宇宙の缶詰
1.蟹缶を用意して、中身を食べる。
2.ラベルを剥がして、空になった内側に貼り付ける。
3.蓋を閉めて、ハンダ付けする。
「これで『宇宙の缶詰』の出来上がりというわけだ」
ラベルの貼り付けにより、缶の内と外をひっくり返すことで、外側にある全宇宙を缶詰に内包する。それはとある島国の芸術家がつくった、梱包芸術だった。
「人によってはジョークやとんちだと感じるかもしれんがね」
ダイニングテーブルの上に置かれた平べったくのっぺらぼうな缶詰を、ポカンと見つめる助手にウインクを送る。と、助手――シイナは魔女の呪いがとけた姫君のごとく顔をほころばせた。冗談だと理解したらしい。
「『宇宙の缶詰』なんて仰るから、私はてっきりこちらのことかと」
片付けの途中だったのだろう、彼女は抱えていた縦長の缶詰を掲げる。やや大振りな桃缶を彷彿させる形だが、無論、桃缶ではない。手紙や小さな荷物を宇宙空間に射出する輸送ポットだ。『宇宙の缶詰』と聞いたら、まずそちらを指すのが一般的だった。
シイナは出来上がったばかりの『宇宙の缶詰』をまじまじと見つめ、
「面白いですね。内と外、視線の向きを変えるだけで、空っぽだったはずの缶詰の中身が全宇宙になってしまうだなんて」
レム博士は博識でいらっしゃる、そう微笑む。彼女は二十代後半のはず。だがそのころころと弾む声は、少女のそれだった。もっとも、己の年齢と比較すれば、まさしく少女に違いない。レムは柔らかな心持ちで、伊達に年をとっておらんよ、と返す。
「まだまだお若いですよ。それはそうと、今日はどうしますか?」
地球時間に合わせてある掛時計を見上げる。針は午後三時過ぎを指していた。
では珈琲で。はい、かしこまりまして――呼吸の合った軽妙なやりとりは、懐かしい誰かを思い起こさせる。シイナは束ねた髪を揺らして、キッチンへと姿を消した。
一人残されたレムはダイニングの椅子に深々と腰掛ける。吹き抜けのガラスパネルの向こうに広がるのは、練絹で織りあげた漆黒の褥にきらきらしいビーズを縫い付けた宇宙、錦の帯のごとく横たわる銀河、そして波打つ銀色野原。
太陽系から遥か彼方。銀河上流に浮かぶちっぽけな惑星のちっぽけな観測基地――通称《銀河の最果て》に赴任して三十年以上が経つ。計画初期には二十名以上滞在していたスタッフも、今では所長であるレムと助手であるシイナの二人きり。当時の名残である巨大なダイニングテーブルは、寂寞感を与えないでもない。だが雑然とした騒々しさよりも、うつろな静寂を好むレムは、概ね現状に満足していた。
何より……ほどなくして芳しく豊かな香りが、ゆうらり漂ってくる。助手が淹れるお茶の味は素晴らしい。半径五万光年以内に、これほどの腕前を持つ者が他にいるとは思えなかった。
カップと焼き菓子を載せた盆を持ったシイナが現れ、和やかなコーヒーブレイクが始まる。釉薬が塗られ藍色に焼き上げられたカップに、琥珀色の液体はよく映えた。食器を選ぶ美的センスも、彼女を高く買う理由の一つだ。レムは上機嫌で、何も入れないまま薫り高い液体に口を付けた。
シイナも向かい合った椅子に腰掛け、カップを手にしながら、
「そうそう、小惑星群の衝突警告について宇宙旅行協会からお礼のメールが届いていましたよ」
「ああ、そんなこともあったね。しかし、あれは運が良かった。宇宙の缶詰も届いたわけだし」
《銀河の最果て》は娯楽に乏しい。三十年もの間、レムが何をして余暇を過ごしていたかといえば、主に天体観測だった。仕事との境目が曖昧な趣味ではあるが。ひねもす観測ドームに閉じこもっていると、思い掛けないものを見つけることがある。新しい惑星や彗星ならば喜ばしいが、そればかりではない。宇宙災害の兆しを発見する時もあり、そうした場合、レムは速やかに関係機関に警告を発していた。
だがくだんの件では、折り悪く大規模・長期間にわたる磁気嵐が発生し、メールによる通信が不可能となっていた。そこでピンチヒッターとして使ったのが『宇宙の缶詰』だ。中に手紙を入れて銀河に流す。ある程度の目測はつけるが、基本的には大海を漂うボトルレターと同じだ。しかし、宇宙航行協定により、宇宙を往く者は、缶詰を発見したら宛先へ届ける(あるいは近付ける)最大限の努力を払うことが義務付けられている。また各所には、缶詰専用レーダーが設置されており、時間はかかるものの到達率は六割という中々の好成績をあげていた。
「博士の警告が無ければ、大惨事になっていたかもしれませんね」
「彼らも無能というわけではない。私が言わなくとも誰か気付いていただろうさ」
レムの言葉を謙遜と受け取ったのか、シイナは控えめに微笑んだ。ふと、話の流れに乗って連鎖的に思い出す。
「そういえば、もうすぐ星祭りだったね」
「ええ。何かご馳走をつくろうと思っていますが、リクエストはありますか?」
普段の食事はもっぱら自動調理器に任せているが、当日は手料理を振舞ってくれるつもりなのだろう。君の作るものならなんでも美味いよと呟くと、彼女はこちらを軽く睨んできた。やや生真面目なきらいがある助手には、この手の世辞――レム自身にとっては嘘偽りのない本音だが――は通用しない。眉を上下に揺らしてその眼差しに応えると、シイナは堪えきれずに小さく噴き出した。そうして緩んだ空気の中、なんでもないように尋ねる。
「彼は、今年はやってくるのかね?」
「来ないんじゃないでしょうか。去年も来ませんでしたし、もう諦めたんでしょう」
珈琲にクリームを落としながら、シイナは呟く。くるくると渦巻く乳の道。それを辿る孔雀石色の瞳が、長い睫毛に翳る。細い指が、鋼繊維のようなプラチナブランドを耳にかける。白大理石のような顔色が、さらに透明に色を失う。
その変化は微細なものであった。しかし、彼女とはもう五年の月日を向かい合って過ごしているのだ――。
美しい助手を眺めながら、レムは残りの珈琲を啜った。
*
河岸にはススキ野原が広がり、さあさあと風にさざめいていた。それはまるで、一本一本が白いハンカチを振って、去りゆく季節に別れを告げている様にも見える。時折、尾花の隙間からまっ青なリンドウが顔を出し、ランプのようにちらちら瞬いては揺れた。
観測基地を出て、シイナは《庭園》と呼ばれる惑星地表の自然保護区域を歩いていた。
《銀河の最果て》は、厳密にいえば「最果て」ではない。太陽系から人類がもっとも遠く離れた場所に造った建造物であるため、便宜上そう呼ばれているだけで。天体、気象、生物、周辺惑星の探査・観測などを目的とした施設だが、一通りのメニューは消化している。現在、シイナの主な仕事は、観測基地の雑事と《庭園》の見回りぐらいだった。
背の高い草を掻きわけて岸辺まで下りると、水の匂いがいっそう濃く立ち昇る。靴底がキシリと硬質の砂を噛み、鼓膜と背筋を震わせた。
