第六話 託された文字
リュシアスはレオゴラスの部屋から引きずり出されると、地下の一角にある狭い牢に押し込まれた。牢内では縄を解かれたが、冷たい石畳に転がされたまま、彼は身じろぎ一つしなかった。知らない者が見れば、死体かと疑うところだろう。
うつ伏せて倒れたまま、彼はじっと耳を澄ませていた。そして、耳をつけた石畳を通して、足音が次第に近づいてくることを知った。
やがてその足音が牢の前で止まると、ひんやりした地下に聞き覚えのある声が響いた。
「お嬢様には、とてもお見せできない姿ですね」
暗い地下に反響するその声の主を、リュシアスはわずかに首を動かして仰ぎ見た。
「君が来てくれるとは思わなかったな」
「勘違いしないでください。助けに来たわけではありませんから」
殴られて腫れた頬にかすかな笑みを浮かべるリュシアスに、ラウィニアは冷たく言い放つ。そして彼女は牢の格子の内側に、持っていた皿を無造作に突き出した。
「あなたが口を割らなければ、恐らくこれが最後の食事になるでしょう」
事務的なことだけを告げる彼女の口調は、どこまでも冷然としている。だが、粗末なパンと野菜くずを差し出されたリュシアスの口調は、虜囚の身ながら彼女よりも明るかった。
「なるほど、後は飲まず食わずの楽しい拷問が始まるってわけだね」
「……少しは自分の身を心配したらどうなんですか」
おどけたような口ぶりに、ラウィニアは眉をひそめた。だが、彼女のその言葉に、リュシアスは片眉を上げて意外さを示した。
「君は僕がどうなっても構わないんじゃないのかな?」
「……私は、お嬢様が嘆かれるのを見たくはありません。ですから、あなたが知っていることを話して、ここから早く出て行ってもらいたいと思います」
少し屈折した言い方ではあったが、それはラウィニアの本心だった。彼女自身は、リュシアスに対して好意も執着も何もない。だが、この男が殺されるようなことになれば、彼女の主――世間知らずなくせに正義感が人一倍強い少女は、きっと悲しむだろう。嘆き、憤る姿が想像できるだけに、ラウィニアはそうなることをなるべく避けたかったのだ。
それに、よそ者とはいえ人一人が無残に殺されるのは、あまり快いことではない。
「君は正直でいいね」
ラウィニアの本心を読み取ったのか、リュシアスは小さく笑った。だが、次に彼が口にした言葉は、その微笑にはふつりあいなほど手厳しいものだった。
「だけど、たとえ僕が何かを話したところで、ここの主人は僕を生かして放免する気はないだろうよ」
「旦那様は厳格ではあっても、無慈悲な方ではありません」
「それは同胞に対してだけだ。古の蛮人をいたぶることには、何の躊躇もないだろう」
屋敷の主人を擁護するラウィニアの発言を、リュシアスはあっさり切り捨てた。先ほどまで微笑でゆるんでいた表情は、いつのまにか引きしまっている。
反論を許さないきっぱりした声音に、ラウィニアは言葉を失った。格子越しに虜囚を見つめたまま立ち尽くすラウィニアに、彼は突然、懐を探ると何か布のようなものを差し出した。
「――これを彼女に。字は読めなくても、見比べればだいたいわかるだろう」
格子から手を出して、リュシアスはそれをラウィニアに押しつけた。地下の暗がりではよく見えないが、どうやらその薄汚れた布きれには、何かの文字を書きつけてあるようだった。
「いったい何を……。これ以上、お嬢様に関わらないでください!」
半ば強引に手渡された布と、リュシアスの顔とを交互に見比べ、困惑しながらラウィニアは叫んだ。しかし、彼女が拒もうとするのも聞かず、彼は自分の言いたいことだけをさらに告げる。
「もし君が、彼女の嘆く姿を見たくないのなら、これを渡してほしい」
「……私が渡さなかったらどうするんです」
ラウィニアはリュシアスを睨みつけた。虜囚のくせに、明日の命も知れないくせに、まるでそうするのが当たり前のように指示を出すリュシアスが、心底憎らしかったのだ。それなのに、当の本人は鋭い視線を受けても、至って平然としている。
