囚われ少女の自由
リメイク版にて初登場の『囚われ少女の自由』です。
まだ太陽が山に隠れる少し前の時間。
駐輪場で、一人の少女が立ち竦んでいた。
真っ青な顔に虚ろな瞳、どう見ても病人にしか見えない表情で少女は呟いた。
「そ……な……。嘘でしょ?」
少女は鞄の中を再び探り、適当にノートを取り出し、名前を確認する。そこには自分ではなく、同じクラスである男子の名前が書いてあった。
「間違えて持ってきちゃった……?」
記憶を再生してみるが、自分のロッカーの中から出した鞄を持ってきたはずだ。どこで入れ替わったのだろうか。
少女は涙目になり、呼吸も荒くなっていた。
「どうしよう……」
これから家に帰ってすぐに塾に行くというのに、こんなことでは帰りが遅くなってしまう。親からも先生からも信頼が失われるのではないか、と少女はますます不安になった。
さらに、この鞄の持ち主である少年にも迷惑をかけていると考えると……。
「と、とにかく教室に……。まだ、残っていてくれるといいけど……」
小鹿のように足を震わせながら少女は立ち上がり、昇降口に向かって駆けだした。
靴箱を見ると、鞄の持ち主はまだ校内に居るようだ。ふと、隣から声をかけられた。
「まだ帰ってなかったんだ?」
顔を上げると、少女の友人が立っていた。
「でも、今日って塾じゃなかったっけ?」
「うん……。そうなんだけどね」
少女は鞄が入れ替わっていたことを話した。
「え? それって大変じゃん!」
「うん。鞄の中には塾の宿題も入ってるし……。あと二十分で見つからなかったら、塾、休むしかないよ……」
涙声の少女の肩を掴み、励ますような大きな声で友人は言った。
「二十分もあるんでしょ!? それなら大丈夫だよ。アタシも手伝うから!」
「え、いいの? 部活とか……」
「今日は歯医者だから休んだんだ。時間はまだ先だから、半分ずる休みだけどね」
ニヤリと怪しげに微笑む友人の表情に、少女は思わず笑みをこぼした。
「……っと、そうそう。あいつ、さっきまで教室にはいなかったよ。だから……他の所を見てみるといいよ」
「うん、じゃあ……見つけても見つけられなくても、二十分後にここに集合ね」
「オッケー。じゃあ、アタシは東館行くね」
「じゃあ私は西館に。あと……ありがとう」
「困ってる人を助けるのは当然だから!」
親指を立て走り去る友人を見送り、少女も西館の廊下を走り始めた。
少女は時計を目にするたびに、塾のことを考えていた。だが少女は、塾が大好き……というわけではない。実際はその逆で、本当は行きたくなかった。
中学生のとき、自分の成績が悪くなってきた所へ、両親が塾を勧めてきたのだった。
『塾に通いたくないか?』
『いい塾を見つけたの。まず、体験だけでも行ってくれない?』
『いい所だっただろう。入ってみないか?』
(強制はされてないけど、あんな風に追い詰められたら断れないよ……)
「あのう、すみません」
ふと、声がして辺りを見回す。
「誰もいない……?」
「ここ、上です! 助けてください!」
少女が顔を上げると、そこには壁にぴったりとくっつき、狐のお面をつけた、明らかに怪しい人物がいた。
「ひっ……!」
少女の顔は再び真っ青になった。
「お、おばけえぇぇぇ!」
「え……ちょっと待ってくださいよー!!」
少年は手を伸ば――――そうとしたが、それも壁に密着しているので届くはずもない。
「みんな、ひどいよぉ……」
狐のお面から、涙がこぼれ落ちた。
少女は再び走り続け、次に足を止めたのは東館の三階だった。
「ああ……びっくりした。でも、あのひと、助けてって言ってたのに……悪いことしちゃったかな?」
廊下は静まりかえり、体育館から吹奏楽部のセッションが響き、よく聞こえた。
「もしかしたら、教室にいるかな?」
東館は友達の担当だが、一応覗いてみようと思い、三年四組と掲げられたプレートの下をくぐると――――。
「……で、ここで登場して。そしたら……」
「解った。あとは僕が……」
そこにいたのは、手伝っていてくれた友達と、探していた少年の姿だった。
「わあ、よかった! 見つかったんだね!」