滔滔と流れる銀河の水面は、磨き抜かれた黒曜石。黒々としながらも、時にぎらりと鋭く輝く。河べりにしゃがみ込んで手を浸せば、水はしびれるほど冷たく、怖いぐらいに澄み切っていた。瑠璃、玻璃、黄玉、柘榴石、猫目石、緑松石……川底に敷き詰められている色とりどりの礫がはっきりと見透せる。一見、浅いが、実はつま先が届かぬほど深い。シイナはうっかり落ちてしまわぬよう、用心しいしい身体を起こした。
ずっと向こうの上流は、紫紺、群青、紺碧に黒を混ぜたような色合いで、縁がぼおっと白く淡く発光しており、空との境界を曖昧にしていた。その光は、初めは小さなマッチ箱程度であったが、見つめていると、みるみる大きくなってゆく。畳んであったシーツを勢いよく広げるように。やがてそれは全天を覆い尽くし――
賑やかな啼き声、夜桜のごとく降りしきる羽、暗天を埋め尽くす無数の白い影……
シイナは感嘆とともに、空を仰いだ。彼方より飛来した白い鳥の群れ。清らかな銀河の水を求めて、星から星へと渡り飛ぶ、星間渡り鳥だ。姿形は地球の白鷺とほとんど違わない。正式な学名はまだ無く、シイナたちは単に、鳥、白鷺、Egretなどと呼んでいた。
群れは銀河の中洲に降り立つが、一際大きな体躯を持つ雄鳥だけがシイナの前に舞い降りる。
彼はこの群れのリーダーだ。仲間が食事をする間は、こうして外敵と向き合い、皆を守護する。敵とみなされているのは少々複雑な気分だが、とっくり見つめ合えるのは喜ばしい。それほどに彼は美しかった。
瑪瑙の嘴、黒真珠の瞳、蛋白石の輝きを帯びた羽毛。首はしなやかなS字カーブを描き、ふっくらとした背や胸からは細い細い生糸のような飾り羽を垂らしている。
なんと高雅、なんと優美、なんと威風堂々。
何度見ても、熱い驚きと感動が、身体の芯から湧き上がる。シイナはその雄鳥にだけ名前を付けていた。もっとも、自身の胸の裡に限ったもので、レムにすら教えていないが。その名が喉元まで出かかった、刹那。
ザァっ――一斉に鳥たちが羽ばたいた。
シイナの頭上を飛び越え、気流に乗り、一息に駆け抜ける。広げた双翼が星明りに透かされ、鍵盤のように行儀良く並んだ骨格までがはっきりと見て取れた。さながら、夜空に張り付けられた鳥の標本。その神がかった精密さに思わず息を呑む……
と。夜陰を震わす、低い汽笛がシイナを陶酔から呼び覚ました。飛び去る鳥たちと交差して、それは唐突に虚空から姿を現す。
黒鉄の箱がいくつも連なった不恰好な芋虫。砕いた水晶、煌めく雲母、閃く銀箔……それは星よりも鮮烈な燐光を放ちながら、螺旋を描いてゆっくりと滑り降り、観測基地に併設されている無人プラットホームに吸い込まれてゆく。
ああ、そうだ。吹き上げられた髪を押さえながら、シイナは吐息を落とした。
今夜は年に一度の星祭り。そして、《銀河の最果て》に銀河特急鉄道が到着する日だった。
*
銀河特急鉄道の到着は歓迎すべきものだ。
現在、《銀河の最果て》と地球を繋ぐのは、年に一回のこの鉄道のみ。いくつもの転送門を潜り、何万光年と離れたこの地へ、半月かけてやってくる。そして四日間停車した後、折り返し地球へと帰ってゆく。
地球から物資を送ってもらうには、銀河特急鉄道の到着を待たねばならない。緊急の場合は『宇宙の缶詰』を使わないでもないが、届くか届かぬかわからぬカケに乗るよりは一年待ったほうが賢明と言えた。食料はほぼ自給自足しているが、問題なのは生活雑貨などの消耗品だ。今回、レムはボールペンの替え芯を心待ちにしていた。
だが、何にでも例外はあるもので、銀河特急鉄道から降車する全てを歓迎できるわけではない。注文しておいた荷物を運び入れる自走台車を押し退け、どかどかと観測基地に足を踏み入れた男を、レムは嘆息交じりに見上げた。
「シイナ!」
濡れたように真っ黒な上着を着た背の高い青年は、大声を張り上げる。うろうろとフロア中を歩き回るその姿は、主を捜す大型犬を彷彿させた。
「エリオ」
「シイナはどこだ!?」
青年――エリオは名を呼ばれ、ようやくレムに気付いたかと思えば、二年ぶりの再会だというのにまともな挨拶ひとつ寄越さない。成長したのは図体だけらしい。
「彼女ならここにはおらんよ」
「どこに隠した」
「誰も隠しとりゃせん。《庭園》の見回りだよ。銀河特急鉄道の窓から見えなかったかね?」
言い終えてハッと気付く。咄嗟、レムはきびすを返したエリオの上着の裾を掴んだ。それはぐっしょり重たく湿っていて、至極不快な感触だったが、なんとか堪える。確か彼は推進球の選手だとか言っていた。身長が高いだけでなく、胸板は分厚く、四肢は引き締まり、当然力も強い。そんな若者を引き止めるのは、痩身のレムには至難であったが、
「《庭園》には必ず単独で降りること、それがルールだ。鳥たちを混乱させてしまうからな。そもそも君には宇宙生物調査士の資格が無い、観測基地の外に出ることはまかりならん」
「二週間もかけてここまで来たのに、まだ待てっていうのか!?」
「二週間かけたんだ、もう十分ぐらいなんでもなかろう。大体君は諦めたんじゃなかったのかね?」
「誰がそんなことを」
「彼女が言っていたよ。実際、去年、君は来なかった」
「インフルエンザに罹っちまったんだよ」
無理やり乗車しようとしたら、宇宙にウイルスばらまくつもりかって駅員に叩き出されたんだ。ようやく力を緩めて、エリオは呻く。
「でもちゃんとメールを送って」
「メールは磁気嵐による通信障害で滅多に繋がらん」
「缶詰も流した」
「あれの到達率は六割だ。おそらく今頃、宇宙の藻屑になっておる」
向き直った彼は、ハンサムと言えなくもない面に、骨を取り上げられた犬そのままの情けない表情を浮かべていた。
と。ドアが開き、シンプルな黒のワンピースの上に白衣を羽織ったシイナが入ってくる。
「シイナ!」
エリオは歓声にも似た声を上げる。対する彼女は視線を落としたまま、柳眉をひそめた。それは冗談めかして怒ることはあっても、沈着冷静、明朗闊達、小春日和な彼女が滅多にみせない表情だった。だが実のところ、レムはこの顔が嫌いではない。本物の美人は、怒りにこそ圧倒的な凄みが表れる。
「シイナ、こんな僻地で老人の茶飲み相手をしている場合じゃない、君には地球で果たすべき義務がある――」
走り寄る犬を、シイナは無駄のない身のこなしで避けた。つんのめったエリオの背に、彼女は小さくしかし鋭く投げかける。
「この床は何?」
先ほどのやりとりで上着から滴ったのだろう、床には点々と水滴が落ちていた。エリオはきょとんとして、その後ばたばたと無意味に裾を捲くり、
「今、星祭りだろ。 汽車の中で窓を開けて寝てたら、ケンタウルに露降らされて」
「ここはタチバナのご実家じゃないの。すぐに拭いて頂戴」
理由はどうでもいいとでも言わんばかりに冷然と遮り、シイナは近くに立て掛けてあったモップを押し付ける。エリオは呆然と受け止める。
「博士、私は荷の整理をしてきますので」
「ああ、頼むよ」
凛々しい後ろ背を見送りながら、手料理は延期だな、とレムは悟りめいた境地に至っていた。
