三十七話 逃避行
++逃避行++
まだ夜明けには早すぎる深夜。
男は不意に目を覚ました。覚醒しきらぬ目でぼんやりと暗い天井を眺め、少しの喉の渇きを覚えて、ゆっくりと身体を起こす。
隣の温もりを起こしてしまわぬように、静かにそっと。
「んっ」
小さな呻き声は、狭い部屋にあるもう一つのベッド、自分たち夫婦が歳を取ってやっと授かった、今年で12になる娘の眠る寝具に顔を向ける。
まだまだ幼い寝顔で寝息を立てる娘に、思わず笑みが浮かぶ。
殆ど何もない長閑な農村。年寄りばかりで、48になる自分たち夫婦でも若い方に入るこの村での暮らしは、けっして楽ではないし、便利でもないが、男も妻もゆったりと流れる日々の暮らしに、満足していた。
このままこの村で、質素ながら心安らかな日々を重ねていくのだと、口には出さないまでもそう信じている。
暗闇に慣れた目で、二人のかけがえのない者の寝顔を眺め、男はそっと部屋を出た。
甕から水を飲み、顔を上げた目の端に、赤い空が掠める。
男は眉を顰めその空を――いや、遠くその空の下で紅く染まる森を見て、呆然と呟く。
「なん・・・だ、あれは」
暫く立ち尽くしていた男は、それが何かを理解すると、考えるより先に叫んだ。
「・・・火事だ!起きろー。火事だー」
静けさを保っていた村の帳は、その叫びに破られた。
次々に起き出す村人が、寝惚け眼で寝巻きのまま飛び出してくる。
「火事だ!起きろー」
「火事だー」
男と同じくその光景を見た者たちは、家々の扉を叩きながら危急を報せる。
**** 同時刻 ****
「皆、起きろ!」
見張りのジョシュは、直に異変を感知し休息をとる他の5人をたたき起こす。
その声に、全員直に起き出し警戒態勢に入った。
「奴ら、森に火を放った」
「「「っ!!」」」
「正気か!?」
「ラジオールの村があるんだぞ」
「元々正気じゃないのだろう。人命救助のため、直に村へ向うぞ」
普段は穏やかな光を湛える萌黄色の眼を剣呑に閃かせる赤髪の隊長の指示に、一行は先ほどまで眠っていたとは思えぬ俊敏さで身支度を済ませると、足早に村へ向って出発した。
****
「村長」
「うむ。女子供、年寄りは避難を。男衆を集めよ。火の手が近付く前に、消火に向わせる」
村長は厳しい顔で村人に呼びかけた。
ジョシュたちが目的の村へと到着した時、村は消火部隊が集まり、女子供は持てる限りの荷を持って避難に懸かっていた。
「村長はあるか?」
緊迫した男たちに、村人はそれ以上の緊張と困惑を載せ顔を見合わせた。
そんな中、一人の老人が進み出る。
「ワシが、この村の長を務めております」
旅装の男達から貴族階級のにおいを嗅ぎ取り、村長は丁寧に対応する。
「私はディオルグバーン公の騎士だ」
言って、ジョシュが騎士章を見せた。直に膝を突こうとする面々を制し、ジョシュは続けた。
「所用で近くに夜営をはっていたのだが、この事態に避難を誘導しに参じた」
「お待ちください。俺たちは逃げる気はねぇんです」
村長の後ろに控えていた壮年の男が、慌てたように進み出た。
「今から、この者たちと消火に向うつもりでございました」
説明を付け加える村長を遮るように、ジョシュの後ろにいた騎士が口を開く。
「難しいかもしれない」
その騎士の言葉に、ジョシュは首を傾げる。
「と言われますと?」
「まだ風霊をやって調べているところだが、これは恐らく――」
『こんばんは、村人の皆さん』
騎士の言葉が、遮られる。
その声に、村人と騎士たちは姿を探すように辺りを見渡す。
唯一人、続く言葉を呑んだ騎士だけが、険しい顔で虚空を睨みつける。
「何者だ」
『通りすがりの旅人です。お気づきかとは思いますが、先ほど火事が発生しました。この火は精霊魔法で生じたものなので、水霊による消火以外は無意味かと。周囲約8ローグで同時に放火されていますが、まだ火の手の及んでいない所はあります。避難経路を確保します。此方ももう直そちらに到着するので、皆さんは避難の準備を』
「「「「なっ」」」」
その場の誰もが、不審と警戒と驚愕を示すが、それに一切取り合わず消えた声に、ジョシュは空を睨み続ける騎士に確認を執る。
「今のは」
「風霊によるものだ。術師だな」
「あちら側の者か?」
隊長格の騎士が問う。
「わからぬ。が、力は中級以上だ。このタイミングでこの地に中級術師がいるには、都合がよすぎる。その可能性が高いな」
藍色の騎士の返答に、騎士たちは警戒を強くした。