聞きたくない。と自問自答した結果だ。今週前半が早番だったことをいいことに、津田ちゃんとは入れ替わりに挨拶するだけの日が続いていて、今日から遅番だったからさすがに色々覚悟していたんだけど。
津田ちゃんに嫌われるのはイヤだな。わたしの心にあったのはそれだけ。
「帰り、時間ありますか?」
「ある、けど?」
必要以上にびくびくしている自分がイヤだ。
「もうクリスマス来週じゃないですかーっ! わたし今日こそ言おうと思うんです。金田さんに」
言う、って告白するってことだよね。
「うん。それで?」
「電話する間一緒にいてくれませんかっ!?」
はあ!?
「そ、それは……ッ」
「お願いしますっ。駄目だったときひとりでいたくないんです」
切なそうに伏せられた瞳。あー、もう……ッ。金田くんは言うだろうか。言わないくらいのデリカシーはあるだろうか。読めない。だから怖い。
「……いいよ」
本当に、馬鹿だ。わたし。……今日ばかりは女の子の頼みを断れない自分を呪った。気分はドナドナだ。津田ちゃんに引っぱられるまま歯科医院をあとにした。
「じゃ、じゃあ、かけますからっ!」
駅に程近い公園のベンチに座って、津田ちゃんは震える指先で携帯を操作した。その緊張ぶりになんだかこっちまでどきどきする。そのどきどきは色んな意味でのどきどきだけど。何度か呼び出す音が漏れ聞こえて、それが不意に途切れる。
「あっ、金田くん!?」
津田ちゃんの声はいつもより少し高くて、可愛さが増量している。この津田ちゃんの何が不満だ金田!
ひとしきりたどたどしい挨拶とちょっとした軽い話のあと、津田ちゃんがごくりと息をのんだ。
「あの、あのね。わたし、金田くんのこといいなって思って、ええと、つまり、つき合ってほしいんだけどどうかな……?」
死刑宣告を待つ罪人の気分だった。多分、わたしも津田ちゃんも。
「……え……?」
呆然と、津田ちゃんはわたしに視線を向けた。信じられない、みたいな。
まさか。
「本当、に……?」
津田ちゃんの目が泣きそうに潤む。
「つ、津田ちゃん……」
「……うれ、しい……ッ。じゃあ、クリスマスイブ、会ってくれる?」
……え?
「うんっ。じゃあまた帰ってから電話する。……うん。うん。じゃあ」
電話を切って、津田ちゃんはわたしに抱きついた。
「ありがとう咲紀さーんっ!」
「え? じゃあ」
「うんっ。付き合ってくれるってっ!」
「よ、かったね」
どういうこと? あいつが余計なことを言わなかったのは万々歳だけど……。
「どうしたの? 咲紀さん」
「う、ううんっ。なんでもないっ」
なんとなくもやもやするけど、津田ちゃんが喜んでるならいい。
あっちが駄目ならすぐこっち、って普通は考えにくいことだけど、もともと合コンの席で知り合ったんだし、この切り替えの早さが男の狡さっていうか、要領のよさってものなのかもしれない。それにこれは考えようによっては理想の展開だ。ひょっとしたら金田くんが気持ちを改めて津田ちゃんのことを見ようと思ったのかもしれないし。うん。それならわたしもこの間のことはなかったことにしよう。余計なことを知って無駄に津田ちゃんが傷つくことはないんだから。
最後まで満面の笑みを浮かべていた津田ちゃんと電車の中で別れてホームに降り立つ。結局終電一本前になったけど、心なしか気持ちが少しだけ軽くなった気がした。
「何かいいことあったんですか? 咲紀さん」
ぼんやりしてたところに不意に声をかけられ、目線をあげるとそこにいたのは駅員さんだった。
「駅……真哉、さん」
危ない。また駅員さんって言っちゃうとこだった。
「おかえりなさい」
「た、ただいまです」
相変らず疲れを吹き飛ばしてくれる笑みをわたしにくれる。
「……友達に彼氏ができたんです」
説明はできないけど。色々ごちゃごちゃもやもやしてたことがすっきりしたというか。終ってみればわたしが一人心配して空回りしてただけ、という感じだ。
「栗生ーっ、そっち終わったか」
そこにいかにもベテランの駅員さんというおじさんがやってくる。以前にも駅員さんを呼んだ年配の駅員さんだ。
「平賀さん。……はい。終わりました」
「ん? どうした? ああ! 彼女かっ。おまえがこの間血相変えて助けに行った」
「平賀さんっ!」
駅員さんの頬が赤くなる。
へ? 血相変えて、って、あの日か!