*
エリオが年に一度、《銀河の最果て》を訪れるようになったのは五年前。それは彼がまだ華奢な少年だった頃で、シイナが赴任した年と重なっている。
片道二週間かけて、観測基地内でたった四日間――正確には三日と四分の一日――を過ごして、また二週間延々と揺られて帰る。余程の銀河鉄道マニアならともかく、バカンスと呼ぶにはあまりの強行軍だ。だが若さの為せる技なのか、彼はそんな疲労を蚊に刺されたほどに感じていないようだった。
「地球には問題が山積している、環境問題、民族紛争、憲法改正に個人情報流出、晩婚、少子化、年金不正受給、男子の草食化、女子の肉食化、エトセトラエトセトラエトセトラ」
「…………」
「若い身空で隠居生活? そりゃ単なる引きこもりじゃないか。本人は良いかもしれないが、恩を仇で返す仕打ちだ」
「…………」
「つまり俺が言いたいのはこうだ。生命を育みし、母なる地球。そこで暮らし、奉仕し、新たな生命を繋ぐ。それってのが真の親孝行に繋がるわけで――」
「いい加減にして。あなたの、あなたたちの理屈を私に押し付けないで!」
翌朝から金魚の糞のごとく付いて回っていたエリオを、ついにシイナは一喝した。くるりと向き直ったはずみに、束ねた髪が、興奮した猫の尾のように膨らむ。今まで無視していた分、鬱憤が溜まっていたのだろう。彼女の猛攻が始まった。
「私は両親の顔も覚えていない。あなたみたいに蝶よ花よと純粋培養されたわけじゃないの!」
「いや、違うって、だから地球は人類の母であって、人類皆兄弟で」
「兄弟? 私達が?」
シイナの顔が皮肉げに歪む。気圧されたのか、今度はエリオが黙り込んだ。
「正直に言ったらどう? 体裁が悪いので帰ってこい、そう僕のパパとママが怒っていますって」
「…………」
「《銀河の最果て》の仕事には意義があるし、愛着もある、何より誇りを持っている。私は望んでここにいる。あなたのように親の言いなりになっているわけじゃない!」
そう怒鳴ると、シイナは流星の素早さで《庭園》へと繋がる出入り口を飛び出した。
「…………」
後に残されたのは、飼い主に叱られてしょげかえった犬。少々気の毒だと思わないでもない。だが、彼の説得――本人はそう信じて疑わないようだが――は、あまりに遠回り、かつ稚拙だった。あれでは喧嘩を吹っかけているようなもの。一方を貶めるやり方では、うまくいきっこない。
そう。エリオが《銀河の最果て》くんだりまでやってくる理由はただひとつ。シイナを地球に帰還させることだった。彼らは親戚で、エリオは一族の代表としてやってきているらしい。まあ、代表というより使い走りというところだろう。彼はまだ学生で、体力と暇を持て余しているから。
「飲むかね?」
レムはキッチンから出ると、白いボウルに入ったミルクティーを差し出した。
「聞いてたのか?」
「あんな大声で、聞かないほうが難しい」
ダイニングとキッチンは壁一枚しか隔たっていない。ついでに小窓が付いている。恨みがましい視線に、レムは真っ当な事実を返した。
エリオはボウルを受け取りながら、ダイニングの椅子に大きな体を押し込めるように座った。溜息がミルクティーに小さな漣を立てる。
「一体、何がシイナを引き止める? アンタからも言ってくれないか、地球に帰れって」
「さあね。だが彼女は《銀河の最果て》の『相応しき人材』だ。それに足る理由がなければ、帰れなどとは言えんよ」
と。エリオは向かいに座ったレムを神妙に凝視する。
「まさか、アンタ」
言い掛けて、だが、いやいやそれは無いなと一人合点したように頷く。そしてずずいとテーブルに身を乗り出し、
「アンタだっておかしいと思わないか? そりゃちょっとトウは立っているけど、シイナは十二分に若くて美人だ。そんなイイ女がこんなド田舎に引っ込んでいるなんて」
「詮索は簡単だよ。だが、向かい合ってお茶を飲む以上に勝ることは無いと私は思っている」
その言葉に、エリオは虚をつかれたように瞬いた。
助手の過去。気にならないと言えば嘘になるかもしれない。だが現況に支障が無ければ、彼女が某国の諜報員であろうが、酒場の歌姫であろうが、星の王女様であろうが、構わなかった。しかし。
「君は本当に彼女の親戚なのかね?」
エリオが来てようやく丸一日を終えようとしているが、既にシイナは三度怒鳴っている。しかもそれは抑えて抑えて、堪えて堪えての結果なのだ。二年前はここまで険悪ではなかった。もう諦めたのだと安堵したところの来訪に、苛立ちが倍増したのかもしれない。そのうち超新星のごとく大爆発して再起不能になられては困る。
レムは数年前から抱いていた疑問を口にした。
「血の繋がりはない」
「ほう」
エリオは、居心地悪そうに尻をもそもそ動かす。やや長めのブラウンの髪をぐしゃぐしゃ掻き混ぜる。つぶらな人懐っこい瞳をきょときょと動かす。
しばらくの後、彼はしっかとレムを見据え、助けてくれないか、と囁いた。
「春には俺も就職して、光年単位の旅行なんかできなくなる。今年がラストチャンスだ。事情を知れば、博士も彼女は帰るべきだと考えるさ」
*
喩えるならば北極星。その人は、自分にとってそんな存在だった。
血が昇った頭に、河風は心地良かった。通り道がうっすら視えるのではないかと思うほど風は澄んでいる。
《庭園》を歩きながら、シイナは嘆息した。無視して、当り散らして、後先考えずに飛び出すなんて、子どもじゃあるまいし。博士はあのやりとりを聞いていただろうか? 羞恥で再び頬が火照ってくる。しかし、あのまま一分一秒だってエリオとは一緒にいられなかった。
俯かせていた顔を上げると、金、銀、砂子の中洲で二羽の鳥が休んでいるのが目に入った。羽飾りがある鳥と無い鳥。おそらくつがいだろう。二羽は仲睦まじく互いを毛繕いしている。
……死んでも、君を離さない。
ふいに、そんな台詞が脳内で再生される。抱きすくめられ、耳元で囁かれたのは一体いつの頃だったか。
自分には身寄りが無い。それ自体、恥じることではないが、無条件に庇護してくれる大人がいない子どもは惨めだ。周囲の大人の都合に振り回され、幾度、意志を、人格を、矜持を、踏みにじられただろう。
早く大人になりたかった。確かなものを掴みたかった。揺らがぬ何かが欲しかった。
必死に勉強して、奨学金を勝ち獲って、進学した。教授に紹介してもらった科学技術研究所でのアルバイト。そこで出会った若きビジネスマン――その人は、とある名家の御曹司だった。
出会って数カ月での求婚。まるで夢物語。シンデレラ・ストーリー。
だが、戸惑いもした。俗な言い方をすれば、住む世界があまりに違っていたのだ。親族の反対、口さがない噂、あからさまな嫉妬。それはおとぎ話とはほど遠い、人の情念が渦巻く暗黒星雲。きらきらしい天の川を背景に、黒々と口を開けた石炭袋に足を踏み入れるようなものだった。
だけど、その中で北極星が輝いていたから。羅針盤のように未来を指し示してくれたから。永遠の灯台として照らし続けると誓ってくれたから。
