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白日夢 -エーゲ海に捧ぐ鎮魂歌-  作者: 北峰


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第七話 黄金への道

「旦那様、ご報告申し上げます!」


 レオゴラスの部屋に慌しく従者が転がり込んできたのは、夜半過ぎのことだった。とはいえ彼はまだ床についておらず、相変わらず酒をあおっていた。


「いったい何事だ?」

「かの虜囚が、旦那様にお伝えしたいことがあると申しております」


 その報告を受けると、レオゴラスは杯を台に置きながら鼻を鳴らした。


「ふん、案外折れるのが早かったな。まあよい、ただちにここへ連れてまいれ」


 しかし、その命令に従者は頷かず、口ごもりながら答えた。


「いえ、それが……恐れ多くも、旦那様に地下までお越しいただけなければ、決して話さないと申しておりまして……」

「何だと?」


 レオゴラスの眉が跳ね上がる。その様子に冷汗を流しながら、従者はおずおずと訊ねた。

「いかがいたしましょう……こちらまで連れてきて吐かせますか」

 だが、レオゴラスは首を振った。


「いや、よい。それでは話さないと言っておるのだから、こちらから出向くとしよう」

「しかし、虜囚の指示に従うなど……」

「この際、手段など選んではおれん。それに、奴の最期の望みくらい聞いてやってもよいだろう」


 レオゴラスは厳かに言い放つと、長椅子から腰を上げた。もはや一刻の猶予もならないこの時に、無駄な時間を浪費したくはなかった。古の黄金を得るためなら、わずかな手間など惜しんではいられない。


 長年求めてきたものが間近に迫っているとあって、彼はこの時、いつになく気分が高揚していたのだろう。周囲に目を配ることさえなく、彼は足早に部屋を出ていった。

 そして、室内が無人になるとまもなく、様子を窺っていた二つの影がするりと中に滑り込んだ。


「どうやらうまくいったみたいね」


 静かに扉を閉じると、影の一つが嬉しげな声を上げる。


「ここまでは順調のようですが、今のうちに早く済ませなければなりませんよ、お嬢様」

「わかってるわよ。リュシアスが時間を稼いでいる間に見つけ出さないとね」


 忍び込んだ二つの影――イリアとラウィニアは、そう言うと早速作業に取り掛かった。


 レオゴラスがリュシアスに引き止められている間に、彼の部屋を探ることが彼女たちの目的だった。ひとまずレオゴラスは黄金の情報欲しさに地下まで行ってしまったので、目的の半分は達せられた。後は、彼が戻ってくる前に残りの半分を仕上げてしまえばよい。

 だが、その作業がいくらも進まないうちに、イリアは半ば呆れたような声を上げた。


「それにしても……この部屋の壁ときたら、どこもかしこも文字だらけね。探し出すのにも骨が折れるわ」


 イリアは部屋中を見回して、大きく溜息をついた。彼女はこれまで父親の部屋に入ったことは滅多にない。しかも幼い頃は、文字という概念すらなかったのだ。今、改めて見てみると、実に大量の文字があちこちに刻まれていることに気づかされる。


「本当ですね……」


 ラウィニアもその文字の多さに圧倒されながら、相槌あいづちを打った。

 イリアたちの住む屋敷は、はるか昔に建てられたものだという。アルゴス湾一帯の先住民を打ち滅ぼした時に奪い取ったそうだから、それが真実なら二百年以上も前から建っていることになる。もちろん、幾度も改修はされているが、この部屋の内装はほとんど手付かずのまま残されているらしい。


 長い年月の間に、屋敷の主も幾度も代替わりした。その彼らによって受け継がれてきたのだろうか。白い石を積み上げてできた、この部屋の壁の至るところ、尖ったもので掻いたような文字が刻み込まれている。


 その中に、先住民によって文字の刻まれた壁石があるという。彼らが最後に残した、祈りの言葉が彫られた石を探し出し、下に向けて強く押すこと――それがリュシアスの指示だった。

 それを遂げるため、彼女たちは今、レオゴラスの部屋に忍び込んで壁の文字を丹念に探っている。


「まったくもう、字が薄くなっててよくわからないわ」


 イリアはぼやきながら、壁石の一つを拳で叩く。もちろん、そんなことをしても石はびくとも動かない。


 彼女はリュシアスから託された布を広げ、壁の文字と一つ一つ照らし合わせていた。だが、文字のほとんどが古びて読めなくなっているので、どれが目的の石なのか見当もつかない。そもそも彼女は文字を読むことができないので一字ずつ形を確認しているが、それでは膨大な時間がかかってしまう。


