耐え忍ぶ者/その時科学者に電流走る/雨雲と雷
#1.
「アーク放電だッ」
両者の距離約6メートル。遮蔽物ゼロ。稲妻の速度から逃れる術なし。メンゲレは地面に義手を突き立てた。逃がす。出来る限り地中に。そして絶叫した。何故だ。力を振り絞るためだ。人が生き延びる力を。
老科学者は腕に備えた試験管の中身をすべて地面に振り撒いた。これをもって草花を溶解し、蒸気で放電を軽減せんとする。一瞬後に稲妻が猟犬のごとく白煙の中へ飛び込み、膨大な量な音と光と熱を発した。
彼は耐える。赤く点滅する視界の中で歯を食いしばる。これは言わば決戦だ。俺とお前の勝負ではない。人の意思が天の意思を挫くのだ。メンゲレの最終戦争はその数秒の間無限とも言える戦局を展開し、最後に彼は衝撃に耐えきれず吹き飛んだ。そして濁り切った元水仙川の只中に落ち、沈んだ。
放電を終えた時代は憔悴し、深く息を吐いた。電撃を放った右手に目をやると、皮膚が赤くただれていた。今はこれが限界だ。生身の限界。彼の体は時に目に見えぬ障壁で弾丸から保護され、また時に重力のくびきを逃れることができた。だが体は生身だ。あくまで大いなる加護を授かった中学三年生。校庭で恐るべき改造を受けたのはその精神だけだった。そしてその精神がこれから肉体を凌駕する。
時代は右手を強く握りこんだ。その拳が再び死の稲妻を纏う。彼は痛みをものともせず、向こう岸の浅瀬から瀕死の体で立ち上がったメンゲレに照準を合わせた。
「……無理だ」
だが、撃てなかった。川に電流が流れる恐れがあるからだ。例えここでこの狂気の科学者を逃がすことになろうと、川の中に築かれた無数の生態系を虐殺するわけには行かない。その上ここからでは距離も遠い。威力半減だ。
#2.
「……うあああっ!」
時代はおもむろに右手を振り上げ、稲妻を天高く放った。晴天に霹靂の走ること実に5秒、それは先ほど憎きメンゲレに放った時間よりも長い。引き裂かれるような激痛と、焦がし苛む熱が時代に襲い来る。これでは雷に打たれているのと変わりがない。
大自然の代弁者は一体何を思って自らを傷つけようというのか? 答えは、言わばそう――自戒だ。これまで幾度となく踏みにじられ続けた命に、今再び銃の筒先が向けられた。それも弱きものを守ると誓った、自らの手で。これが咎でなく何であろう。彼は自分が弱きもの達に課しかけた痛みを、こうして自らに味あわせることで戒めているのだ。
「何だ一体」
その様子を呆然と眺めるのは、川の対岸から上がり柳の木に掴まって身を起こしたメンゲレである。電流の暴発だろうか。いや、違う。彼の頭に稲妻のような閃きが浮かんだのは、奇しくも放電が終わるのと同時だった。
「人質が要るッ」
瞬時に天使の潔癖を見抜き、メンゲレは土手を駆け上った。よろけ、転びながら登りきった先で、見つけた。先ほどの稲妻が狼煙となり、ランドセルを背負った男児が一人、息せき切ってこちらへと土手を駆けてきている。少年は全身から煙を吹くガスマスクの男を見てたじろいた。踵を返して逃げようとするがもう遅い。
「捕まえた! 君は双子だな?」
彼は少年の襟首を掴んで持ち上げた。だがそれは紛れもなく敵が人類根絶をもくろむ悪魔であり、人質など何の役にも立たないことを失念していたためだった。そう、この天才科学者が本当にとるべきだった行動はといえば、他ならぬ土手に生えた柳の木に駆け寄り、未だ懐に秘めた猛毒をちらつかせることだったのだ。
だが彼がそのことに思い当たらなかったのも無理はない。これまでいついかなる状況であっても、彼は道端の木に高い価値を見出したことはなかったのだから。メンゲレは泣き叫ぶ少年をつむじを前にして水平に抱え上げ、上着から取り出した黒焦げのメスを喉元に突き付けた。
「黙れ、黙らないかこの人類は! 少しは同種のために頭を使え!」
さらに仮面の嘴が開き、異常に長い注射針が現れる。彼の計画はこうだ。
人質で時間を稼ぎながら、このモルモットの頸動脈に親生体性液状爆弾を注入する。身体から吹き飛んだ頭部がまだ多少の間生きている事は戦時下の人体実験で確認済みである。それを砲丸とすれば天使の体をを貫くのだ。
「人類は生き延びる! 私ともどもな!」
注射針が少年に突き立てられようかというその時、目前に怒りの天使が降り立った。
#3.
