義務とは習慣であり学習ではない
学習を行わなくなったとき人は獣となる
叡智を求めよ、それが人の傲慢であることを知るときまで
叡智を恐れよ、それが人としての指標となるだろう
何故無能は無能のままなのか?何故ゆとり教育は失敗したのか?
それは学習と言う行為に対する理解のなさが引き起こしたものだ
学習と言うものはそれまでの生活習慣の中から逸脱した状況を理解することによって行われるものである
習慣と言うものは流れ行く時の中で作られ歴史となりそれを区切る指標となるもの、それこそが習慣である
また歴史と習慣を跨いで行われる営みそれを伝統と呼ぶ
伝統を継ぐもの達の中から逸脱するものが現れるのは伝統を
習慣という惰性にも近いものに変化させないためではないだろうか?
現在の義務教育は習慣となり惰性によって積み重ねるだけのものとなっている
確かに安定性はあるだろうだが知識のある精神性の幼い者たちを世に放つ
生産性の無い行為を社会はいつまで許容できるだろうか
もっとも手軽な学習方法は幼い子供に大人としての人脈、姿勢などを見せることだろうか
子供の中の社会から逸脱させ自らの理解が及ばない場所、物、人をみせ
その子に理解しようとする姿勢を学習させる、学習としてはとても基本的なことだろう
だが今の社会を見て子供は学習していると言えるだろうか
すべて一から丁寧に説明してしまい子供の興味を引くことを忘れていないか?
子供は横のつながりを作るのは自然とできるが縦の繋がりを見せ
大人を頼ることを学習させることを忘れていないか?
子供のころ種も仕掛けも理解できなかったものに強く興味を引かれたことを覚えていますか?
画一的な教育内容により天才は足を止めざる終えなくなり向上心を失い秀才はその歩調に矯正され
凡才は習慣として惰性に生きるようになる
今の時代を先導すべき者達は私のような底辺の屑でも出来る思想を理解できているはずなのに
何故?どうして今の教育形態に疑問すら抱かないのか
これ以上無気力な若者を生産しないためにも人類には頑張ってほしいものだ
私ような素人が何故啓蒙する状況になっているのだろうか
専門職の皆さんや哲学者の皆様は社会の現状をどう考えているのでしょうか?