と、つがいが揃って中州から飛び立った。寄り添って、空を舞う彼ら。その姿を、乞うように見上げながら思う。
ああ、あんなにも自分は若かったのだ、と。
――想像もしていなかったのだ。北極星が消えてしまうだなんて。
*
「彼女の死んだ夫は、俺の兄なんだ」
痩せぎすの老人は、聞いているのかいないのか、眠そうに眼をしょぼつかせる。一抹の不安を感じつつも、エリオは続けた。
「二人は周囲の反対を押し切って結婚した。だけど、その二年後に兄貴――タチバナ・ユリトは病死した」
病が発見されたのは、死の半年前。すぐさま入院となり治療が始まったが、若いだけに進行も早く、あっさりと兄は星となった。
その時、シイナは二十一歳。亡き夫を偲び、一生を寡婦として過ごすにはあまりに若かった。両親――つまり、シイナの義理の――は、第二の人生を歩むように勧めたが、彼女は頑なに籍を抜くことを拒んだ。
何度も繰り返された家族会議。だが一周忌を迎えた直後、シイナは地球外基地の研究員に応募して、《銀河の最果て》へ飛ぶ。誰にも相談せずに。
「多分、意固地になっているだけなんだよ」
エリオは思う。二人の結婚は猛反対され、結果として押し切る形となった。その手前、さっさとタチバナ家と縁を切り、他の誰かと幸せになるなんてできない。お堅い彼女らしい考えじゃないか。
だが、両親は心情的にも物理的にも納得済みだ。今は心からシイナの幸せを望んでいる。加えて、このままタチバナ家に残れば、財産や地位を狙っていると穿った見方をされるのではと心配している。ユリトの死すら、若妻が関与しているのではないかと流言が飛び交ったぐらいなのだ。
「地球に戻って、明々白々に清算して、もう一度やり直す。彼女の幸せを考えるなら、こんなど田舎に引き止めておくべきじゃない!」
バンっとテーブルを叩いた反動に、ボウルが揺れる。
「博士もそう思うだろう?」
ん、ああ? レムは窓の外、宇宙の彼方に巡らせていた視線をようやくエリオに戻した。そして、のんびりとミルクティーを一口含んでから、
「……幸せとは、主観的なものにすぎない」
「あん?」
若い自分をからかっているのか、寝言なのか、ボケちゃってんのか。
不満が顔に浮かんだらしく、レムは穏やかに左右に首を振った。丸眼鏡の奥には、理知的なブルーの瞳が潜んでいる。つまり、と老博士は続けた。
「彼女にとっては、ここが、缶詰の中身なのだよ」
*
《銀河の最果て》は、夫の死後、ようやく泳ぎ着いた安らげる場所だった。
だというのに、彼ら――彼はしつこく追ってくる。どうして今更、平穏を乱す? 彼らに望むことなどもう何も無い。ただそっとしておいて欲しいだけなのに。
エリオが来て三日目。どうにも我慢できなくなり《庭園》の見回りに逃げ出す日々が続いていた。
野原を進むシイナの足取りは乱雑だった。こちらの精神状態を察してか、鳥たちも近寄ってこない。これ以上歩き回っても、悪影響を与えてしまうだけだ。シイナは嘆息して、軌道――いつもの見回りコース――を離脱し、観測基地に戻ることにした。
ドーム型の白い建物は外から眺めると玩具めいて見えた。ガラス越しに中の様子を窺う。顔を合わせれば、声を荒げずにはいられない。できるだけエリオと会いたくなかった。《銀河の最果て》は自分の職場だ。だのにどうして戻るのに、気兼ねしなくてはいけないのだろう。そこはかとない理不尽を感じる。結局、彼ら金持ち連中は、貧しい者から何が何でも搾取しないと気が済まないのだ――
「シイナ」
にわかに声を掛けられ、大仰に肩が上がる。振り返ると、覗き込んだダイニングではなく、キッチンの勝手口からレムが半身を出していた。
「飲まんかね?」
と、レムは猫模様のマグカップを掲げ、微笑んだ。
ふわふわのホイップクリームに、どこか懐かしいキャラメル風味。温かなミルクココアは、強張った身体をほぐし、ささくれた心を和ませた。
「美味しい。どんなコツがあるんですか?」
広いダイニングにはシイナとレムの二人だけだ。エリオは個室で寝ているとのこと。久しぶりにリラックスできると思わず頬が緩む。向かいに座ったレムは眼を細め、
「私の姉もよくそんなことを訊いてきたよ。そういえば、君は姉によく似ている」
私が? シイナはなんだかおかしくなってしまう。だって博士はずっと年上なのに。
「仲の良い姉弟だったよ。身体が弱くて長く入院していてね。彼女の元に本や手紙を届けるのが私の日課だった」
「じゃあ、長いこと会えなくて、お寂しいんじゃないですか?」
言い終える前に、はたと気付くが遅かった。
レムはとても優しげな表情をしている。シルバーグレイに染まった髪。柔らかに刻まれた皺。遠い故郷の星を彷彿させる青い瞳。シイナは、ココアの甘さに、急に泣きたくなった。
「彼女が逝ってしまったから、私は《銀河の最果て》へ行く決心をしたんだ。たったひとりの身内だったからね」
「……申し訳ありません」
全然構わんよ。いつもと変わらぬ調子に、安堵すると同時に恐縮する。
「君と同じだ」
一瞬、何を言われたか理解できなかった。聞き返す前にレムは続ける。
「地球への帰還を勧めるよう、エリオから頼まれたよ」
――君の幸せを思うなら、と。
その一言に。一気に感情が沸点を超えた。
なんと卑怯、なんと姑息、なんと傲慢な。博士を巻き込むなんて、信じられない。これは内輪の揉め事なのに。どうしてこんなことができるのか、理解の範疇を超えていた。
「勝手な言い分です!」
「だから、君の話も聞くべきだと思ってね」
怒りのままに立ち上がったシイナとは対照的に、穏やかにレムは告げてくる。
「ご主人のことは、残念だったね」
その一言に。今度は身体中からゆるゆると力が放出した。
博士は、ずるい。唐突な身の上話だった。五年共に暮らし、その半分以上の月日を二人きりで過ごした。その間、プライベートに立ち入る話はほとんどしていない。だからこそ功を成す策略だった。まずは己の内をちらつかせ、こちらを誘う。わかってはいるが、腹立たしさよりも、親近の情が湧いてしまう。
まんまと罠に嵌ってしまった。シイナは諸手を上げて降参した。
お星様が願いを叶えてくれたのね。きっと他人はそう羨んだに違いない。だがこの結婚は、子どもの寝しなに語ってあげられるような話ではなかった。
エリオが――ユリトの両親が、自分の帰還を望むのは、結局、家名に相応しくない存在を排除したいだけなのだ。籍を抜かせて、いくばくかの金を与え、二度とタチバナ家に関わるなと。
婚家に未練があるわけではない。ただ、思い出も、気持ちも、プライドも、何もかも剥ぎ取られるのが我慢ならなかった。彼等は強欲だ。全てを持っているのに、自分に遺されたささやかなものさえ奪おうとする。そして、それが正しいと、当然だと、あなたのためなのよ、と言ってのける。虫唾が走るのはそれだった。彼らは善行を施していると信じて疑わないのだ。かつて自分を取り巻いていた大人たちのように。
