とある秀才の災難
俺は走っていた。
敵に追われているからだ。
死に物狂いに、走っている最中なのだ。
努力の結晶と胸を張って自慢できる、そんなノートを抱えてながら。
もしも《奴ら》に捕まり、このノートを見られてしまえば、俺の半年間の努力は水の泡となってしまう。
それだけは……絶対に嫌だ!
額に滲む汗、かすれる呼吸。足全体が痛みで動かなくなりそうだった。
そんなときだ。
「見つけたぞ!」
どこからか声が聞こえた。
反射的に足を止め、目を凝らす。すると、数十メートル先に人影を発見。
――――そう、《奴ら》の一人が手を伸ばしながらこちらへ向かっていたのだ。
《奴ら》の特徴は、お祭りで売っているような、変なお面を付けていること。あいつは仮面ライダーのお面を付けている。あれは俺が八つのときに放送してた……って、そんなことはどうでもいい。
一度止めてしまった足は重たく、走ることを拒んでいる。だが、ここで諦めればすべてが無駄になってしまうのも理解している。
すぐに方向転換をすると、俺は元来た道を戻り、加速する。
機械のように、ただ足を動かす。
すると、階段の踊り場でまた別の《奴ら》の一人に会ってしまった。今度はひょっとこのお面だ。
「チッ……しまった!」
「フフフ……。観念しろ。そしてそれを我に渡すのだ」
誰がそんなこと……と言いかけたとき、背後の足音がどんどん近づいているのに気が付いた。
「……仕方ない!」
俺は踊り場まで階段を一気に駆け降りた。もちろん、渡す気なんてないのだが……。
「フハハ……。そうだ、我にそのノートを捧げよ!」
目の前の敵はなぜか喜んでいる。
「バーカ。誰がおとなしく渡すか……よっ!」
ノートを両手で強く抱くと、俺は思いっきり敵の弱点……を蹴りあげた。
「ひゃぁうぅ……っ!」
敵は即、その場に倒れこ……いや、股関節を抑えてしゃがみ込んだ。
その悶え苦しむ姿に少し同情し、手を合わせる……だが、時間はない。その痛みが伝染してくる前にそそくさと階段を降りた。
そして背後の敵を振り切り、また長い廊下を走っていたときだ。
「ノートを渡せ!」
俺は足を止めた。後ろでも前でもない、今度は声の出所がわからないのだ。
「おい、ここだ。さっさと渡せ!」
「……上か!」
天井を見上げると、《奴ら》の一人がトカゲのように、胸から足までをぴったりと天井に付けていた。しかし、顔だけを垂らしてこちらを見ている。すごく不気味だ。
「んなっ……!?」
さらに狐のお面のせいもあってか、ホラー映画のようだ。それに天井なんて想定外。
しかし、そいつは降りてこない。
「あっ。やべえ。外れない。あれ? ん?」
敵がおろおろしている間に、俺は逃げた。
「あ、待って! くっそう! 接着剤が強すぎなんだよう! おい、おぉぉい!」
涙声の訴えも、いつしか聞こえなくなった。
どれくらい、走ったんだろうか。俺は足を止めて、息を整えた。
「……ぁ、あーっ、もう。帰ろっ……」
そう呟いて、自分の荷物がある場所へ向かおうとしたとき。
突然、肩に何かが触れた。
「よっ。こんな所でどうしたんだ?」
「っ!?」
加えて背後からかけられた声に、俺は身を固くした。体中に電気が走ったような感覚がして、同時に恐怖と絶望感が俺を襲った。
「すげえ息切れてるけど、大丈夫か?」
だけどすぐにわかった。この声は《奴ら》なんかじゃなくて、あいつ……俺の大切な友人の声だ。
俺はゆっくりと振り返った。
そこには、期待した通りの顔が在った。変なお面なんかじゃない、友達の素顔が。
「……実はちょっと、追われていて。敵はこのノートが目当てなんだ」
「そうか、大変だな。……そのノート、何が書いてあるんだ?」
俺の腕の中を覗き込むあいつ。
「気になるなら、見るか?」
「え? でも、それを守るために今まで……」
「ああ。お前は、無理矢理奪おうとする《奴ら》とは違うからな。いいんだ」
あいつは受け取ったノートを戸惑ったように見つめ、そして――――
「……悪いな」
ニヤリと怪しげな笑みを浮かべ、ノートを持ったまま……逃げた。
俺は状況が飲み込めず、ただ呆然と立ち尽くしていた。が、すぐに状況を理解すると、我に返った。
「貴様らああっ! ノートは授業中にとれ! 提出直前に書き写すんじゃねええええ!!」
口の両端が、自然と上がっている。
必死に逃げていたはずなのに、大切な友人に裏切られたはずなのに。
いつの間にか、楽しんでいた。
「覚悟しろよ? 絶対に阻止してやる!」
そして俺は、また走りだすための一歩を踏み出した。