十四話 亀裂
怒号に近い静止が夜闇に消えない内に、アルフォンの手首を噛み砕こうとした牙が肌に喰い込む寸前で停止し、急激に炎上した焚き火の炎が、元の大きさに戻る。
それを確認し、ハルキは大きく息をついた。
「紫狼、大丈夫だから。退け」
ハルキの命に、紫狼がゆっくりと口を開き、アルフォンと距離を取る。
その状況にと言うよりは、ハルキが上げた怒号に驚き、固まったアルフォンの手を、ハルキは思い切り振り払った。
その際ずれた帽子を脱ぎ、ギロリとアルフォンを睨み据える。
「死にたいの?」
聞こえたのは、酷く冷めた声。
その声に、アルフォンはやっと状況を飲み込み、しかし溜飲を飲みきれず眉を顰める。
アルフォンとしては、ハルキに攻撃しているつもりはなかったが、それを勘違いした騎獣と精霊が、アルフォンを排除しようとしたのだと分かる。命を救われたのだとも。
だとしても、だ。アルフォンにすれば、ハルキのとった行動はどうしても納得できるものではなかった。
譲る気のないアルフォンは、咎めるように睨んでくるハルキを睨み返す。
暫くして、ハルキのほうが先に呆れたような溜息をついた。
「フォン、言いたいことは分からんでもない。が、私の言ったことも忘れてない?言ったよね?私は精霊もいるし、それなりに腕はあるって」
「それは、知ってる。だが――」
「それ以前に、私の力を当てにしたのは誰?私と約束したのは誰だ?」
畳み掛けるようにアルフォンに詰め寄るハルキに、アルフォンは黙り込み、眉間の皺を深くして視線を逸らす。
「ハァッ。心配してくれるのは、嬉しくはないけど、有難いし、気持ちも分からんでもない。相手の力量知らないんじゃ、口だけで何言われたって分かんないのも分かる。が、お宅、私の腕を多少は買ったから契約したんでしょ。私、貴方の護衛が仕事。こんなんで一々怒ってて如何すんの。今後こういう場面いっぱいあるの、分かるでしょ?」
あたかも年下に言い聞かせるように諫めるハルキの言うことは、アルフォンとてよくよく分かってるし、理解もしている。ハルキの力が使えると思ったのも、契約を交わしたのも、アルフォンだ。実際に見なくとも、相当な力量の持ち主だとも分かる。が、理解してはいても、理性が追い付かなかった。
言葉にしなければやり場のない感情など、アルフォンも生まれて初めてだ。持て余す気持ちのままに、理性が追いつく前に手と口が出た。
「・・・・分かってる」
押し殺したような声で短く答え、葛藤するように黙り込むアルフォンを、ハルキは半眼で見詰め、諦めたように息を吐く。
「フォン」
呼びかけに答えぬアルフォンに、ハルキはもう一度声をかける。
「契約取り消してもいいけど、如何する?」
「それはっ」
ハルキの台詞に、アルフォンは弾かれた様に視線を戻し狼狽を示すが、続く言葉に詰まる。
「信頼しろとは言わない。けど、それなりの信用くらいはしてもらわないと、守るものも守れない。如何する?決めるのはそっち。巻き込まれたのはこっち」
返事を分かっていて、ハルキは敢えて問う。
「・・・・・・・・・取り消しは、しない」
アルフォンの返答に、ハルキは投げやりに言葉を続ける。
「じゃ、私には私のやり方がある。文句を言わず、大人しく守られる。それが出来ないんなら、他あたって。一々、めんどくさい」
容赦なくばっさりと言い捨てるハルキに、アルフォンは渋面する。
「今後、私のやり方に一切文句を言わない。了解?」
一本調子な声音に、ハルキの苛立ちを見て取り、アルフォンは座り込み肺が空になるまで息を吐き出す。
「分かってる。信頼していないわけではない。ただ・・・・いや、何でもない。クソッ」
アルフォンの落ち込みように、流石に気の毒になったハルキだったが、こればかりは譲れない。