「私は噂や中傷が怖かったんじゃありません。タチバナの手が届かないところに行きたかった。でも地球にいたら、友人やお世話になった方にまで迷惑をかけてしまう……」
だから地球外基地スタッフ募集に飛び付いた。おいそれと連絡できない宇宙に逃げ出してしまえば、脅しも意味がない。もちろん、彼らは正義の主張をしているだけで、脅しなんて露ほどにも考えていないのだろうが。しかし。
「……こんなにしつこいなんて。博士にまでご迷惑を掛けて、何とお詫びして良いのか」
シイナは項垂れる。今更な謝罪だとは分かっていたが、言わずにはおれなかった。赴任して五年、星祭りが来るたびに落ち着きを失いヒステリックになっていた。極大期を迎えた太陽だって、もう少し大人しかろう。だがレムは、咎めるでもなく、説教するでもなく、見守っていてくれた。裏返せば、ずっとレムの優しさに甘えていたのだ。
「今は、どうだね?」
「え?」
「君は逃亡者としてやってきたかもしれない。だが五年経った今、君がここにいる理由は?」
「…………」
「この先も逃げるつもりなら《銀河の最果て》に居続けるのは得策じゃない。エリオぐらいならかわしようがあるが、彼らが本気になれば、手荒な手段も辞さんだろう」
――君が望むなら、他の地球外基地への紹介状を書いても良い。
だが、レムの言葉が終わらぬうちに、
「違います!」
シイナは反射的に叫んでいた。自分でも驚くほどの大音量で。
もちろん、博士は、心底シイナを案じて申し出てくれたのだろう。それについては、途方も無い感謝と友愛を感じる。だけれども、だからこそ、はっきりと伝えねばならない。湖面の静けさを湛えたレムを真っ直ぐに見据える。
「確かに私は逃げてきました。でも、今は」
星の河、銀の原、白い鳥。ガラスパネルの向こうに広がる宇宙。それらは最早、自分とは切り離せない。逃げ出した地球の外。だけど、いつの間にか幸せのラベルは、内と外、張り替えられていた。レムならば、いやレムだからこそ、この気持ちを理解してくれるはず。
「……私は、ここに居たいんです」
それは哀願だった。視線が、固く、深く、きつく、結ばれる。
宇宙の片隅に二人ぼっち。それでも、シイナは《銀河の最果て》に留まりたかった。
*
喩えるならば月。会う度に印象が違う女だった。
新月、三日月、上弦の月。十六夜、居待月、有明の月。夜毎満ちては欠けるように表情が変わる。時に満月に行き当たり、ようやく全貌を掴んだと思ったら、絶対に見せない裏の顔が隠れているのに気付かされた。
彼女は、兄が選んだ相手だった。十五の歳、初めて紹介された日を鮮明に覚えている。
明るく、快活で、溌剌と笑う。それが自分にとっての『女の子』のイメージだった。実際、当時付き合っていた娘も同級生も女友達もその通りで、『女の子』たちがいるだけで周囲は明るくなった。
だが、たった四歳年上の彼女は、ことごとくそのイメージを覆した。恒星のように自ら光を放つのではない。隣にいる誰かの光を借りて――あるいはかすめ盗って――、存在を浮かび上がらせる。そう、彼女の本質は陰影なのだ。大昔、月には奇妙な生物が棲んでいると信じられていた。彼女の背負った影には、何が潜んでいるのか。
品行方正、眉目秀麗、聖人君子だった兄。跡継ぎとして嘱望され、一度も両親に逆らったことがなかった。しかし、その時ばかりは頑として意志を貫き、二人は結婚した。一体、何がそこまで兄を駆り立てたのか。それを考えると空恐ろしくもある。表立っては言わなかったが、内心、自分もこの結婚に反対していた。
いや、直感したのだ。この女は、兄に相応しくない、と。
鳥の声でエリオは目を覚ました。といってもニワトリではない、もっと引き絞った弦楽器にも似たそれ。
空に浮かぶのは満天の星と、緑に茶色の縞模様が走る飴玉のような月。壁の半面を占有する窓越しに己を照らすそれらを眺め、ああ、ここは地球じゃないのだと思い出す。
考え事をしながら寝入ってしまったらしい。半身を起こして伸びをすると、床に落ちた薄青い影法師も同調した。
割り当てあられた小部屋の居心地は悪くなかった。《銀河の最果て》を訪れるたびに通される部屋。元々はスタッフの個室だったのだろう。まめに掃除されているのか、ほこりも無く、シーツも清潔だった。
時計は午前二時過ぎを指している。エリオはしまったと舌打ちした。作戦を立て直し、もう一度話し合うつもりだったのに。今日の二十四時には銀河特急鉄道に乗らねばならない。できることなら、シイナも連れて。
自然と嘆息が漏れる。エリオの苦労をよそに、彼女は老人や鳥の相手をしてばかりで、一向にこちらの話に耳を傾けない。
一体、何が彼女を引き止める? 五年間繰り返した問いは、衛星と同様、エリオの頭をぐるぐる巡り続けている。そういえば老人がのたまっていた、缶詰の中身云々とは、どういう意味なのか、そもそも意味があるのか。
窓の外では、銀河が流れ、ススキが波打っていた。時折、赤、青、緑と鮮烈な流星が地表をかすめて走り去る。その光景は壮大で不思議で、確かに引き寄せられた。だが、こんな映像は地球でいくらでも入手できるはずだ。娯楽もない、友人もいない、ファッション雑誌の最新号も取り寄せられない生活の代償としては、いささか安すぎるのではないか……
ふいに。エリオは貼り付けられた画の中、奇妙な影を見つけた。河岸をさすらう白い影。それは風になぶられ、頼りなげで、谷間に咲く花を思わせる。推進球で鍛えたお陰か、エリオはすこぶる視力が良い――彼女は裸足だった。
まさか。エリオはベッドから跳び起きた。
「シイナ!」
おっとり刀で駆けつけた銀河の水際、彼女は音も無く振り返る。
寝間着か、部屋着か、彼女の纏う白いワンピースの裾が揺れる。いつもは束ねているプラチナブロンドが舞い、顔の半分に薄い紗を掛ける。四肢はだらりと垂れ下がり、セルロイドの人形めいて冷たく感ぜられる。
エリオはぞっとした。奇妙な月と河面の星々に晒された表と、対比して、一層深く暗く沈む裏。背負った影には、何が潜んでいるのか――いる。確かに。あまりに禍々しく、物騒で、あやしい獣が。
「こんな、夜中に。どうしたんだ?」
声が上擦る。シイナの素足は水に浸っていた。二人の距離は三メートルといったところか。
「こんなことしたって、兄貴は喜ばないぞ」
一歩近付く。一息に近寄るには遠過ぎる。その気になれば彼女はすぐにでも深々とした河に身を投げてしまうだろう。考えなしに声をかけるのではなかったと歯噛みするが、もう遅い。
「帰ろう、シイナ」
差し出した腕が震える。彼女は無表情で、無機質で、無言だった。星は、高温であるほど赤ではなく青白に燃え盛るという。冷たい面の裏で、彼女が内心、何を考えているのか全く推し量れない。その一方でシイナは、こちらの欺瞞を見透かしているに違いない。それぐらい彼女の眼差しは透明だった。
……欺瞞?