「こうなったら、いっそ片っ端から石を押していった方が早いかもしれないわね」


 大きく息をついて、イリアは振り向いた。だが、返ってきた言葉は、彼女が予想していたものとは違った。


「お嬢様は……なぜリュシアスを助けようとなさるのですか」

「なぜって――いきなり何を言い出すの?」


 イリアは怪訝な顔で聞き返した。ラウィニアは目を伏せながら、苦い声を押し出す。


「あの男は自分の素性を偽っておりました。お嬢様を欺き、今も利用しようとしているのですよ。それなのに、なぜ……」

「じゃあ、どうしてラウィニアは私にこの布を渡してくれたの? 黙っていれば、私だって助けようにもできなかったのに」

「それは……」


 問い返され、ラウィニアは言葉に詰まった。その質問に簡単に答えられるのなら、これほど悩むこともなかったのだ。彼女自身、リュシアスの思惑通りに動くことを頭では拒んでいるのに、こうして実行しているのだから。


「放っておけば死ぬとわかっているのに、目を背けて逃げることができなかったんでしょう? 私も多分同じよ」

「私は――……」


 そういうわけでは、多分ない。ラウィニアは思う。だが、そう否定するだけの理由がうまく思い当たらないのだ。

 口ごもるラウィニアを見やると、イリアは再び壁に視線を戻した。


「さあ、急ぎましょう。早く見つけないとお父様が戻ってくるわ」


 そう促しながら、イリアは壁の石を一つずつ叩き始めた。せっかくリュシアスから託された布は、どうやら意味がなさそうだ。一文字ずつ照らし合わせていては、いつになっても終わらない。


 黙々と作業を再開するイリアの真剣な顔つきに、ラウィニアは目を伏せる。そして、ようやくの思いで苦い声を押し出した。


「お嬢様は……リュシアスのことを好いておられるのですか」


 その問いに、イリアは作業の手を止めて振り向いた。


「そういうことじゃ、ないと思うわ」


 やや固い声で答えながら、イリアは急にリュシアスを拾った時のことを思い出した。

 家にいると気が塞ぐからと、特にあてもなく街へ出かけたあの日。ほんの気まぐれで、滅多に通らない道を何となく歩いてみたくなって、遠回りして帰ろうとした。


 気まぐれと偶然が導いたとしか思えない。何かがほんの少しずれていただけでも、きっと出会うことはなかっただろう。かえってそのほうが、こんな面倒をかけさせられずに済んだのかもしれない。


 夕暮れ時の薄暗い小路の脇で、崩れかけた壁に寄りかかるように倒れた人影を、彼女は見つけた。


 ――死んでいる。


 第一印象はそれだった。枯れたように乾いた肌。固く閉ざされた瞳。痩せて筋張った体。一目見ただけで、それは死体だと思った。その印象があまりに強烈すぎて、実際には息があるのだとわかった後も、彼に対して特殊な感情など抱きようがなかった。


 死体と思ったものが生きている――そのことが彼女にとって大きな衝撃だったのだ。生まれて初めての人助けに自分自身、興奮していたのかもしれない。

 だからこそ、彼を今死なせてしまうのは惜しい。きっとそういうことなのだろうと彼女は思う。――もちろん、自分の感情をいつも正しく把握できているとは限らないのだけれど。


「一度助けたのに死なせたりしたら、寝覚めが悪いでしょう?」


 記憶の情景を頭の中から追い出して、イリアは軽く受け流す。だが、ラウィニアはまだ引き下がらなかった。


「あの男は、自分たちの種族が滅ぼされたことを怨んでおります。恐らく私たちもその仲間として激しく憎んでいるでしょう。それでもなお、助けたいとおっしゃるのですか」


 リュシアスが自分たちを怨み、憎んでいることくらい、イリアにだってわかっていた。リュシアスの仲間も土地も何もかも、奪ったのは彼女たちの祖先。彼女たちが暮らしているこの場所は、本来ならリュシアスたちのものだったはずだ。もし自分なら、自分のものを奪い取った奴らを許すことなどできない。きっと怨むし、憎まずにはいられないだろう。


 だが、イリアは自分の内心を吐露することはせず、逆に少々おどけてみせた。


うらまれているのなら、いっそう恩を売っておかなくちゃ。死んでから祟られても困るでしょう?」

「そういう問題では――」


 眉間に皺を寄せて、ラウィニアがなおも言いつのろうとしたその時、突如として別の声が割り込んできた。


「そこまでですぞ、お嬢様」

「コノン……!」


 入り口を振り向いたイリアは、その人影を認めてあえいだ。この屋敷の中で、父親の次に厄介な人間が、顔を奇妙に歪めて彼女たちを悠然と見下ろしていたのだ。


「旦那様のおられない部屋で、何をなさっておられますか」

「べ、別に……ただ、お父様にちょっとお話があっただけで……」

「このような夜更けに話とは、ぜひ聞かせてもらいたいものだな、イリア」


 彼女の抗弁を強引に遮った声に、イリアは息を呑んだ。


「お父様――」


 それ以上、言葉が続かない。つい先ほど部屋を出て行ったはずの父親が、いつも以上に厳しい顔で娘を見据えていたのだ。


「蛮族の男といつのまによしみを通じたか知らぬが、人の部屋をこそこそと嗅ぎ回るのは感心せぬな」


 初めから自分たちの行動は監視されていたのだ。そのことに今さらながら気づいたが、もう遅い。


「まあよい。黄金への道がわかれば、奴に用はないからな」


 それまでしかめていたレオゴラスの顔が、にわかに綻んだ。と同時に、彼は娘に向かっておもむろに手を伸ばした。イリアは、はっとして身を引いたが、レオゴラスの手のほうが素早く、力強かった。