渾身の右ストレートがメンゲレの顔面を打った。鳥を象ったマスクがひしゃげ、嘴から血が噴き出す。もはや頭蓋も無事ではすむまい。間髪入れず地面に対してほとんど直角に近いハイキックがその胴に突き立てられた。追撃だ! 溜まらず少年を手放した科学者は空高く舞い上がり、見えない壁に張り付けられたように中空でその動きを止めた。
「……馬鹿な、これは」
血泡と共に嘴から呻き声が漏れる。仮面の奥で血走った目が大きく見開かれた。今や時代の身に着けるブレザーやネクタイはその浮力を失い、汚らしく血と煤にまみれていた。驚くべき無重力の神秘はメンゲレの身に働いている。これでは電流をどこか別の所へ流し去ることができない。
「雨雲と雷の名に於いて」
「死なんぞ! 私の頭脳は人類の至宝だ!」
「地罰!」
ひと際明るい稲妻がメンゲレの体を撃った。電流は仮面の中の薬剤と邪悪な発明装置を焼き尽くし、狂おしき頭脳の持ち主の頭部を爆ぜさせ、殺した。残された体は吹き飛び、川岸の住宅街の側溝へ落ちた。その手足だけがまだばたばたと痙攣を続けていた。
時代は右手を庇いながら、息も絶え絶えになって立ち尽くした。胸の内では止め処なく湧き上がっていた憤怒の感情が引いていくのを感じている。自然との共鳴が薄れていた。恐らくはこのままでは身が持たないのだ。だがしかし弱い命を守るという厳然たる使命感と、人類種への冷たい軽蔑の念は、未だ心の中に燻っている。道端で泣きじゃくる少年の声が煩わしい。時代は少年に向き直った。
「……とっとと帰れ。雷に打たれても知らないぞ」
言った後で、憔悴しきり逃げ去ろうとする少年をすぐ呼び止めた。時代は何か説法のようなものをしようとしたが、馬鹿らしくなり何も言わないうちにやめた。
「くらえっ」
「ぎゃひぃん」
尻を蹴り飛ばして子供を駆けださせる。それから時代は少し笑ったが、その笑みは暗い影に呑まれて消えた。背を向けた側溝で、何かが動いているのがわかった。彼の首下でネクタイが僅かに重力に逆らう。
おもむろに振り向いた時代は目を瞠った。
「貴……様……は……」
血泡の弾ける音と、ひゅうひゅうと空気の通る音とが混じる声。側溝の中に立っていたのは首のないメンゲレの死体だった。電気ショックの引き起こす人体への痙攣作用が、彼が今わの際にとろうとした言動をテープレコーダーめいて再生しているのだ。泥水の滴る右手が跳ね上がるように持ち上がり、時代の方を指さした。喉から泡交じりの声が漏れる。
「双……子……が……殺す」
言い終わると同時に、辛うじて白衣の左肩に付着していた義手が火花を散らし、爆発した。爆炎と煙が晴れたとき、そこには博士の死体の破片ばかりが転がっていた。それらの一部は風に乗って吹き飛び、また一部は側溝の中を流れていった。こうしてメンゲレはその肉体すら残さず、地球上から消え去ったのだった。