胸中で繰り返す。そう。兄も、両親も、タチバナの家名も、彼女の幸せも、みんな嘘だ。《銀河の最果て》くんだりまでやってくる理由はただひとつ。そんなの決まってる。
「俺と一緒に帰ろう。地球へ」
直感した。この女は、兄に相応しくない、と。
だが、裏返してしまえば――兄は、この女に相応しくない。ただの嫉妬に成り代わる。
初めて会った時から、捉えられていた。引き寄せられていた。その影に潜む獣の引力から逃れらない。
ならば、いっそこの手に――。
引き寄せようとしたのか、奪おうとしたのか、共に墜ちようとしたのか。白い腕を掴んだと思った瞬間。
連想したのは芍薬だった。ほんのりと肌色を帯びた花びら、ぎゅっと寄せられた豪奢なギャザー、それが一斉にばらけて雪のように舞い落ちる。
実際にエリオが見たのは、闇夜に飛び立つ白鷺の後ろ姿だった。きらきらきらきら、金剛石の粒をこぼし、天上への階を翔け昇る。
「擬態だよ」
呆然と仰いでいるところに、しわがれた声が降ってきた。振り返れば、ススキに埋もれるようにしてレムが佇んでいた。それこそ擬態めかして。
――群れのリーダーは、外敵に近付き、脳に影響を与える波動を発する。それにより相手の奥底に眠る、最も心を揺さぶる存在を探り当て、自身に投影・具現させることで外敵の注意を引き付ける。
教科書でも読み上げるかの口調。大学の講義でホログラムを見せられているように現実味が乏しかった。
「あれは星から星を移り住む、星間渡り鳥。渡った先には必ず外敵がいる。だが星が違えば、当然、外敵もその性質も違う。それゆえに発達した能力だ」
「……心を揺さぶる存在?」
理屈はどうでも良かった。胸に引っ掛かった言葉だけ、エリオは繰り返す。
「普通は天敵の姿を投影するのだろうが、食物連鎖の頂点にいる人間には『天敵』はおらん。結果、恐怖するもの、憎むもの、尊敬するもの。そして、愛するものを現す」
愛するもの。ならば。
一体、何が彼女を引き止める? 五年間巡り続けていた問い。明確に、明白に、非情に、その答えが舞い降りる。
愛した面影。今はもうどこにもいない。二度と会えないはずのその人――
「シイナは、」
鳥はすでに遥か彼方。翼を水平に広げ、羽ばたくこともなく、夜を切り裂き、突き進む。いつの間にかエリオは膝をついて、祈りを捧げるような姿勢で見送っていた。レムは続く言葉を厳かに引き取る。
「銀河の最果てで、宇宙で一番幸せな夢を見続けておるんだよ」
*
ららら、ら。らら、ら。
シイナは小さく歌いながら、いつもの軌道を歩いていた。いつ覚えたのか、誰に教わったのか、正しい歌詞すらわからない。宝石箱から古い指輪を取り出して眺めるように、時折、胸の奥底に眠る旋律を口ずさむ。
エリオが来て四日目。彼は朝食の席で、諦めて帰ると言い出した。そればかりか、もう二度と《銀河の最果て》にシイナを連れ戻しに来ないと誓ってみせた。
青天の霹靂だ。それから彼は昼食にも夕食にも、部屋に閉じこもって顔を出さない。夜はわざわざ手料理をこさえたというのに、缶詰に封をされたように沈黙したままだった。結局、レムと二人きりの食事を済ませ、今は午後八時を回ったところだ。あと四時間で銀河特急鉄道は発車する。
一体、何があったのか。大して驚かなかったレムの様子から、彼がエリオを説き伏せたのだと察せられるが、シイナにはさっぱり見当がつかなかった。
と。彼方から呼ぶ鳥たちの声に、物思いは呆気なく霧散する。
シイナは河辺へと駆け出した。ああ、彼がやってくる。鼓動が打ち鳴らされるのは、吐息が熱っぽいのは、走っているせいだろうか。もどかしく行く手を遮るススキを払いのけ、光る砂利道を飛ぶように跳ねる。
息せき切って辿りついた馴染みの場所には、仄白く発光する羽毛に覆われた一羽の雄鳥がいた。一見、普通の白鷺だが、彼には驚くべき能力が備わっている。宇宙連合がその存在の扱いに頭を悩ますほどの。人知を超えたその力は災いの種となりかねず、おそらくあと半世紀は、宇宙の片隅に隠匿され続けるだろう。
シイナは我知らず微笑んだ。それで良い。招かれざる客のおかげで四日間もお預けされたが、もうタチバナの人間にも、他の誰にも手出しをさせない。
会いたかった、どんなにか会いたかった。宇宙の隅々を捜しても、《銀河の最果て》でしか会えない、私だけのあなた。閉じた瞳を開けた次の瞬間、佇んでいるのは――シイナは、彼の名を呼んだ。
「……会いたかった、エリオ」
「そう、君が心の底から望んでいるのは、ユリトではない」
予期せぬ、全く予期せぬ声が響き、シイナは振り返る。夜陰から現れたのは、小柄な老人だった。信じられない思いで眼を見開く。
《庭園》には、必ず単独で降りること。でなければ、人の記憶が入り混じり、どんな怪物――あるいは天使――を、生み出してしまうかわからない。所長たるレムが自らそのルールを犯しているなんて。
「《銀河の最果て》に赴任して三十年。最早、鳥たちは私を外敵とは見なしておらん。そこいらの石ころと同列扱いだよ」
こちらの疑問を的確に読み取り、レムは淡々と説明してくる。シイナは衝撃に塞がれて、何も答えられなかった。
「君は、エリオを愛しているね?」
「……違う、違います!」
それは、それだけは避けなくてはならない誤解だった。弾けた感情に押し出される叫び。違いますと狂ったように繰り返す。
と、シイナの取り乱した様子に驚いたのか、眼前の彼が大きく羽ばたいた。その時にはもう、人の形から鳥に戻っている。
「待って――」
伸ばした手は、いつだって星に届かない。咄嗟に漏らした静止の声は、中洲にいた仲間が飛び立つ音に掻き消される。
流星雨の光芒と見まがう、舞い落ちる羽の下。ただ、シイナはひざまずき、天上を見上げた。
夜空から北極星が消えた。
理由はいたってシンプルだ。それは元から北極星ではなかったのだから。