 彼は、娘の手に握られていた布きれを半ば強引に奪い取ると、両手で持って広げた。リュシアスの血によって記された文字の列が、部屋の灯火に照らされて赤々と浮かび上がる。それを見やりながら、レオゴラスはゆっくりと唇の端に笑みを浮かべた。


「これが道を開く鍵か。よくやった、イリア」

「嫌! 返して、お父様!」


 イリアは父親の手から、その布を奪い返そうとした。だが、行動に移すよりも早く、いつの間にか背後に回っていたコノンが、彼女の両腕を捕らえてそれを阻んだ。

 無駄とは知りつつも、もがいて逃れようとするイリアを一瞥しながら、レオゴラスは厳かに口を開いた。


「この街は危機にひんしておる。それを救うにはこうするしかないのだ」


 だが、父親のもったいぶった台詞は娘に少しも感銘を与えなかった。イリアはいっそう顔を紅潮させて父親をなじる。


「だからって他人を犠牲にしてもいいの!?」

「奴は所詮、よそ者だ」


 そう吐き捨てて、レオゴラスは再び娘を諭そうとする。


「奴は我々を憎み、呪っている。おまえは奴にただ利用されているに過ぎぬのだぞ」

「利用されて何が悪いの!? お父様だって、他人を利用して財宝を手に入れようとしているんじゃない!」

「……おまえには事の重大さがわからんのだ。もうよい。コノン、イリアを連れてゆけ。しばらく部屋に閉じ込めて頭を冷やさせよ」

「お父様!」


 イリアは絶望的に叫んだ。まさにその時、彼女は見た。父親の真後ろの石壁に、刻まれている文字の列を。


「お嬢様!?」

「イリア! 何をする!?」


 同時に叫んだのはラウィニアとレオゴラスだった。イリアは自分を取り押さえようとするコノンの手を振りきると、驚くレオゴラスを押しのけて壁に向かって突進した。


 誰も制止する暇さえなかった。呆然とする彼らの目の前で、イリアは勢いに任せ、文字の刻まれた石を叩くように力強く押し込んだ。すると、その石は思いのほか呆気あっけなく、ごろんという音を立てて外れた。


「イリア? いったい何を――」


 いぶかしがるレオゴラスの眼前には、拳が二つほど入りそうな穴が開いていた。壁の奥に空洞ができていたのだろう。イリアが押し込んだ石は、その中に落ちて消えていた。

 眉をひそめながらレオゴラスがさらに問いただそうとした、まさにその時。


「な、何だ!?」

「―――――――!!」


 レオゴラスの動揺した声に、ラウィニアの悲鳴が重なった。

 突如、足元から突き上げられるような激しい衝撃が彼らを襲った。この時、壁に手をついたままだったイリアは、お蔭で転ばずに済んだ。強い揺れの中で何とか体勢を保とうと壁に身を預けながら、イリアはようやく大地が強く震動しているのだと気づいた。


 一方で、イリアを再び取り押さえようと手を伸ばしていたコノンや、先刻まで酒をあおっていたレオゴラスは、彼女と違って体の均衡を崩し、床に転倒してしまった。

 だが、今はそんな無様な姿を笑っているような時ではない。これが好機だと真っ先に気づいたのはラウィニアだった。


「お嬢様、こちらへ!」


 ラウィニアは激しい揺れの中、転ばないよう注意しながらイリアの手を引っ張り、急いでレオゴラスの部屋から逃げ出した。


 背後で「待て」と呼び止める声が上がったが、ここでそんな命令を聞く馬鹿はいない。突然の大地の鳴動に慌てふためく人々を押しのけ、蹴散らし、二人は裏庭に飛び出した。


 広い屋敷であるため、戸外に出るまでにずいぶんと時間を食ってしまう。揺れる地面を無茶して走ったこともあって、庭に出た時は二人とも息が上がっていた。

 何とか呼吸を整えながら、彼女たちはいつの間にか大地の震動が止まっていることに気づいた。


「いったい……何だったのかしら……?」


 まだ荒い息を吐きながら、イリアは首をかしげる。しかし、ラウィニアは彼女の質問には答えなかった。息が上がっていたせいではない。彼女はイリアではなく、はるか遠くの影に目を奪われていたのだ。主人の問いに答える代わりに、ラウィニアは遠くを指差して叫んだ。


「――お嬢様、あれを!」




 冷たい石畳に腰を下ろしていた彼は、ゆっくりと立ち上がった。その動作はなめらかで、見ている者がいれば、負傷しているとはとうてい思えなかっただろう。

 赤く腫れ上がった手首を少しさすりながら、彼は一人呟いた。


「――ようやく、道が開いたようだ」

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