しゃがみ込み、組んだ掌に額を乗せ俯くアルフォンと、如何フォロー入れようか迷うハルキの気まずい沈黙を破ったのは、アルフォンだった。
顔を上げないまま、アルフォンは低くくぐもった声で問う。
「怪我は?」
ハルキは直に反応し、首を振る。
「ないよ」
「殺したのか?」
温度を感じない冷淡な質問に、ハルキは否定で返す。
「殺してない」
そこでやっと顔を上げたアルフォンは、酷く疲れたように苦悶を滲ませた顔に、何処か安堵を載せた溜息をつく。
「そうか」
「フォン」
「ん?」
声まで疲れ切っているが、表情は先ほどまでと違い、少し穏やかになっていた。
「私、殺しはしないから。大義名分のために、他人の命を取るつもりはない」
ハルキの言葉に、先ほどまでとは違う意味で眉間の皺を深くする。
「それは・・・」
「分かってるよ。甘いってことは。でも、私は他人の命を奪ってまでも生きようとは思ってない。だから、貴方のために殺しもしない。それで恨まれようと、罵られようと、私は考えを変えるつもりはない」
「殺されても?」
「人を生かすのは、人を殺すことより難しいのは知ってる。でも、それでも殺したくないんだ」
理想論だ。甘すぎて、反吐が出る。が、それは剣を握るものが、力を持つ者が一度は望む夢だった。
殺される前に、殺さなければ、下手な温情や温い考えは、要らぬ恨みと争いの種を生む。
それを分かり思い知らされたからこそ、アルフォンは己の手を汚してきた。直接的にも、間接的にも。
「言いたいことは分かるよ。不要な争いの芽は速く摘んでおくべきだって。殺さざるを得ない状況だって、あるのは分かる。特にフォンは、綺麗事だけで生きていけない。だからかな、何の柵もない私だから、これだけは譲れないの。綺麗事だって分かってても、他人に謗られ様と、私は直接人の命を奪いたくないし、目の前に助けられる命があるなら、多分迷いながら助けちゃうんだろうな。私が出来るのは、人を殺さない覚悟と、生かす覚悟だけだから。そのために、人を傷つけるのも、憎まれるのも厭わない」
静に決意を燃やす目に宿る覇気が、その言葉を単なる理想ではない事を物語っていた。
「国を背負う立場にある皇族である以上、私の考えに賛同しろとは言わないし、フォンが皇子として直接的にでも、間接的にでも人を殺すことを、私は否定はしない。まぁでも、フォンがそれを望まないなら、友としてそうならないように協力くらいはするから、フォンも私を否定しないでくれると嬉しいな」
そう言って、淡く微笑むハルキの笑みに、アルフォンは数瞬見惚れる。
「・・・・・一つだけ、約束しろ」
夢見る子供の理想論。そう言ってしまえば、それまでだ。一般人であれば、ただの平民であれば、それは不可能ではなかっただろう。シュヴァイツは、治安も生活環境も安定している。だが現実問題、アルフォンの傍にあってそれは不可能だ。現に、もう嵐は始まってしまっている。今回の騒動で、もはや死人を出さずに済ますことは出来ないだろう。
それが暗殺者であれ、敵方やこちら側の人間であれ。それでも、ハルキが綺麗に笑うから、アルフォンはそれを否定することは出来なかった。
変わりに口に出たのは、一番に頭に浮かんだ願い。
「死ぬな」
巻き込んだ己が言えることではなかったが、それだけは、譲れないものだった。
「殺せないなら、途中で逃げてもいい。だから、絶対に死ぬな」
懇願を滲ませる紅と差し出された小指を立てた手に、ハルキは少し驚きに目を見開き、次いで満面の微笑を向けた。
「分かった。約束しよう。その代わり、フォンももう少し私を信じろ」
立てられた小指に己のそれを絡め、ハルキはアルフォンと二つ目の約束を交わした。