結婚一年目は良かった。しかし、二年目に入った頃には、互いに嫌気を感じていた。そも、愛があったというよりも、愛に酔った結婚だったのだ。
最初、シイナに声をかけてきたのはユリトだ。彼はアルバイト先の研究所の出資者であり、恩師とも親しかったため、誘われたら無下にはできなかった。もちろん、彼は好青年であり、シイナとていくらか惹かれたことを否定できない。周囲を見返してやりたいという打算もあった。結局、突き詰めてみれば、ユリトは貧しい娘の前に颯爽と現れた王子を、シイナはひたむきで可憐なシンデレラを演じていたに過ぎない。
育ちの違いは価値観の相違となり、意見が対立すれば、一言一句、一挙一動が互いの粗捜しの種となり、悪循環に陥った。ユリトは妻を侮蔑の眼差しで見ていたし、シイナは夫の傲慢さに反発した。どちらがどれだけ悪いという問題ではない。途中から互いに理解し合う努力を放棄していた。
だが、夫婦関係の維持については利害が一致し、なんとか体面は保っていた。そして結婚から一年半後、ユリトが倒れる。その時には、二人の間には修復不可能なほど深い亀裂が走っていた。
二人きりの病室で、痩せ細った夫は囁いた。死んでも、君を離さない、と。
――僕の死後、君は自由になれると思っている。だが、僕は君を手放す気はない。いわば、これは、責任の問題だ。
凍るような戦慄と、業火のような怒りが同時に湧き上がった。彼は自分を意思ある人間として扱っていない。飼った犬猫の面倒は最後までみる、そんなレベル。そして拾ってやったはずの下等な獣に看病されているという屈辱が、彼に呪いの言葉を吐かせた。死んでも、君を離さない。
しかし、病人に強く反論するわけにもいかず、話し合うこともなく、ユリトは逝った。
そして、その遺言は現実となる。シイナの意向を無視して、タチバナ家はどんどん物事を推し進めた――シイナの住居、シイナの生活、シイナの将来。彼らの魂胆は見え透いていた。一定の幸福は保証してやる。だからこちらが望む通り、大人しくしていろ、と。
ああ、と絶望した。あちら側とこちら側には、こんなにも隔たりがあるのだと。天上の星と、地上の石ころほどに。だが、安定した暮らしのために、プライドに付けられた傷を放置するには、シイナはあまりに若かった。だから、宇宙へ出奔してやったのだ。
《銀河の最果て》までエリオが追いかけてきた時は、逆襲された気分だった。
彼ら兄弟はあまり似ていない。ユリトは跡取りとして帝王学を叩き込まれただけに、責任感が強く、神経質なきらいがあった。一方、エリオは奔放に育ち、おおらかというか大雑把な性分だった。両親を大切にし、兄を尊敬し、兄嫁に同情する。超がつくほどお目出度い人物。
喩えるならば太陽。四方八方、他人の迷惑顧みず光を放つ。《銀河の最果て》まで届いたその光は、あまりに眩しく、押し付けがましく、だけど確かに温かかった。いつの間にか温かいと感じる自分がいた。
一年、二年、三年、続けて彼はやってきた。だが、四年目には来なかった。一体、何があったのか。磁気嵐によりメールは通信不能。『宇宙の缶詰』を流したが、届いたかどうかさえ定かでない。事故か病気か、それとも……諦めたのか。
彼が自分に好意を持っているのは薄々感じ取っていた。だが、人の心は移ろう。北極星すら消えてしまう。身をもって知っていたはずだ。それなのに動揺した己に、何より動揺した。そして次の瞬間、激情に囚われた。光の温かさを撒き散らし、後には残るは、荒涼とした寂寞のみ。やはりエリオもあちら側の人間なのだ。踏みにじられた者を一顧だにしない。
これは、愛などではない。断じて違う。
「……憎悪であり、殺意です」
しぃんとした河面に、小さな呟きが波紋を立てる。
「憎悪も、殺意も、出所は一緒じゃないかね? 内と外、裏返せば、一人の人間に対する執着だ。擬態は心の奥底を映し出す鏡、嘘はつけんよ」
レムの言葉に責めるニュアンスはない。シイナは左右に首を振り、
「あれは私が望んだ、私だけの人形です。実物とは違う」
「君はエリオと話し合うべきだ」
それは柔らかな口調でありながら、死刑宣告にも等しかった。地面に膝をついたまま見上げたレムは、眼鏡のレンズが反射して表情が読めない。
「エリオに黙っているわけにはいかんよ。君が言うように、実物とは違うかもしれん。だが原型ではある。ならば尚のこと、人格の改変はタブーだ」
彼に告白する? できるわけがない。こんな所業を知れば、彼は。
「無理です、絶対……」
喩えるなら太陽。眩しく、清浄で、温かな光。エリオは自分を貞淑な寡婦だと思い込んでいる、だからこその好意。それが偽りだと知れたら……夫の眼差しが甦る。あの眼で、もし、見られたら。
「黙っていてください、お願いです、何でもしますから――」
無様だとは理解していたが、どうしようもなく、縋り付き、懇願する。
人形のエリオは、自分を蔑まない。変わらない。安心できる。彼さえいれば他に何も要らない、たとえ実物が《銀河の最果て》に来なくとも。博士さえ黙っていてくれたら、この楽園は保たれる。『宇宙の缶詰』に蓋をして、その中だけで一生暮らせる。なのに。
「君は現実のエリオの拒絶を恐れている。それに君がタチバナ家から籍を抜かなかったのは、彼との絆を断ちたくなかったからだろう? これが愛でなくなんだね?」
「…………」
「私は五年間、君を見てきた。おそらく、当人よりも、その機微に詳しい」
――いずれにせよ、責任者として看過することはできんよ。
憐れむような、悼むような、済まないようなその声音に、知る。
決して許されない。見逃されない。断罪されるのだ。
「……言えない。言えるわけない」
シイナは呻き、顔を覆った。
一番高い星に手は届かない。だからこそ地面に這いつくばって必死に集めた星の屑。それすらも指の間からこぼれてゆくのなら、どうして生きてゆけばいい?