「……! こ、これは……!」
時間を確認すると、気がついたときから十七分ほど経っていた。今から帰れば、まだ塾に間に合う。
「ごめんね、何か鞄が入れ違っちゃったみたいで……。あなたの鞄は昇降口に置いてあるから、私の鞄、早く返してくれる?」
塾のために、親のために、授業に遅れるわけにはいかない。少女が教室の中に入ると、少年は一歩あとずさった。
「ええっと……。この鞄は返せない」
少女が問い返す前に、少年は後ろ側の扉から教室を飛び出して行った。
「はっ、え……ちょっと!?」
「ほらほら、持ってかれちゃったよ? 早く追いかけて!」
「なな、何!? 探してくれてたんじゃ……」
「いいから追いかけて!」
「は、はいっ!」
友達の必死の形相に、少女は少年を追って教室を飛び出した。と、そこへ。
「わっ!」
「もぶっ!」
誰かとぶつかった。
「すみません、大丈夫です、か……?」
「いやぁ……ちょっと鼻をぶつけただけです。こっちこそすみません」
目の前にいたのは、大きくて黒い耳の、あの有名なネズミのお面を被った人だった。
「それでは急ぐので。失礼しました」
今日はお面の人が多いなぁ……と思いながらも、塾のことを思い出し、少女は再び少年を追った。
途中でお面を付けた不審者と何人かすれ違いながらも走り続け、少女が少年に追いついたのは教室を出てから十分後のことだった。
駐輪場で足を止めた少年に、少女は駆けより、腕を掴んだ。
「ねえ、鞄返して! 塾に遅れちゃう!」
そして振り返った少年は困惑の表情を浮かべた。
「なんで泣いてるんだよ……」
涙によって、少女の視界は滲んでいく。そして少年の腕を掴んでいた手から力が抜け、少女はその場にしゃがみこんだ。
「だって塾にっ、遅刻した……」
溢れる涙を袖で拭う少女の目の前に、少年はティッシュを出した。しかし少女は首を横に振り、それを拒んだ。
「通い始めて、から、こんな、一回もない……のに。あなたたちの、せいでっ……」
「実は、これは君の友達……あの子が、君のご両親に頼まれたことなんだよ」
その言葉で、俯いていた少女は顔を上げた。
「……うし、て? 塾に行けって、だから私は、ちゃんと、言いつけをま、守って……」
「それが嫌だったそうだ。親のために塾に行く君の姿を見るのが、ご両親は辛かったって」
「それなら、休めって言ってくれれば……」
「君は、そう言われて休んだことある?」
少女はハッと気がつく。
今まで『たまには休みなさい』と何度も言われた覚えがある。けれど、結局は振り替えで行くことになるのだから、と少女はそれを断ってきたのだ。
「だからいっそ、君を騙して学校に引きとめて塾に間に合わなくしてくれって」
「そんな……。ひどいよ、お母さんも、お父さんも、私を騙した二人も……。でもみんな、私のために気を使ってくれていたんだね」
微笑んだ少年はしゃがみこみ、少女を同じ目線になり、再びティッシュを差し出した。今度は少女も素直にそれを受け取ったが、じっくり眺めるとまた涙を溢れさせた。
「なっ……何でまた泣いてるんだよ!」
「だって、あんまり話したことないあなたにも、迷惑かけたと思ったら申し訳なくて……」
鼻をかむ少女の横で、少年はふてくされたように言った。
「……作戦だったんだ」
「え? 私を足止めする作戦でしょ?」
「それだけじゃなくて……。き、君に……」
少年の顔は真っ赤に染まった。
「君に『好き』って、伝えるための……」
「………………は?」
「だから……好「違う違う! リピートって意味じゃなくて、び、びっくりして……」
少女の顔も真っ赤になった。そして二人も緊張からか気まずい空気になっていた。
「君の友達に、協力を頼まれたんだ。告白の機会をやるからって……。でもあそこで君に見つかるなんて想定外で……」
「へぇ……。その作戦のシナリオ、詳しく聞かせてよ」
ぎこちない少女と少年はその場に座り込み、下校時刻になるまで話していた。
そして二人の関係がどうなったかは、二人と、歯医者をサボってこっそり覗き見していた、少女の友達だけが知っている。