「どうしようもないね。でも、きっと君は渡すよ」
ここまで言われては、押し返すこともできない。仕方なく汚れた布きれを握りしめながら、ラウィニアは冷たく言い放った。
「一応預かってはおきますが、期待しないでください」
それで充分だと言わんばかりに、リュシアスは薄く笑む。その微笑に、ラウィニアはなぜか怯んだ。相手はたかが牢内の無力な虜囚――そのはずなのに。
思わず半歩退いたラウィニアに、ゆるい微笑を浮かべたまま、彼は再び口を開いた。
「じゃあ、ついでに伝言も預かってくれないかな。届けるのはそれと同じく、君の自由だけど」
彼女にそれを拒んで立ち去るだけの余裕は、もはやなかった。
「ラウィニア!」
部屋に入ってくる人影を認めると、イリアは慌てて駆け寄った。彼女は自室でラウィニアの帰りを今か今かと、苛立ちをこらえながら待ち構えていたのだ。
「どうだった? リュシアスは無事?」
「ええ……目に見えてひどい怪我もありませんでしたし、今のところは大丈夫です」
それを聞くとイリアは、ほうと息を吐き出した。
父レオゴラスの元へ連行されていったリュシアスの身を、彼女はずっと案じていた。どうやら地下牢に押し込められたらしいことはわかったが、それだけではまだ心配の種は消えない。そこで、牢へ食事を運ぶ係をうまくラウィニアに代わらせて、彼の様子を探ってもらうことにしたのだ。あまり気の進まないラウィニアを拝み倒してまで――。
こんな時、自由に動き回れない自分の身がひどくもどかしい。昼間に屋敷を抜け出す程度のことはできても、さすがに「お嬢様」が地下牢にまで出入りするのは不可能なのだ。
それでも、どうやら今のところは無事らしいと知って、イリアはいったん胸を撫で下ろした。
「そう……よかった。でも、お父様のことだから、これから何をするかわからないわ。今日だってコノンたちに、私の跡をこっそりつけさせていたんだから。リュシアスのことだって……私よりもずっと詳しく知っていたみたいだし……」
途切れがちなイリアの言葉を聞きながら、ラウィニアはしばらく迷った末、ついに懐から布の切れ端を差し出した。イリアは受け取りながら、怪訝な顔で訊ねる。
「これは?」
「リュシアスから、お嬢様にお渡しするようにと……」
結局リュシアスの言った通りになってしまった、とラウィニアは小さく歯噛みする。別に、彼の手助けなどしたくはない。だが、リュシアスを案じるイリアの様子を見ていては、これ以上黙っていることはできなかったのだ。
一方、イリアはラウィニアから渡された布の切れ端を広げると、驚きの声を上げた。
「これは……血だわ。リュシアスが自分の血で文字を書いたのね」
そこには、リュシアスが自分の指先を切って、その血で書いたと思われる文字があった。もちろん、イリアはそれを見ても何と書いてあるのか読むことはできない。だが、この形には見覚えがあった。そう――確かにこれは、物見櫓の上でリュシアスとともに唱えた、あの「祈りの言葉」と同じ古の文字に違いなかった。
血の文字を食い入るように見つめるイリアに、ラウィニアはわずかに目を伏せながら、リュシアスから託された言葉を伝えた。
その指示は、さらにイリアの想像を超えていた。だが、彼女はいつまでも驚いてはいない。血の染みた布きれをぎゅっと握りしめ、彼女は決然と告げた。
「じゃあ、早速行きましょう。彼がまだ無事なうちに」
そう言うや否や、イリアは足早に歩き始めた。まるでその後ろにラウィニアがついてくることを、微塵も疑っていないかのように。
その背を見つめながら、ラウィニアは小さく息をつく。
こうなることはわかっていた。それでもこのまま黙っていることは、どうしてもできなかったのだ。さらに苦い表情を浮かべながら、彼女は若い主の背中を追った。