河原の小石か、夜光虫か、それとも落ちた涙か、足元がぼんやりと明滅した。泣き崩れるシイナの脇に、レムが屈み込む。肩をさする手は、慰めというよりも、幼子をあやすそれだった。
「ならば、手紙を書いてはどうかね?」
「……手紙?」
「全てを手紙に記し、『宇宙の缶詰』に入れて、銀河に流す。……君の告白が届くかどうかは、大いなる宇宙の意思に委ねよう」
*
喩えるならば真昼の月。おぼろに、はかなく、あえかに微笑む。
白い病室で、彼女は体調が許す限り、便箋にペンを走らせていた。自宅に届いていた彼女宛の手紙を渡すと、笑顔を浮かべ、差出人を確かめる。その面に射す翳りに気付かないわけではない。だが、素知らぬフリができるほどに、それは淡い淡い翳りだった。
そして、今日もまた、決して返事が来ることがない手紙を預かるのだ。
「…………」
レムは軽く目蓋を押さえた。観測ドームで、日課である天体観測をしているうちに、うたたねしてしまったらしい。昨夜から様々なことがあったため、疲労が溜まっていた。
広げっぱなしのノートから身を起こし、備え付けの洗面所に向かう。顔を洗おうと蛇口を捻ると、自然、正面の鏡と向き合うことになり、自身の老いを客観視せざるを得なかった。
直径十五メートルほどのこのドームは、レムの仕事部屋兼個室だった。赴任早々、私財を投入して造った施設で、通信機器、缶詰レーダーの設置など、現在でも少しずつ改良を加えている。小ぶりでありながらも、個人所有としては銀河一の性能と使い勝手の良さを備えていると自負していた。
眼鏡を掛け直し、机上の置時計を確認すると、二十三時三十分。もうすぐ銀河特急鉄道が発車する。
あの後、シイナは全ての顛末を手紙に書くと承諾した。憔悴し、青白く、生気に乏しいその様は、ますます姉に似ていて、同情を禁じ得なかった。そもそもレムには、シイナを裁こうなどいう考えは欠片もない。前にエリオに言ったように、向かい合ってお茶を飲む以上に勝ることは無いと思っているのだから。
傍から見れば、シイナとエリオの気持ちはひどくわかりやすかった。だが、年に一度しか会えぬ織姫と彦星なぞ、昨今では流行らない。この膠着状態を脱するには、少々手荒な方法を取るしかなかったのだ。
手紙は有効なツールだ。自身の心と向き合い、話すよりも正確に伝えたいことが立ち表れる。何より書くという行為は人の心を慰めるもの。姉は死の間際まで手を止めなかった。たとえ、それが一方通行な想いだと気付いていても。
レムは部屋の中央に設えてある望遠鏡を覗き込み、途中になっていた星々のご機嫌伺いを再開した。万事、変わりない。予定通りの運行だ。デスクに戻り、観察記録を記入する。
再び、時計を確認する。発車まであと十分。そろそろエリオを見送りに行こうかと立ち上がった。
と、カンっと足先に何かがぶつかり、レムはデスクの下を覗き込んだ。そこにはのっぺらぼうの桃缶――使用済みの『宇宙の缶詰』が、何十個も絶妙なバランスで押し込められていた。『宇宙の缶詰』は、穴さえ開いていなければ、宛先ラベルを張り替えて、いくらでも再利用できる。ついつい溜め込んでしまった、いくつか処分せんとな――そうひとりごちながら、一つを手に取る。ふと気付いて、微かにこびり付いていたラベルの端を丁寧にこそぎ落とし、またデスクの下に押し込めた。
観測ドームを出て、まずはシイナの個室に向かう。通路の途中、ドタバタと慌しい音が聞こえてきた。曲がり角の先を覗き込むと、凄まじい勢いで走るトランクの残像が網膜に残った。時間ぎりぎりまで荷造りをしていたのだろう、最後まで騒がしい男だとレムは嘆息した。
シイナの部屋の前まで来ると、レムは白衣の襟を直し、髪を撫で付け、一呼吸置いてからノックをした。間を空けて幾度か繰り返すが応答がない。
「私だ。入るよ?」
すっきりと整頓されながらも、観葉植物や絵画が飾ってある女性らしい部屋。今は月影と星明りが招かれているだけで、主の姿は無い。洗面所を使用している形跡もなかった。
窓際に配置されているデスクには、便箋とペンが置いてあった。いかにも途中で席を立ったというふうに、文字は途切れ、ペン先には蓋もはめていない。大方、没頭しているところで時間に気付き、急ぎプラットホームに向かったのだろう。
さて、自分も行くかときびすを返し――思い直して、足を止める。最期(、、)ぐらい、二人きりにしてやったほうが良かろう。
なんとはなしに手持ち無沙汰になり、レムは便箋を手に取った。あまり趣味が良いとは言えない行為だが、まあ今更だ、確認の意も込めてざっと一読する。十枚近くにもわたるそれには、数時間前、銀河のほとりで交わされた会話の内容が流麗な筆跡で綴ってあった。余程シイナは集中して書いたのか、事の八割は書き上がっている。エリオへの素直な、そして複雑な想いも告げられていた。
『宇宙の缶詰』が届き、この手紙を読んだなら、エリオは何を思うだろう。怒るか、喜ぶか、戸惑うか。どれもありえるし、どれも違うような気もする。いずれにせよ、彼が《銀河の最果て》に来ることはもうあるまい……
と。夜陰を震わす、低い汽笛がレムを夢想から呼び覚ました。
飛び去る鳥たちと交差して、それはプラットホームから夜空にのそりと這い出る。
黒鉄の箱がいくつも連なった不恰好な芋虫。砕いた水晶、煌めく雲母、閃く銀箔……星よりも鮮烈な燐光を放ちながら、螺旋を描いてゆっくりと天へ昇る。
……ああ、銀河特急鉄道が、長い長い、果てしなく遠い旅路へ出る。窓の向こうに広がるその光景に、レムは吐息を落とした。
ふいに、レムはドアの向こうの気配に気付いた。シイナが帰ってきたのだろう。素早く便箋を机上に戻すと同時に、わずかにドアが開き、薄青い闇に一筋の光が伸びた。
「……シイナ?」
窺うように彼女の名を呼んだのはレムではなかった。ノックもせずに入り込んできたのは、ありえないはずの人物。
「博士。こんなとこで何やってんだ?」
一瞬、擬態かと疑ったが、それこそありえない。鳥がレムに現す擬態は彼女(、、)の姿しかない。エリオと《庭園》に降りた時は、既にエリオの心が読み取られていた。シイナと降りた時は、眼前に本物がいたのだ、わざわざ擬態するまでもない。
それは擬態でも夢でも幻でもない、タチバナ・エリオ本人だった。
「丁度良かった。博士の部屋に積んであった『宇宙の缶詰』もらってもいいか? 実家に一年は帰らないって連絡したいんだ」
レムの驚きをよそに、エリオは缶詰を掲げて気楽に訊いてくる。レムは愕然と繰り返した。
「帰らない?」
「あれから色々考えたんだけど……俺、やっぱりシイナに惚れてるんだ。そりゃ兄貴に敵うとは思っちゃいないけどさ。でも博士言ったろ?」
そして、エリオは真夜中の太陽のごとく破顔一笑。
「〝向かい合ってお茶を飲む以上に勝ることは無い〟って。名言だよな、殴られたみたいな衝撃だったよ」
「…………」
あ、これE・Tって俺と同じサインがしてある。すげえ偶然だなー、筆跡まで似てらあ。望遠鏡のように缶詰の奥を覗き込んだエリオの無邪気な声は、もうレムの耳に届いていなかった。
では、あのトランクの残像は?
なぜ、書きかけの手紙を放置した?
どうして、シイナは戻ってこない?
レムはエリオを突き飛ばし、部屋を飛び出した。抗議の声が上がるが構ってられない。
彼女は手紙を書いていた、書いているうちに己の正直な気持ちが見えてきた、そして続きを書く必要が無くなった。なぜなら。
「シイナ!」
駆けつけたプラットホームは、暗く、がらんどうだった。時折、きらりきらりと汽車が撒き散らした燐光の名残が漂う。空を仰げば、今まさに銀河特急鉄道は虚空にぽっかりと開いた転送門に吸い込まれようとしていた。
「止まれ、止まるんだ!」
レムはあらん限り声を振り絞った。届かないとはわかっていたが、それでも星の高みへと咆哮する。
日課の天体観測。星々は万事、変わりなかった。予定通りの運行――そう。予定通り、銀河特急鉄道の行路には、小惑星群が飛来する。たとえ予定外の乗客がいたとしても。
《銀河の最果て》から、走行中の銀河鉄道に連絡する手段は、無い。
蛇が茂みにするりと身を隠すように、列車の最後尾が、門の向こうへ微かな光を残して消えゆく。そして、その小さな瞬きさえも星々に紛れ……缶詰の蓋は、完全に閉じられた。
〈了〉
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