何あれ/鬼畜のいる風景/刹那の見切/ファントム・ペイン
#1.
時代は人気のない校庭の隅から跳び上がった。風に舞うひとひらの羽毛のような、人の肉と骨の重みを感じさせない跳躍だった。左腕の骨を折った佐々木を気遣う女子の輪からただ一人海棠だけがそれをぼんやりと眺めていたが、時代が校舎の3階の壁を蹴って真横に跳んだ時に見失った。
「……何あれ」
#2.
その頃発狂教授メンゲレは、中学校からほど近い河川敷を歩いていた。上着が膝まで届く白衣姿で、首から上をガスマスクとも鳥の仮面ともつかない奇妙な鈍色の装具が覆っている。服の上から左腕の前腕部を貫通していくつも突き立てられている試験管が、特殊な義手の装着を伺わせた。試験管の中身はいずれも劇薬である。彼は川に流出した場合にどの薬がどのような汚染作用をもたらすかを熟知している。
「来たな」
狂える天才はふと足を止めてつぶやいた。町中に張り巡らさせていた重力子線センサーが、ガスマスクに搭載された受信機に『それ』の接近を知らせたのだ。彼は6500万年前に起きたとある事例と、それを糸口とした偏執的な計算から、もう何年も前から『それ』が現れる場所と日時とを予見している。自分の発見した『それ』、まだ生まれてきていない『それ』を彼は仮に天使と呼んだ。恐らくは人類抹殺を目的とする、死の天使である。
「――馬鹿な真似を」
メンゲレはひとり呟き、川の流れに目をやる。水仙町を貫く元水仙川は、住宅地から郊外の水田地帯にかけて、平地をゆるゆると流れていく。科学者の立つ青草の茂った水際からは、定規で引いたように真っすぐ進み、遠いビルの群れに溶け込んでいく川の流域が見て取れた。
左様、地球は丸い。だから川は地平線まで流れて見えなくなるのだ。事によっては今この瞬間も地球の反対側では森林が伐採され、野に住む獣たちの命が弄ばれているのかもしれない。だがこの街はどうだ。土手の斜面には青葉が伸び、川の水は茶色く濁れども時折魚の跳ねる様子が見て取れる。ここでは別段人が自然に熾烈な変化を強いるでもなく、言うなればすでに独自の生態系が築かれている。
というのも遥か昔に人が土手を作り、川の流れを改めたからで、以来この川原の環境は少なくとも数百年に渡って均衡を見ているはずだ。そのときの開発の咎でこの街に住む人々を責め立てて皆殺しにする? 百年遅い。現在の熱心な環境破壊者を殺して回るのならまだしも、人類抹殺に意味はない。この生粋の人種差別主義者はそう考えている。
さらに、彼には天使が自分の命を真っ先に狙うだろうという自覚があった。科学の発展を望む一心であったとはいえ、長い長い生涯において少々命を奪いすぎたようだ。だから、自分から武装してここへ来た。何も人類を守ろうという殊勝な心持ちだけで片田舎まで出張ってきたわけではない。
先ほどの百年遅いという言葉は大義名分の面でも、それともう一つ、実務の面でも言えることである。老科学者はただ一つ残った生身の右手と、肘から先を義肢化した左手とを見比べる。人類はこの百年で天使に対抗する力を手に入れた。彼は勝利の確信をその両の手に握り込んだ。
#3.