「あの、酔っ払いから助けてもらったときですか?」
「そうそう。あんな焦ったこいつを見るのは初めてでしたよ。……あ、失礼。私は平賀といいます」
こいつのオヤジがわりなんで気になっちゃってね、と豪快に笑う。
「川野辺咲紀です」
「噂の君に会えて光栄ですよ」
「うわ、さ?」
「こいつ見てくれがこうでしょう。いやームカつくほどもててねえ」
「でしょうねえ」
しみじみ同意する。最寄り駅にこーんなイケメンの駅員さんがいたら、ねえ?
「咲紀さん……」
困った声を洩らす駅員さんを尻目に、平賀さんは更に嬉々とした様子で続ける。
「で、どうなんです? 川野辺さん。奴に脈はあるんですかね?」
「平賀さんっ!」
鋭く咎めるような響きを含んだ駅員さんの声に、平賀さんは大げさに反応して肩をすくめてみせた。
「おお怖。わかってるって。そういうことは二人っきりのときに聞かなきゃなあ?」
わっはっは、と笑いながらそれじゃあとわたしに会釈してやって来る終電を迎える位置につく。ノリの軽い人だ。こういう人嫌いじゃないけど。
「すいません」
駅員さんは帽子を深めに被ってぺこりと頭を下げた。気まずそうな様子だ。そりゃあそうだろう。あんな風にいわれたら違ってても違うとは言えないだろうし。わたしもちょっとどう反応したらいいかわからない。
「いえ……」
駅員さんが口を開きかけたその時、頓狂な声がそれを遮った。
「キャーッ! いたーっ!」
複数の女の子の声がして、終電から降りてきたその子たちに駅員さんはあっという間に取り囲まれてしまった。
「いやーんっ。ホントカッコいいーっ」
「でしょーっ!」
うわー。まるでアイドルだ。少し離れたところで様子を見つめる。
「絶対あんたの妄想だと思ったー」
「妄想じゃないもん。栗生さんっていうんですよね」
「申し訳ありませんが……仕事中ですので」
わたしが初めて聞く少し固めの声。でもお酒が入ってるのか異常にテンションの上がっている女の子たちは気づかない。
「ええーっ、でもさっきあの人とも喋ってたじゃないですかあ」
「ねえねえ駅員さんって彼女いるんですかー?」
「いないんですよねーっ。他の駅員さんに聞いちゃったーっ」
何だって女の子っていうのは集団になると騒音になってしまうんだろう。まあ、わからなくもないけどね。身近にこんな素敵な人がいたら叫びたいし、あわよくば近づきたいって思うだろう。わたしだって駅員さん見たとき恥ずかしいほどミーハー気分だったもんなあ。さすがに叫ばなかったけど。
「お客様。申し訳ありませんがそろそろ改札を閉めさせて頂きますので」
さすがにこの手のことには慣れているのか、駅員さんはどこまでも冷静に駅員さんだ。しかしそれで納得しないのが女の子。あからさまに不機嫌でめげない声が上がる。
「ええーっ!?」
「あ、じゃあもうお仕事終わりなんですよねっ。飲みにいきましょうよーっ」
「あ、それいい! わたしいいお店知ってるんです」
積極的だ。強引に誘うだけあって、みんなそれなりに可愛い。うーん。タイミング外しちゃったな。すぐに帰ればよかった。
「すみません。今日は夜勤ですので」
「うっそーっ。だって夜中は電車走ってないじゃなーい」
「じゃあ、いつならお休み? これわたしの連絡先」
女の子の一人が名刺のようなものを駅員さんの胸ポケットにねじ込もうとする。駅員さんは誰にでも優しい。その笑顔に、みんな誤解してしまう。——罪だなあ。
終わりの見えないその押し問答が続いて、やがて勝利したのはやっぱり駅員さんだった。ようやく女の子たちが諦めて去ってゆくと、さっきまでの喧騒が嘘みたいにしんと静まり返る。そして、ホームの電気がいきなり消えた。結構真っ暗になっちゃうんだな。駅員さん、と呼びかける瞬間、ぎゅ、と抱きしめられた。
その体が、熱い。
「え……」
「すみません」
それはなんの〝すみません〟? 抱きしめてごめんなさい? それともさっきの女の子たちに囲まれてるとこを見せてごめんなさい? ——どっちにしても謝ることじゃない。
「やっぱりモテますね。真哉さん」
ぴく、と駅員さんが少しだけ反応する。
「それはどういう意味? 咲紀さん」
掠れたような声が耳に触れる。
「どういう、って、その……」
「どうでも、いい?」
よくないけど! でも今は、この状況の方が……ッ! ……っていうか、熱い? そっと、指先で駅員さんの額に触れる。
「ちょ……、熱あるじゃないですか! 真哉さん? 真哉さん大丈夫ですかっ? ちょっと、誰か!」
わたしの叫ぶ声に、さっきの平賀さんがやってくるまで、わたしは駅員さんの身体を抱きしめることしかできなかった。
*+*
えーと? どうしてこんなことになってるんだろう。
