三十二話 狂気
老人は、明かりもつけずに外を見ていた。
レンズ越しの険しい顔は、常の慈愛に満ちた微笑みを知る者が見れば、別人に見えたかもしれない。
少し頬がこけ、皺も深くなっている。
コンコンッ
背後のドアがノックされたが、老人はそれに反応することなく、窓に向いている。
「師匠、起きておいででしょう?いい加減に此処をお開けになって、私の話を聞いて貰えませんか?」
扉越しに伺うようなネコ撫で声に、老人は苦々しく返す。
「何度来ても、返事は同じ。答えは否です。帰りなさい」
険を深くして吐き捨てられた答えに、ジャスティは不思議そうに首を傾げた。
「師匠、何をそのようにお気に召さないのですか?話してくださらなければ、分かりませんよ」
ドクティアは眉間の皺を深くして、荒立つ気持ちを落ち着けるために、大きく息を吐き出し、そばの椅子に座った。
「分からないのですか?ジャスティ。私は貴方の行い全てに、腹が立って仕方がありません」
「何がですか?私は師匠のご意向に背いた覚えはありませんが」
ぬけぬけと言い放たれた言葉に、ドクティアはカッと目を見開く。
「白々しい!何が、私の意向に背いていないですか!!君は、自分が何をしているのか、分かっているのですか?」
珍しく声を荒げるドクティアに、扉越しの弟子は顎に手をやり、眼を細めて考える。
「当たり前です。正統な後継者たる我が皇子、ユーリ様を次期に据え、正しい血統に帝権を返上願うため。第一皇子殿下には分を弁えていただき、陛下には退位していただく。唯それだけのことでしょう?」
「君は・・・・!」
最早声も出ないドクティアに、更に畳み掛けるようにジャスティは続ける。
「師匠、一番弟子の私をユーリ様に御付になったのは、師匠ではありませんか」
「・・・それが、何だと言うのですか?」
言葉の通じぬ相手に、疲れたようにドクティアは訊ねる。
「私は師匠の後を継ぐ医術師ですよ?次代の筆頭医師です。つまりは、次期皇帝の主治医になる医者です。師匠が第一皇子にあの出来損ないを就けたという事は、師も第一皇子が皇太子に相応しくないとお考えだったからでしょう?クラヴィス公の御孫、ユーリ様こそ次期皇帝たる真の皇太子だとお思いだからこそ、私をユーリ様にお就けになられたのではないですか。師匠の御考えの通り、ユーリ様は本当に聡明で、素晴らしい主です。正に、今の堕落しきった帝国を是正し、繁栄させる生まれついての覇者」
一種異様なまでの信望心に、ドクティアは言葉もなく沈痛な面持ちで扉を見詰め、痛ましさの余り顔を背けて目を閉じた。
「師匠の御考えは正しかった。その点、陛下は間違った選択をしてしまったのですよ。だからこそ、臣民の離反を招いた。こうなるべくしてなった結末なのでしょう」
「なるべくしてなった!?ふざけないでください。陛下は――」
「師匠、意地を張るのもいい加減にしてください。クラヴィス公は寛大な方なので、師匠のお気持ちが固まるのを待っていてくれておりますが、物には限度と言うものがあるのですよ?陛下も、無為に苦しむ時間が続くのは御辛いでしょう。主治医として、楽にして差し上げるのも、医者の務め。次に参ります時が、最後ですよ」
言い置いて、ドアの向こうの気配は遠ざかっていった。
ドクティアは片腕で顔を隠し、深く腰掛けた椅子に疲れたように身を沈めていた。
「ルド様」
何処で間違ってしまったのか。弟子の狂気に満ちた思想と、もう一人の弟子の―この部屋に自主幽閉する前に見た最期の顔を思い出し、静かに涙を流した。
闇に捕われそうになる、鬱々とする気分を少しでも引き上げるために、ドクティアは縁契約を結んだことで感じる、主の微かな生命を探る。
『――』
締め切った部屋に、清浄な風が舞い降りた。
愛弟子の狂気に触れ、絶望に沈みそうになドクティアは、紛い物であれその一条の光に縋るより他に、道は無かった。