メンゲレは不意に白衣を翻して振り返った。同時に突き出した右の拳は、高速で河川敷へと飛び来った時代の顔面をとらえていた。タイミングや角度、力の入れ具合はマスクの下のコンピューターが弾き出した。現代最先端の右ストレートだ。
「いきなり殺しに来たか。できれば天使さまと話す時間がほしかったが」
時代はやはり羽毛の様に軽々と吹き飛び、草原の中央に叩き付けられた。奇妙な感触だ。メンゲレは天使を拳で捕らえた感覚をよく吟味する。妙に軽いが、柔い。皮膚や肉は人間のそれだ。ならば殺せる。
「さようなら、愛星主義野郎」
彼の掲げた左の手の平から銃口が伸びた。試験管と同じく左腕に埋め込まれた、機銃の銃声が人気のない河川敷に響く。耳障りな破裂音が数十秒も続き、銃身の発する熱で試験管の中身がゴボゴボと泡を立て始めたとき、彼はようやく掃射を止めた。腕を折り曲げると、肘の先に開いた白衣の切れ目から薬莢が零れた。
「……どういうことだ? 何故死なん」
時代は――変わらず草原に立っていた。弾丸は河川敷に散らばっている。彼の体には一つたりとも触れてはいない。風もないのにブレザーが揺れ、ネクタイは煙のように顔のそばをたゆたう。
「命ってのは平等なんだ」
天使が少年の声で口を聞いた。神託を告げる預言者のように高慢に、身の丈に合わぬほど尊大に。顔もまた幼さの残る少年のそれだが、瞳だけは憎悪と呪詛の念で紅蓮に燃えていた。復讐するは彼にあり。
「命がけで来てみろ。生きたパンチじゃなきゃ効かないからな」
「なるほどそうか。また一つルールがわかった」
メンゲレは左腕に突き刺した試験管を抜き取り、沸騰寸前の劇薬を弧を描く軌跡で地面に撒いた。途端に凄まじい蒸気が巻き起こり彼の体を覆い尽くした。さながら絶えず煙を吹きたてる火山の火口である。
「貴様ァ!」何より薬剤を浴びた青草が瀕死だ。時代は怒声と共にメンゲレに飛びかかる。今まで感じたことのない、沸き立つような怒りの感情が彼の胸を焦がしていた。
メンゲレは蒸気に身をくらましはしない。退くことは人類の敗北だからだ。代わりに薬剤を被った泥濘をそこへ根を張った青草ごとつかみ取り、時代の前に投げ出した。土くれは目に見えぬ力には妨げられはしない。敵地侵入成功!
科学者は蹴りが胴に突き刺さるのを感じた。何という重たさか。一瞬遅れて、放った土くれが二人の眼前で目もくらまんばかりの大爆発を起こした。
#4.
「ずあっ!」
「ぐわぁつ!」
メンゲレは自分の起こした爆発で4,5メートルも吹き飛んだ。だが人類の天敵を前に寝てはおれぬ。吹き飛んだ先で素早く身を起こしてわが身のダメージを確認する。咄嗟に体を庇った左手は、中指から小指にかけてが吹き飛んでいる。ハイテックな機能を詰め込んだマスクは全体にひび、その内部でより高度で希少な頭脳から夥しい出血。蹴りを食らった肋骨が折れている。内臓も一つ二つイったか。
「無傷だ」
人類種の消失に比べれば無傷。ダメージを受けた内臓を取り払い、より多機能の疑似器官を取り付けられることを思えばむしろプラスですらある。素早く精神を立て直し盤石のものとした科学者は、次の土塊を掴むべく義手を地面に突き立てた。
人さながらの動きを可能にする精密マニュピュレーターはもはや機能せずとも、スコップ代わりになれば十分。
「ずあっ!」
だがしかし不意にメンゲレは土くれを取り落とし、左腕を押さえて呻いた。幻肢痛だ! 全身に走る打痛がかつて彼に備わっていた左腕との別れを想起させ、ありもしない左腕が痛むよう錯覚させたのだ! そしてその時時代は!
「ぐわぁぐわぁつ!」
同じく幻肢痛だ! 目前で目にした草花の虐殺が、その四散した時に感ずる痛みが、彼の体に錯覚となって迫ったのだ! 彼は自らの肩を掻き抱いて身をよじらせた。そう、彼にとって間近で起こった爆発のダメージはそう大したものではない。メンゲレの胴を蹴ったことで、爆発よりも早く飛びのいたからだ。だが草花は死んだ。そういうことだ。
「くそっ……何がどうなってやがる!」
彼は痛みから体をかばおうとする腕を、己を強いて引きはがした。右の手を開き、怨嗟の思いを込めて固める。すると拳が痙攣し、淡い光を放ち始めた。その様をメンゲレが見ていた。彼もまたすでに幻肢痛を覚悟の下に封じ込めている。科学者は相手の次の手を読み取ろうとする。右拳に稲妻、景色を歪める陽炎。
「アーク放電だッ」
両者の距離約6メートル。遮蔽物ゼロ。稲妻の速度から逃れる術なし。メンゲレは地面に義手を突き立てた。逃がす。出来る限り地中に。そして絶叫した。何故だ。力を振り絞るためだ。人が生き延びる力を。
時代の右手がひときわ明るく輝いた。何もかもがその光の中に消えた。