平賀さんがじゃあ帰りますからあとよろしく、と言ってニヤニヤしながら帰ってしまったのはもう三十分も前のこと。目の前には苦しそうにベッドに眠っている駅員さんの姿がある。ここは駅員さんの家で、電車からよく見る高級マンションだったことにびっくりした。確かに聞いてた通り駅からすぐ近くだけど。
本当にこの家には何もなくて、平賀さんに居てもらって一通り薬やら何やらを買い込んで来た。24時間のスーパーってホント便利だ。
「う……ッ」
平賀さんが一緒に来てくれてよかった。わたしじゃパジャマに着替えさせるのもちょっと抵抗があるし大変だし。額や首筋の汗をタオルで拭って、さてどうしようかな、と思う。もうすぐ三時。かといってこんな状態の駅員さんを置いて帰るなんてできない、よなあ。
ピピッ、と鳴った体温計を取り出してみると、38度を越えていて。それでも少しずつ下がり始めたことにはちょっとだけホッとする。布団をかけなおして、そっと部屋を出てリビングのソファにそっと腰を降ろした。ぐるりと眺めて、この部屋テレビないんだ、とふと思う。ソファと見るからに高価そうなオーディオセット。たくさんのクラッシックのCDとDVD。珍しいLP盤もたくさんあった。そして大事そうに置かれたヴァイオリンケース。
音楽家の部屋だ、となんとなく感じた。やっぱり好きなんだな音楽。
「……咲紀、さん?」
不意によばれた名前にばっと立ち上がって振り返る。
「真哉さんっ。まだ寝てなきゃ駄目ですってば」
「……どうして……?」
わたしがここにいるのかって聞きたいんだろう。よろめいたその身体を支える。その手はまだかなり熱い。
「駅で倒れたんです。覚えてますか?」
全然力の入らなさそうな駅員さんをなんとかベッドまで運ぶ、けど最後の最後で支えきれずに一緒に倒れこんだ。
「ったー。だ、大丈夫ですか?」
目を開けるとわたしは駅員さんに押し倒されるみたいな格好になっていて、不覚にもこんな時なのにどきどきする。
近い! 近いからッ!
苦しげな息遣いが首筋にかかる。相手は病人! 病人だーっ! だからどうなのわたしのこのあたかも未経験のような反応は。
「真哉さん、身体起こせますか?」
これは、さすがにわたし一人じゃ無理ッ。
「……咲紀さんの、」
「え?」
「ぼくの名前を、呼ぶ声、……好きです」
心臓全力疾走開始。もー、なんなの。そんな状態で無意識に誘うみたいなこと言わないで欲しい。よいしょ、と何とか駅員さんの下から這い出して、よいしょとベッドに横たえることに成功する。微妙に枕に届いてないけどいいや。足は出てないんだし! 床に落ちてた掛け布団をかけようとして、腕を引かれて抱き込まれる。
「ちょ、……ッ」
男女が逆なら襲ってくれと言わんばかりのシチュエーション。わたし、前にシたのはいつだった? とか勝手に暴走し始める脳を問答無用でシャットアウトして。次の瞬間子どもみたいな寝息が聞こえてきて、小さく笑う。急速に頭が冷静になって行く。起こさないように絡まった腕から逃れて今度はちゃんと布団をかけてあげられた。額に滲んだ汗をもう一度タオルで拭って冷却シートをおでこに貼る。
「早く、よくなって下さいね」
少しだけ、のつもりの仮眠が、気がつくともう朝だった。——六時半。がばっ、と飛び起きて目の前の駅員さんの熱を測ってみる。三十七度三分。ちょっと微妙だ。でも昨日よりは確実に下がってるし、楽そうな呼吸になってる気がする。よかった。おでこでカラカラになってた冷却シートをそっと剥がして新しいものに換えた。本当はパジャマも新しいものに換えてもらったほうがいいんだけど……。それは起きてから自分でやってもらおう。
じいっと駅員さんの寝顔を見つめて、目にかかっていた髪をそっと払ってあげる。と、その手が不意に掴まれた。
「ごめんなさい。起こしちゃいました?」
気だるげに目をあけて、不思議そうにわたしを見つめる。
「……咲紀さん、まさか一晩中ここに?」
「そう、ですけど、熱下がったみたいだからそろそろ帰ります。おかゆとか買ってあるので食べてくださいね」
作ってもよかったんだけど、食べられる状態じゃなさそうだったし。
「食欲あるなら今から食べます?」
いえ、と掠れた声がなんだか甘い。熱で潤んだ目が犯罪的に色っぽい。わたしが男なら絶対に「誘ってる?」と思うところだ。
「じゃあ、ゆっくり眠ってください。平賀さんが今日は休めって言ってました」
「……もう少し」
「え?」
「もう少しここにいてくれませんか」
寝ぼけてるのかな?
なんだか可愛い。
「……いいですよ」
駅員さんはホッとしたように笑って、再び目を閉じ眠りにおちた。




